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天国で一番偉いもの (マタイ18:1~10)

メッセージ

2015年11月15日富里キリスト教会

「天国で一番偉いもの」
(マタイ18:1~10)

1.誰が一番偉いのか

今日の聖書箇所を読んでみましょう。「その時、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか。』と言った。そこでイエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。』」             (マタイ18:1~5)

会社とかスポーツの世界とか習い事の世界でしたら、誰が一番かということが気になる世界でしょう。みんなトップを目指して、しのぎを削っています。店の売り上げ、成績の上位、東大に何人入ったか、オリンピックもノーベル賞もみな金メダルを目指しています。そして実は、教会の中でもこの競争があるということです。弟子たちがイエスのところに来てこう尋ねました。「先生、いったいだれが天国で一番偉いのでしょうか。」ちょっとこれは露骨な質問ですね。
教会にたとえるならば、どなたかが牧師のところに来て、「先生、教会では誰が一番優秀なのですか。」「だれが一番偉いんですか。」と尋ねるようなものです。

またこの後の20章でも、弟子のヤコブとヨハネの母が、イエス様に「先生あなたが王座に着く時には、わたしの二人の息子、ヤコブとヨハネをあなたの右と左に座らせて下さい。」とお願いしております。(マタイ20:20~28)弟子達ばかりではなく、親たちも一緒になってわが子の出世のためにお願いしているのです。その時、この抜け駆けをしようとした二人の弟子のことで、弟子の間で腹を立てるという事件が起こりました。もめごとが起こったのです。

教会でもわれこそは一番だと思う時に、教会員同士の中で不満や反発が起こります。自分の方が上だ、いや私の方がふさわしい、できると信徒の間でも争いになります。よく言われることですが、中東地域ではないですが、教会の中にも火薬庫といわれる危険な場所があると言われています。それは、台所とピアノの場所だと言われます。台所では誰が食事を作るか、誰が台所の監督になるかということで争いが起こると言われています。また、ピアノの周りも危ないというのです。誰が奏楽をするかということで、衝突が起こります。

これもやはり、自分が一番できる、自分の奉仕だというプライドがそうさせているのではないでしょうか。そこには競争心とか自分中心というエゴ、罪が潜んでいます。そしてそのことに本人が気が付いていないのです。必死なんです。みんなから認めてもらおう、牧師からもよくやっているとほめて欲しいと考えて必死に頑張っています。弟子達も、イエス様から認めて欲しい、政権を取った暁には、二人の息子を大臣の職につけて下さいと言っているのです。

2.幼子のようになる

イエスの弟子達でさえそうでした。功名心、立身出世のために必死で頑張ってついて来ていたのです。そういう自分の力や自分の能力で仲間を先んじようとしていた弟子たちに対しまして、イエス様は、ちょうどそこにいた一人の子供を呼び寄せてこう言いました。(これはペテロの子供ではないかと言われていますが…。)「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(18:4~5)

A.「親に頼っている」

まず、子供は自分では何もできません。倖花ちゃんのようなものです。たまにわたしが抱っこしようとして、お母さんから引き離そうとしても、ワアーと泣いて離れようとしません。お母さんやお父さんがいなければ何もできないのです。また逆にお母さんがそばにいると安心します。わたし達もいつもこの霊の親であるイエス様に、寄りすがっていたいものです。イエス様のそばを一番安心と考え、イエス様のそば近くにいつもいることです。

イエス様の顔が見えなくなったら、パニックになるくらいイエス様を必要とすることです。顔が見えなくなると、すぐにワーッと泣きだして離れないということです。子供のようにすがりついて祈るということです。何をするにも、このお方に頼り、すがってゆかなければ何もできないということを知ることです。逆に言いますと自分の弱さ、自分の無力さ、自分の不十分さをよく知っているということです。ですから、親であるイエス様から離れることができないのです。イエス様はこう言いました「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)と。

「幼子のようになる」ということは、神様を離れては何もできない弱い者であるということを自覚することです。ただただ、親である神様にすがるほかはないのです。おそらく弟子たちがイエス様のところに来て、「だれが一番偉いのでしょうか」と言ったということは、みんな自信があったからではないでしょうか。自分はヤコブよりはあれができる、自分はペテロよりは多くの人を導いた、自分はヨハネよりはイエス様を人一倍愛していると、みんな自分の賜物や働きや行動に自信があったから、こういう質問をしたのではないかと思います。新生讃美歌500番にこう言う歌詞があります。「イエスがいなければ何もできない。荒波に揺れる帆のない船のよう。イエスがいなければ生きるすべなし、主のみ救いこそ、わが命のもと。イエス、主イエス、知ってますか、この主イエスを。主イエス、主イエス、わが救いの主よ。」

B. 自分を低くする

わたし達は親に頼ることしかできない存在であればあるほど、決して自分を誇ったり、自分を高めたりすることはできません。誇るのは自分が頼っている親であり、わたし達の主イエスキリストです。この方以外に誇ることはできません。しかし、そのお方は自らへりくだって低くなられました。奴隷の立場まで自分を低くされました。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れたものと考え、めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピ2:3~4)

自分を低くするということです。親に頼らなければならない自分ですから、誰も自分こそはと、胸を張れる存在ではありません。自分は弱い者、足りない者、不十分な者、欠点の多いものなのです。ですから、相手の人を自分よりも優れた人として見ざるを得ないです。相手を尊敬します。相手の下に立ちます。英語で下に立つということをアンダースタンド(Understand)と言います。これは「理解」という意味です。本当に自分を低くして、下において、相手を受け入れて、相手を尊敬して聴こうとする時、相手の言わんとしていることが良く解ります。理解できます。そうしますと、自然と次に自分が何と言えばいいのか分かって来ます。

ですから皆さん、こう祈りましょう。「わたしを子供のようにしてください。小さいものにしてください。あなたがいなければ何もできないのです。」と。そうでなければ天国に入れないのです。イエス様はこう断言しています。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(18:3~4)と。

3. 小さなものをつまずかせるな

そしてそういう何もできない人を、無視したり、軽視したりして、交わりから遠ざけ、その人を悲しませたり傷つけたりするようなことがあれば、その人は最後には神様から裁きを受けると警告しています。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましである。」(18:5~6)と言っています。

信者の内の小さな者の一人を、つまずかせるということはどういうことでしょうか。教会ではなにもできない、何も評価されないような人でも、その人の内にイエス様が必ずいるのです。ですから、そういう人を「あなたは奉仕ができないから」と言って隅に追いやったり、無視したり、あるいは競争してその人の奉仕の場を奪ったりすることではないでしょうか。そういう小さな人をつまずかせる人は、海に沈められるよりももっとひどい裁きを受けると警告しています。「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」(ガラテヤ5:15)と。

10節にこういう御言葉があります。「これらの小さな者一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の父のみ顔を仰いでいるのである。」(18:10)と。主を信じる者には、必ず天使がついています。守護天使というのでしょうか。その天使は天ですでに父なる神様のみ顔を仰いでいるのです。ですから、主を信じる者でたとえ何もできないもの、評価されない者でありましても、天使がちゃんとついておられるのです。ですから、わたし価は決して教会の中で兄弟姉妹を軽視したり、見くびったりしてつまずかせることのないようにしたいものです。皆さん一人一人に天使がついておられるのですから。どんな人でも一人一人は神の前に大切な存在だということです。誰も必要でない人などいません。ですから、誰が一番かと思う必要もないし、自分は何もない評価されないものだと妬む必要もないのです。

むしろこう祈りましょう。「神様、どうかわたしを小さいものにしてください。あなたがいなければ何もできない子供のようなものだと祈らせて下さい。あなたの前で、いつも幼子のようにして下さい。そして他の人と競争したり、妬んだりする悪い心があることを、いつも気づかせて下さい。そういう悪い心を悔い改めて、もう一度新しく生まれ変わらせて下さい。」と。 

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