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善でも悪でもなく、ただ神の恵みの中で生きる (コヘレト7:15~22)

メッセージ
2020/10/25
富里キリスト教会礼拝説教
「善でも悪でもなく、ただ神の恵みの中で生きる」
(コヘレトの言葉7:15〜22)

①善と悪の矛盾
7:15
「この空しい人生の日々にわたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり悪人がその悪のゆえに長らえることもある。」

人生は空しい。コヘレトは相変わらずつぶやきます。彼は、今度は一体何を見て空しいと呟くのでしょうか。それは、善人が滅び悪人が栄えるという悲しき現実を見てのことでした。悪が栄え善が滅びる。本来であれば善こそが栄え、
悪が滅びるべき。それが世の道理のはず。しかし、現実はその逆転現象が起こっている。おかしい。この矛盾は一体なんだ。誰もがこの現実に悲しみと憤り、そして空しさを覚えることでしょう。
勧善懲悪という言葉がありますが古今東西、老若男女、こういった物語を人間は好むようです。私が介護施設で働いている時、夕方になると必ずと言っていいいほどかかっていたテレビ番組がありました。それはかの有名な水戸黄門の再放送でした。隠れて悪さをする悪人を黄門様ご一行が退治するさまを見るのがスカッとするようです。その退治する時間だけ視聴率がグンと伸びるといった現象まで起こったそうです。
また、若者でもそういった話は魅力的なようです。ドラマの半沢直樹が大人気なことがそのことを物語っています。まっすぐ正義を貫く銀行マン半沢が世の悪をぶった切っていく様は痛快そのものです。どうやら人は善人が報われて、悪が滅んで欲しい。そのように願う傾向があるようです。しかし、これらのドラマが人気な理由は世の中、そうではないという現実があることの裏返しのようにも思えます。そう考えると確かに人の世は空しいかもしれません。
しかし、はたして人は一体何が正しくて何が悪なのかを完全に理解し、判断することができるのでしょうか。今日の箇所での善という言葉は本来、正しい、正義、義という言葉ですが、人によって正義だと認識していることが違うことがあります。同じ思いでもやり方が違うこともあります。例えば平和を守りたい。この思いは同じでも、武力という抑止力を持って平和を保とうとする考え方とそもそも武力そのものを放棄して平和を作り出そうとする考え方があります。それぞれに考えがあるでしょうがどちらかが100%正しくどちらかが100%間違いとも言い切れないでしょう。
また、時代によっても正義は違います。かつての十字軍もその時は正義でしたが今見るとそこに大きな過ちがあったことを認めざるを得ません。他方、現代のイスラム過激派なども自分たちの行なっているテロ行為は正義だと思い込んでいます。これらのことで一番厄介なことは、自分たちが絶対に正しいと思い込んでいるという点です。
はたして人の正義に絶対などあるのでしょうか。100年前と今の日本の善悪の価値観はまるで違います。やはり、人間の追い求める正義は不完全であり絶対のものではない。そのことを私たちは心に留めなければならないでしょう。その点を踏まえた上で私たちは、何が正しく何が悪なのかを謙虚に聖書に尋ね求めていかなくてはならないのではないでしょうか。神様のみが善悪の全てを知っておられます。アダムのように人間がその全てを知ろうとすることも、知っていると豪語することもあってはなりません。神の正しさ、神の義だけが絶対なのです。

②過ぎたるは及ばざるが如し
そのような中でコヘレトは語ります。
7:16−17
「善人すぎるな、賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな。どうして時も来ないのに死んでよかろう。」

善人すぎるな、悪人すぎるな。「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉がありますが、何事もtoo muchはよくないということです。正義も悪のどちらも追い求めすぎるのは人としてはダメだとコヘレトは言います。
でも善人だったらやりすぎでもいいんじゃない?そう思ったりもするかもしれません。しかし、ここでいう善という言葉は先ほど言ったように正しいという意味です。正しすぎてはならないということです。正しい人と聞いてみなさんはどのような人が思い浮かびますか。私がパッと思い浮かぶのがあのパリサイ人です。彼らは律法を守ることに非常に熱心でした。立派な正しい宗教者だったでしょう。しかし、それが彼らの高慢を生んでしまいます。そして、正しくあろうとした分、正しくない者、律法を守れない者を軽蔑してしまいます。そこには愛と憐れみが全くありませんでした。問題は正しさを求めすぎると自分自身が正しいと思い込んでしまうという点です。正しさを求めるがゆえの間違いと言えるでしょう。放蕩息子の兄のような者です。
他方で、悪人すぎてもならないとコヘレトは言います。これはじゃあ少しは悪くてもいいんだなということではありません。人間にはどこかに悪の性質があるという罪人ゆえの現実を踏まえた言葉です。なにが善とか悪と言い切れないんだろ。じゃあ、好き勝手、悪でもなんでもやってやろう。これもダメですよってことです。悪いとわかっていてその悪に手を染めることはまことに愚かなことです。それは死に向かう道であり、自分自身を非常に苦しめることになります。放蕩息子の弟はその愚かさゆえに非常に苦しく、みじめな思いをしました。神様は私たちが苦しむことを望んではおられません。

③信仰によって両方を掴む
7:18
「一つのことを掴むのはよいがほかのことがらも手を放してはいけない。神を畏れ敬えばどちらも成し遂げることができる。」

正しすぎるな、悪すぎるな。その両方を持ちながら偏らず、バランスよく生きていけ。コヘレトはそう言います。しかし、そんな神業みたいなこと人にできるのでしょうか。できるんですね。まさに神業によってなされるとコヘレトは言います。神への恐れ、信頼つまり主への信仰によって初めて成し遂げられるのです。そもそもある程度はわかるにしても人間には、正義も悪もその全てを判断できません。白黒はっきりつけられないことも多いです。両方持つということは、何が正しくて何が悪かなどこだわり過ぎずに、神様のみ前でありのままの自分を委ねて歩んでいくということです。
まず、私たちは人間の力では自分の中にある悪を消せないという現実を受け入れなければなりません。自分は正しいと思った時から間違いが始まっていきます。罪人なのです。その自分の罪を認め、神様のみ前で悔い改める。ここにこそ正しく、健全な神様と人との関係性が見えます。私たちは自分自身の正しさではなく、神様との関係性における正しさを求めていかねばなりません。神様のみ前で素直に、正直にごめんなさいと言える者。これこそ神を恐れる信仰者です。私たちは神の恵み、神の正しさ、義の中で生きることしかできないのです。
そして、どこまであっても正しくなれない私たちに神様はご自分から
マルコ1:15
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
と、手を差し伸べて、招いてくださります。この言葉はイエス様のガリラヤでの宣教の第一声です。正しくもないのに正しさを振りかざすような私たちに対する神様の答えがイエス様でした。イエス・キリストの十字架の贖い、ここに唯一の完全な正しさ、義と完全な愛が表れています。神様は義なる正しいお方です。忍耐はされつつも最終的には人間の罪を決してそのままにはされないお方です。ですからどうしても裁きが行われなければならない。しかし、神様は完全な愛のお方でもあります。神様ご自身が造られた、愛する人間を主は憐れまれました。その愛ゆえに滅ぼしたくないと。そんな神様が選ばれた解決方法が、ご自分が人となって人間の罪を全て受け取り、代わりに罰せられるというとんでもない方法でした。それほど私たちのことを愛しておられるのです。これがイエス・キリストの十字架のです。

ローマ3:25−26
「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

イエス・キリストの十字架には神の義が貫かれています。そして、イエス・キリストの十字架には神の愛が満ち溢れています。

1ヨハネ4:10
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

そして、完全な義であり完全な愛を実行されたこの主イエス・キリストを、この福音を信じるしかありません。その時はじめて、私たちはこの神様の義にあずかる者となることができるのです。

ローマ3:21−22
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」

私たちに義、正しさはなくても神の愛と義の衣が包み込んでくれるのです。人はその恵みの中で生きていくことしかできないのです。「愛は多くの罪を覆う」というみことばがあります。救われて罪から解放されても、私たち自身から完全に罪や悪が取り除かれることはないでしょう。しかし、主はその罪を愛で覆い、正しくない者を正しいと認めてくださるのです。悪を持ちながらも神の義の中で私たちは生きていくのです。その恵みの中で私たちは少しずつ変えられていき、自分の基準、価値観、イデオロギーなどの判断で生きるのではなく神の恵みにありのままの自分を委ねて生きていくようになります。

④神の絶対化と自己の相対化
7:20
「善のみ行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない。」

義人はいない。一人もいない。福音に生きる者はこの言葉を他者ではなく自分に向けて、痛感することでしょう。私は正しくない。神の愛の中で生きていくしかないんだ。そこには謙遜があります。自分を誇りません。高慢から守られ、パリサイ人のように正しすぎるような者にはなりません。
しかも、そこには喜びがあります。この正しくない者を主が命がけで救い出してくださったことを知っているからです。その愛を受けてもう神を決して悲しますまい。そのような思いの中、私たちは罪から離れようとします。ブレーキがかかります。悪にはなりすぎません。
そして福音に生きる者は自分自身を絶対化することから解放されていきます。正しいのは神様だけ。神のみを絶対化し、自分自身は相対化されていきます。それは、本当の意味での自由が与えられることを意味しています。すでに神様から正しさ、義をプレゼントされている私たちはもはや、悪や正義というものに極端にとらわれすぎないようになっていきます。
正しくない者が十字架の愛によって正しい者とされた。その福音を受け取った者としてこの世の中の善悪を見つめていく時、その一つ一つを鏡としてみていくようになっていきます。他人の罪や悪を自分の事柄としてみていくようになるのです。しもべが自分を呪ったりといったことや、人の言うこともいちいち、気にしなくなっていきます。他人の罪に目くじらを立てず寛容になっていきます。なぜならそのしもべの姿は私そのものなのだと知っているからです。
とはいっても恥ずかしながら未熟な私は人の言うことをいちいち気にしてしまう小心者のところがあります。もっとイエス様の福音を深く味わって、その恵みに委ね切る者となりたいものです。きっと少しずつ主が成し遂げてくださることでしょう。
何が正しくて何が悪なのか。その命題に対して私たちは聖書に謙遜に尋ね求めていく必要はあります。とても大切な事柄ではあります。しかし、それは自分を正当化して、知識を誇るためにすることではありません。何を神様が喜ばれて、何を神様が悲しまれるのかを知るためです。それが、十字架という重く尊い犠牲の伴う愛のギフトによって正しいとされた者、救われた者としての生き方であり人間の本分です。
私たちがその救われた者として福音に生きる時、聖霊によって私たちの心は整えられていき極端に偏ることもなく正しすぎず、悪すぎず、ただ神の恵みの中で喜びと平安を覚えて生きていくことでしょう。さあ、私たちは今日も明日も来週も来年もその先もずっと、唯一の完全な義であり完全な愛である主イエス・キリストの十字架を見上げて生きてまいりましょう。

武井誠司

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