ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

国と力と栄光は永遠に神のものなり (歴代誌上29:10~20)

メッセージ

2015年5月3日富里キリスト教会

「国と力と栄光は永遠に神のものなり」
(歴代誌上29:10~20)

1.主の祈りと教会

今朝は、昨年から連続して第一主日に順番に語らせていただきました「主の祈りシリーズ」の、最後の祈り「国と力と栄光は限りなく汝のものなればなり」について学んでみたいと思います。主の祈りには一つの霊的な流れというものがあります。まず、「御名を崇めさせたまえ」と言って、天を仰いで両手を広げて主のみ名を崇め賛美します。次に「御国を来たらせたまえ」と言って、手を私の心の中にもって来ます。そして「御心を地にもなしたまえ」と言って、両手を広げて神様の御心が広く地になされるよう祈ります。

次に「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と言って、何かを受け取るようにして手を小さく顔の前に差し出します。次に「我らの罪を赦したまえ」と言って右手をこぶしにして左胸を打ちます。「我らを試みに会わせず、悪から救い出して下さい」と言って、両手を合わせて神様に祈ります。そして最後にもう一度、両手を広げて天を仰いで「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」と言います。最初に天に向けて手をあげたようにして、最後にもう一度手をあげて神様に栄光をお返しするわけです。天から降ってきた神の国と神の力と神の栄光が、私達を通してこの地になされ、最後にまた神の元へと帰って行くことによってこの主の祈りが完結します。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に帰するのです。栄光が神に永遠にありますように。」(ローマ11:36)

このように祈りというものは、天の神様から来て、私達を通してこの世になされ、そしてまた天に帰って行くことによって、天と地、神とこの世との愛の交わりがなされ、私たちの祈りと証しを通して、神の国がこの世に実現して行く過程と言ってもいいのではないかと思います。天と地を結ぶ御霊の交わり、神と人間世界とを結ぶ愛の交わりがこの祈りによって、新しく造られてゆくのが宣教の働きではないでしょうか。それが教会の使命のような気がします。神様は、私たちの祈りによって、御霊の働きによって新しい世界、神の国をこの世に打ちたてようとされているのであります。そのために祈りの家として、ここに富里キリスト教会が建てられました。ですから教会は「すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7b、マタイ21:13)のです。

2.国と力と栄とは何か

1)国とは

最初の「国」といいますのは、私たちは日本の国とかアメリカとか一つの国をイメージし、ある境界線をもった国土だと考えます。しかし、ここで言っている「国」はギリシャ語では「バシレイヤ」と言う言葉ですが、「国」の他に「権威」と言う意味もあります。王の権威の支配するところ、言い変えますと「王である神の権威の支配する領域」となります。そしてただ単に目に見える領土や国家体制ではなく、神様が支配する人間の霊的な領域を意味しています。

そしてこの神の国に入るためには、まず何よりも自分の罪を悔い改めて、神の御言葉と御霊によって新しく生まれ変わることが必要です。簡単に言いますと、自分の罪を認めて、イエス・キリストの十字架をわが罪のためと信じて主を仰ぎ、このお方に従うことです。これが新生して神の国に入る条件です。ですから主の祈りの二番目に「御国が来ますように」と祈りました。

私たちの真の王はあのゴルゴダの十字架のイエス・キリストであるということを認め、このお方を受け入れ、このお方に服従することが神の国の支配に入るということなのです。ですからイエス様は、私たちに対して、「神の国は見える形でくるのではない。『ここにある、あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20~21)とおっしゃいました。この神の国に対するわたしたちの服従と忠誠を誓って、この主の祈りは終わっているのです。

2)力とは

「力」と言う言葉のギリシャ語は「デュナミス」です。ここから、「ダイナモ=発電機」とか「ダイナナマイト=爆薬」と言う言葉が生まれました。つまり、私たちが伝道活動において発揮する力と言うのは、私たちの力ではなく、神の力だと言うことです。私たちはともすると、自分の力、自分の能力、自分の成果を見てもらいたいと思います。また、オリンピックでも金メダルを取って世界一になり、自分の実力を誇りたいと言う本能的な願いを持っています。しかし、わたしたちが主の働きができるのは、すべて自分の力ではなく、神の力であるということを肝に銘じなければなりません。

パウロも「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:9~10)と言っています。

3)栄光とは

聖書でもイエス・キリストは王であり、力の源であり、神の栄光の姿を現していると述べられています。特に主イエス・キリストは「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます。」(ヘブライ1:3)とありますとおり、神の栄光の姿を現したお方です。しかもその栄光は、神の御子が肉体を取ると言う受肉の出来事においてあらわされました。(ヨハネ1:14)また、ご自身が十字架につくことによって、栄光を受ける時が来たと言われました。(ヨハネ12:23,28)つまり新約聖書では、イエス・キリストが自らへりくだり空しくなり人間と同じ姿を取られた時に神の栄光が表されました、また、すべての人々の罪の贖いを成し遂げられた十字架の姿によっても栄光を現されたのです。そして三日目に復活されたことによっても神の栄光を現されました。(ローマ6:4)

このようにしまして神の栄光は、イエス・キリストの贖いの業において明らかにされました。さらにこのお方の栄光にあずかるためにも、主を信じてその後に従ってきた私たちも、神の栄光に共にあずかる望みを持って歩んでおります。それ故に、このキリストの栄光にあずかる希望をもちながら、今のこの苦難の中にあっても忍耐を持って、苦難をも喜ぶ信仰に生かされていきたいと願っています。(ローマ8:17)

3.永遠に神のものなり

「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」とわたしたちは祈ります。この主の祈りは神から受けて神に帰す祈りです。そしてわたしたち人間は、本来神の栄光を映す存在として造られたものです。神が太陽ならば、人間は月として、神の栄光の輝きを反映するものとして造られました。イザヤ書43:に有名な言葉があります。「恐れるな、わたしはあなたを贖う、あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。・・・わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成したものである。」(イザヤ書43:1、7)と。神は人間を御自分の姿に似せて創造されました。そして神の霊である息を与えて生きる者として下さいました。このようにして人間は本来神の栄光を映す存在であり、神に愛されているものでした。

ところがアダムの罪によって、人間自らが、その栄光の姿を失い神に背を向け、サタンの思うままになってしまったのです。それが今日の人間の姿です。神の栄光を現すよりは、自分の栄光を誇り、自分の栄光を求め、真の創造主であり贖い主であるお方を自分よりも下においてしまったのです。信仰を持っている人でも、神に栄光を帰すことをせずに自分に栄光を帰して、神の懲らしめを受けた人がいます。神に栄光を帰すことは思ったほどに簡単なことではありません。人間には自我があり、認められたいという欲求があり、自分を誇りたいという願望があり、プライドがあります。誰でも持っています。

その点、今朝を読んでいただきましたダビデの祈りは一読に値します。「私たちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのもの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力あるものとなさることができる。私たちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう。わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」(歴代誌上29:10~14)

富も財産も、一切は神から出て神に帰って行くのです。「わたしが何かをしたのではなく、すべては神から出て私を経由してまた、与え主である神に帰って行くのです。」と言っています。これが栄光を神に帰すと言うことです。信仰によって新しく生まれ変わって、神の国に入り、神様から霊の力と賜物をいただいて、御国建設のために自分に与えられているものを用い、一切の栄光を自分ではなく神に帰すること、これは主の祈りの最後の祈りではないでしょうか。

ですから、この主の祈りの最後の祈りは、自分自身の最後の祈りだと言ってもいいのではないでしょうか。確かにダビデも神の前には罪を犯してしまう一人の人間に過ぎませんでした。それでも彼は自分に与えられた信仰の生涯を走り抜け、最後の最後に、この祈りを献げて王位を退いたのです。この最後の祈りは、神様に感謝し神の国と力と栄光の一切を神様にお返ししますと言う臨終の祈りでもあったのです。主の栄光の勝利を信じて委ねる祈りです。わたしたちもこのダビデのような祈りをしたいものです。そして地上での生涯を終える時に、すべてのことを感謝し、主に栄光を帰して、主のもとに上って行くものでありたいと願ってやみません。

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional