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大いなる都バビロンの滅亡 (ヨハネ黙示録18:1~13)

メッセージ

2016年5月1日富里キリスト教会

「大いなる都バビロンの滅亡」
(ヨハネの黙示録18:1~13)

1.今は悔い改める時

最近、地震や地滑りなどの災害や異常気象が起こって、全世界で被害が報告されています。皆さん、一体この地球はどうなるのだろうかと不安を持っておられると思います。この黙示録にもいろんな天変地異が預言されています。しかし、それにもかかわらず人々は悔い改めようとしなかったと記されています。例えば地震についても、最後の第七の天使が鉢を空中に注ぐと大地震が起ったと記されています。(16:17~19a)また温暖化と異常高温が預言されています。(16:8~9)また大気汚染も預言されています。(16:10~11)これらは皆、神の使いである天使が行ったことですが、今日、この最後の七人の天使による異常気象や災害が次々と起こっております。

なぜ神はこのような自然災害や異常現象をこの地球に起こしているのかと言いますと、16章の9節と11節にありますが、人々が早く自分の罪を悔い改めて、神のもとへと立ち帰ることを願ったからでした。つまり世の終わりが近いこと、そして主の再臨が近づいていますので、世間の人々も、そして神を信じる者も自分の罪を悔い改めて主の前に立ち帰ることを願っているからなのです。ですから主は16:15に「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身につけている人は幸いである。」(16:15)と警告しています。裸とは罪を持ったままで平気でいるということです。衣とはイエス・キリストのことです。衣を着るということは常にイエス・キリストを信じていること。そして目を覚まして御言葉と祈りを持って主の再臨の時を待つということです。

誰が救われるか救われないかは、神様の御胸の中にありますので、それに口を差しはさむ必要はありません。わたしたちはただ、時が良くても悪くても、平和な時でも災害の時でも、主を証しし、福音を宣べ伝えてゆくだけなのです。そしてこのすべてのものを御支配されておられるお方、アルファでありオメガである方に執り成し、祈り求めて行くことです。「み心の天になる如く地にもなさせたまえ」と祈りましょう。これが今の終末の終わりの時代に生きているわたしたちの務めではないでしょうか。

2.バビロンの滅亡

このヨハネの黙示録には、サタンの支配が終わりを告げ、今まで人々を支配してきた淫らな女である大きな都バビロンは、神の手によって完全に滅ぼされると記されています。その記事を読んでみましょう。
「その後、わたしは、大きな権威を持っている別の天使が、天から下って来るのを見た。地上はその栄光によって輝いた。天使は力強い声で叫んだ。『倒れた、大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。すべての国の民は、怒りを招く彼女の淫らな行いのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と淫らなことをし、地上の商人たちは、彼女の豪勢な贅沢によって、富を築いたからである。』」(黙示録18:1~3)

都バビロンというのは、ヨハネの時代の大都市ローマを指していると言われています。そして七つの頭と十本の角を持った獣というのは、当時の歴代のローマ皇帝のことを指していると言われています。そしてもう一人の登場人物がいます。それは「商人」(18:15)と呼ばれる人です。そしてこの商人が、大いなる淫らな都バビロンから多くの利益を得ていて、実質的にはこの世の権力者となっていました。このようにして、時の大都市ローマは、ローマ皇帝の支配下にはありましたが、実質的な支配力を持っていたのはローマの商人たちでした。

しかし、このきらびやかで文化的にも経済的にも商業的にも芸術的にも技術的にも大いに繁栄をしていた都が、一瞬のうちに天使によって滅ぼされてしまいます。大天使が大きな石(隕石)を海に投げ込んだために、海上に面していたこの都は、一瞬のうちに滅ぼされてしまいます。(18:21)津波や火災によってでしょうか。それは分かりませんが、この全ての中心であった都が神の手によって滅ぼされてしまうと預言されています。

あえてこの預言の言葉を現代にあてはめる必要はないかもしれませんが、今日の時代も、あの繁栄を誇った大ローマ帝国のような町が存在します。都市の文化、金融と経済を操る資本家という商人たち、そしてそれと一緒になって都市から利益と権力を欲しいままにしていた政治家たちです。こんなに災害が頻発しているのに、世の王たちは決して、原発を止めようとはしません。何故でしょうか。それは資本、経済が第一だからです。人間が亡んでも、経済が第一なのです。黙示録はそういう現代世界に対する警告の書です。

そういう金融と経済産業が、商人である資本家たちの手によってますます巨大化して行ったのです。わたしたちが知らないところで、闇の資金が動いて、金持ちはますます金持ちに、貧乏人はますます貧乏人になるような仕組みになっているのが今の世界経済の仕組みです。まさに、その舞台がバビロンだったのです。人間の欲望と闇がうごめき合う都です。現代のバビロンはどこでしょうか。NYでしょうか、東京でしょうか。この現代のバビロンが亡ぶことによって嘆き悲しむのは誰でしょうか。

3.バビロンから離れよ

そのような人間の欲望と淫乱が渦巻く都バビロンから、あなたがたは離れなさいと主が呼びかけています。「わたしはまた、天から別の声がこう言うのを聞いた。『わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。』」(18:4)そのように滅びに向かっているこの世の富や宝から、あなたがた子羊の血によって贖われた者たちは、ただちに離れなさいと警告しています。

しかし、この世の王と商人たちは、いろんな手を使って、あの都バビロンを舞台にして、多くの人々を神への礼拝から離れさせ、レジャーや、買い物や、美食や貪欲なことへと引きずり込もうとしています。毎週、毎週の日曜日の神への聖なる礼拝を休ませようとします。そしてこの世の快楽やこの世への関心へとクリスチャンを引きずり込もうとしています。黙示録の18:12からの商品のカタログを御覧になりましたか。何でも手に入ります。人間の欲望を駆り立てるものばかりです。

「その商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻の布、紫の布、絹地、赤い布、あらゆる香ばしい木と象牙細工、そして、高価な木材や、青銅、鉄、大理石などでできたあらゆる器、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、小麦、家畜、羊、馬、馬車、奴隷、人間である」(18:12~13)とあります。皆、豪華で贅沢なものばかりです。後半に述べられているのは、化粧品、お酒、食糧、家畜、馬車、奴隷、人間となっています。馬車は今日でいいますと自動車です。モーターショウもあります。そして奴隷も普通の人間も売られていたのです。

この箇所を、ある注解書にこう書いてありました。「アジアの花と言われる美青年の奴隷は、当時一人百万円から二百万円で売れた。またそういう慰め者としての若くて美しい美男美女の奴隷は、高値で売買された。更にもっと高く売れたのは、希少価値を狙った奇形の奴隷であった。人間を売る業者は、足が生まれつきない人間、手が短い人間、目が三つある者、頭が変形しているものをわざわざ造って売買していたとありました。これがあの繁栄を究めた大都市バビロンの隠された実態だったのです。

このような淫らで贅沢な女であるバビロンから、あなたがたは離れなさいと命じています。一緒にその災いに巻き込まれないようしなさいと警告しています。それはわたしたちが都会を捨てて山に隠遁生活をせよというのではなく、たとえそのような汚れた文明社会の中に生きていても、それに負けてしまうことではなく、その中にあっても常に神を第一とせよ、神を畏れ神を覚えてみ前に礼拝と賛美を捧げなさいということです。「御名を崇めさせたまえ」これが第一の祈りです。

世間に流されてしまうのではなく、世の中が浮き足立っていても、静かに神の御前に出て主日礼拝を第一とすることです。人々の目を欺いて、目に見えるものにわたしたちを引き付けようとするサタンの策略を見抜きましょう。誰もあのパナマ文書を知りませんでした。でも、世の権力者と資本家である商人は、あらゆる手段を使って人々を搾取し、自分の滅びの資金をたくわえています。しかしこの消費世界はやがて滅んでしまいます。「不幸だ、不幸だ、大いなる都、強大な都バビロン、お前はひとときの間に裁かれた。地上の商人たちは、彼女のために泣き悲しむ。もはや誰も彼らの商品を買う者がないからである。」(18:10~11)

乱れた町ソドムとゴモラから逃げて行く途中、ロトの妻は後ろを振り返ってしまいました。そのとたんにロトの妻は、塩の柱になってしまいました。その時、主は「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。」と言いました。(創世記19:16~26)後ろを振り向くなと言いました。この世の富や財産に心を向けて惜しむのではなく、前を向いて一目散に神のおられる山に逃げなさいと言ったのです。神を礼拝する場所に行きなさいということです。ここでも「わたしの民よ。彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。(18:4)と警告しています。後ろを振り向いてはいけません。このバビロンに心を引かれないようにしましょう。脇目を振らずに、真っ直ぐに前を向いて、この罪の世を全力で走り抜けましょう。

どんな時でも、天変地異や災害があっても、戦争があってもあなたのお名前を賛美させて下さい。「御名を崇めさせたまえ」です。あなたを礼拝させて下さい。このようの富や宝や名誉がどんなにわたしたちをひきつけても、あなただけを第一とさえて下さい。わたしの罪の贖いとなって下さった子羊イエス・キリストを見上げて歩ませて下さいと祈りましょう。またたとえ、罪に巻き込まれるようなことがありまして、その都度その都度、十字架の前に罪過ちを悔い改めましょう。「すべて私の愛している者を、わたしは叱ったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」(黙示録3:19)何度でも熱心に、朝に夕に心から主の前に悔い改めたいものです。

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