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品位をもってひたすら主に仕える (Ⅰコリント7:17~35)

メッセージ
2018年4月22日富里キリスト教会
「品位をもってひたすら主に仕える」
(Ⅰコリント7:17~35)

1.教会の性的問題とその対応

「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものにしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをするものを自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。」(5:1~2)

どういうスキャンダルかと言いますと、自分の義理の母親と同棲している、そして夫婦の様に生活しているというのです。しかも教会ではだれでも知っていることで、誰も何ともこの不倫を咎めもしないし、罰を与えもしないというのです。教会の中で黙認されていたようです。もしかしたら、教会の有力者の身内のものだったかもしれません。みんなが見て見ぬふりをしていたのか、黙認していたようです。高ぶっているということは、この悲劇的な教会の事件に誰も気が付かずに、分派党争の方に熱中していたのではないかと思われます。

これに対して教会では、どういう対応をしたのかと言いますと、パウロはこう言っています。「つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。」(5:4)と。

これはどういう対応をしたかと言いますと、これ以上神の教会を汚さないために、教会から教籍を除外したということです。これが「サタンに引き渡した」ということです。教会から除籍された人は、この世の力であるサタンの手に陥ってしまい、病気や事故によって苦しみを受け最後は死に至る危険性がありました。でもそこで悔い改めることによって、彼の魂だけは最後の審判で救われる可能性があるということです。教会はそういうみだらな生活をしている教会員に対しては、放置していてはいけません。わたしたちは、きちんと警告や勧告をしなければなりません。それでも聞き入れない場合には、役員会にかけて除籍か罰を与えて本人に悔い改めを迫まらなければなりません。それが「主の日に彼が救われるためです」ということの意味です。

To be the Corinthians means to be sexually depraved. That way Corinthian church was also sexually disturbed. For example a man who is a Christian has his father’s wife. He lives with his mother in law and of course he has sexual engagement with her. And nobody accused his immorality in the church. They boasted themselves and discussed about the greatest leaders of the Corinthian church. So Paul and church members delivered him to Satan’s hand by removing membership. Through these sufferings he may be repent to God and his spirit will be saved on the day of the Lord.

その他、コリント教会のスキャンダルと問題を挙げればきりがありません。5:11にさらに記されています。「わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する人、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人のものを奪う者がいれば、つきあうな、そういう人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。」(5:11)教会の兄弟姉妹の中で、そういう人がいたら、一切そういう人とは付き合うな、交際するなと命じています。コリント教会がどんな教会だったか想像がつきそうです。

そういう教会に対してパウロは6:13後半でこう言っています。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。」(6:13b)と。自分たちの体は、聖霊の宿る聖なる神殿であるから、この聖なる神殿である自分の体をみだらな不品行のために用いるのではなく、神の栄光を表す聖なる器として用いなさい。キリストが血を流されたのは、この私たちの体が贖われるためだったのですよと戒めています。(6:20)

2.男女関係と結婚についての戒め

そういう事件の中で、クリスチャンにとって男女関係、結婚とは何かということを具体的に取り上げて論じたのが、今日の7章です。ところで皆さんは、この7章を読んだことはおありでしょうか。意外とクリスチャンに読まれていない箇所なのですが、意外と男女関係と結婚生活について、詳しく記した箇所なのです。人生の中で、いろいろと恋愛や結婚生活や夫婦関係で失敗してから、やっとこの個所を読まれる方があるようです。そして、一様に「ああ、もっとこのことを知っていたらなあ。」と後悔しておられる方が多いのではないでしょうか。

今朝はこの7章をじっくりと皆さんで読んでみたいと思います。そしてこれから結婚を控えておられる方、また現在、結婚して夫婦関係で悪戦苦闘しておられる方、あるいは配偶者を先に亡くされて独身になられた方、あるいは若い独身者の方々についての教えをじっくりと学んでみたいと思います。わたしが調べたところでは、全部で17の項目について書かれているような気がします。(内容を分かりやすくするために、週刊誌的な題にしました。)

Paul writes about the relationship of man and woman and marriage in this chapter 7. He discusses the 17 items in detail. We may miss this chapter wrote about marriage, and after some troubles of the marriage
in our life, we may understand the truth of marriage with bitter emotions at last. So let us read one by one .

① 不倫セクハラについて(7:1~2)
(About infidelity and sexual harassment)
この前の6章15節で、「あなたがたは、聖なるキリストの体で娼婦の体と交わってもいいのか」(6:15)と書いています。ですからパウロは「男は女に触れない方がよい」(7:1)と言いました。コリント教会では独身のクリスチャンならば、お金を払って女性と関係を持つということが黙認されていたようです。パウロはそれは明らかにみだらな行為であるので、女性に触れない方がいいと命じています。そして罪を犯すことのないように、ちゃんと結婚しなさいと勧めています。しかしこれはあくまでも消極的な意味での結婚の勧めです。結婚することが、人生の最大イベントのような幻想を持たないようにということです。

② 夫婦の務め(7:3~4)
(Couple’s duty)
クリスチャン同士結婚して、信仰熱心になりお互いに清くなることを求めるあまり、夫婦生活をおろそかにするということのないように、夫は妻に、妻は夫にその務めを果たすよう勧めています。

③ 別居生活(7:5~7)
(Separated living )
何か夫婦関係に問題が起こって、しばらく時間と距離を置いて、別々に祈って主の御心を求めてみるということはよくあります。いわゆる別居ですね。その場合でも、必ず祈りに専念することと、また再度一緒になるという約束のもとで一時的に離れるということは認めています。これも離婚へと突き進むことのないようにとの、一つの夫婦関係の知恵として止むを得ず、消極的に認めていることです。そして7節で「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。」と言っています。

④ 未婚者と未亡人への勧め(7:8~9)
(Advice for single people and widows )
ずっと結婚しなかった人、また配偶者に死に別れた人に対しては、独身でいることを勧めていますが、どうしても情欲を抑制できない人は結婚しても差し支えないと言っています。

⑤ 離婚の禁止(7:10)
(Prohibition of divorce)
原則的には、妻は夫と別れてはいけないと言っています。恐らく熱心なクリスチャンの妻が、不信仰な夫と離婚してもっと主に仕えようというようなことがあったのではないでしょうか。そういう的外れな熱心さにくぎを刺しています。

⑥ 復縁の勧め(7:11)
(Restoration recommendation)
クリスチャンは離婚は原則的に禁じられていますが、もし万が一離婚してしまったのであれば、再婚しないでいるか、元の夫のもとに戻って復縁をしなさいと勧めています。また夫は妻を離縁してはいけないと言っています。当時も片方が信仰を持った夫婦が多かったようです。

⑦ 片方だけが信者の場合(7:12~14)
(a couple that only one is a believer)
片方だけが信仰を持っている夫婦の場合が多かったようで、その場合には、信仰を理由に離婚をしてはいけないとパウロは言っています。更にパウロは、たとえまだ信仰を持たない夫や妻の場合でも、配偶者の信仰によって未信者であっても聖なる者とされていると言っています。つまり未信者の配偶者も神の恵みの中に置かれているということです。それは子供たちも神様の恵みにあずかっていることから明らかだと言っています。たとえ今日は一緒に礼拝に来ていない未信者の配偶者であっても、その人も聖なる者とされているのです。ですからましてや、一緒に来てくださっている未信者の配偶者の場合にはもっと恵みを受けているはずです。ですから片方だけクリスチャンだということで、肩身の狭い思いをする必要はないのです。もちろん祈って行くことが大事です。

⑧ 配偶者の蒸発と離婚(7:15~16)
(Spouse’s evaporation and divorce)
このケースはよくあります。信者でない方の配偶者が離れて行く場合です。中には家を出て行ってしまういわゆる蒸発というのがあります。何年も音信不通です。このように未信者の配偶者が離れて行った場合には、信者である方は結婚に縛られてはいないと言っています。クリスチャンにとって、離婚というケースは誰でも後ろめたい思いがします。何とか出て行った夫を救いたい、帰ってきてほしいと思います。それで何年も苦しい生活を強いられることがあります。でもそのことでその人の生活が、牢獄の様に束縛される必要はありません。神様はわたしたちが忍耐して牢獄のような生活をするのを望んでいるのではなく、平和な生活をするために召されたのですから、そういう場合には離婚もあるということです。

⑨ 割礼ではなく、み言葉に従うこと(7:17~20)
( To obey the word rather than circumcision )
ここでは割礼のあるなしを言っていますが、大切なことは「おのおの召された時の身分にとどまっていなさい。」(7:20)ということです。やくざの時に救われた人が、クリスチャンになったからと言って、背中の入れ墨を消さなくてもいいということです。もちろんやくざの世界から足を洗って、真人間になることは大事ですが、背中の入れ墨まで消す必要はないということです。救われた身分のままでいなさいということです。目に見える外見的なものにこだわることなく、大事なことは、心で主を信じて主のみ言葉に従うことです。

⑩ 奴隷と自由(7:21~24)
(Slave and freedom)
ですから、救われた時に奴隷であったとしても、クリスチャンになったから自由の身分になろうとしなくてもいいと言っています。今まではその主人の奴隷だったのですが、今度はキリストの奴隷になったわけです。ですから今度は自分の自由意思で今までの主人の奴隷になろうと決断したとしたら、それはもはや奴隷ではないのではないでしょうか。パウロは決して奴隷制を肯定しているわけではありません。肉体的、身分的な奴隷となるのではなく、心の奴隷として今の主人に仕えるならば、そのままでいなさいと言っています。

⑪ 現状維持の勧め(7:25~26)
(Promotion of remaining as you are)
なぜ私たちが、現状のままでいることがよいのかという理由がここに記されています。それは危機が迫っているということです。どんな危機でしょうか。先日北朝鮮が、核実験を止めたという朗報が入って来ました。しかし、それで安心していいでしょうか。世界情勢は一歩間違えば、今でも核戦争という取り返しのつかない状況に突き進む危険性を持っています。また、先日大分県で大規模な地滑りが起こりました。東日本大震災、原発事故、東南海地震、首都直下型地震、異常気象とわたしたちを取り巻く世界は大きな災難の危機をはらんでいます。そのようなことがいつわが身に起こるとも限らないので、あなたがた現状のままでいなさいと勧めています。

⑫ 結婚とその苦労(7:25~28)
(Marriage and its hardships )
確かに独身の場合には、その将来に対して不安を抱えています。でもパウロは結婚したからと言って、その不安が解消されるとは限らない、いやむしろ不安や心配や苦労の方が増し加わるだけだと言っています。パウロとしてはそのような結婚に伴うリスクと苦労を背負わせたくはないがゆえに、必ずしも結婚を人生の目標のように考えるべきではないと言っています。ただ大事なことは、人は救われた時の現状にとどまっていなさいと勧めています。

⑬ この世との関係(7:29~31)
(Relationship with this world)
ここでもパウロは結婚生活を理想とするのではなく、あなたがたはむしろ、定められた時が迫っているがゆえに、妻のある人はない人のように生活しなさいと勧めています。またこの世とかかわりを持っている人は、この世とかかわりのないように生活しなさい。いずれこの世のことはすべて過ぎ去ってしまうからです。そのような、消えてしまうことのために自分の人生を費やすなと言っています。わたしたちは今この世にあっては、独身者のように、この世の喜怒哀楽に左右されず、何一つ持っていない人のように身を軽くして生活し、この世の事柄に深入りしないようにしなさいと勧めています。

なぜならば、この世のありさまは過ぎ去るからです。しかも定められた時、すなわち主の再臨と最後の審判の時が近づいているのです。ですから、神様のことを第一にして生活しなさいと言っています。あなたがたは、あと余命が1年と宣言されたような生き方をしなさいということです。主が来られるのが迫っていたら、今一番何をしますか?何をしたいですか?そのような終末的な意識をもって、生活しなさいと言っています。くれぐれも、この世のことに深入りしないように、また商売や金もうけに走らないように、名声を高めるために骨身を削る必要もないというのです。

⑭ 独身の勧め(7:32~35)
(Promotion being a single)
どうしても結婚していると、相手を喜ばせようとする気持ちは働きます。それは当たり前のことです。でも独身者は、そのように気を遣う相手がいませんから、その分、神様を喜ばせるためにだけ時間も体も使うことができます。ご主人を気にしなくてもいいですし、奥さんを気にしなくてもいいです。独身の賜物を与えられている人は、その賜物を使って主に一生懸命仕えることができます。でも結婚が悪いというのではなく、結婚していても大事なことは、そのおかれた現在の場で、現状のままで主に仕えることだと言っています。

⑮ 真の信仰生活(7:35)
(True life of faith)
パウロは、決して独身がクリスチャンにとって理想的な状態なのだと言っているわけではありません。そうではなく、独身者であろうが、結婚していようが大事なことは、「品位ある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるため」なのです。別な聖書では「正しい生活を送って余念なく主に奉仕させたからだ。」となっています。このためにわたしたちは生を受け、救われ、今こうしてこの地に置かれているのです。

⑯ 青年の結婚(7:36~38)
(Marriage of young people )
わたしたちがやはり一番気になるのは、青年たちの結婚です。若者は若い情熱もありますし、性的な衝動もあります。そういう若者が結婚をどのようにしたらよいのかということが教えられています。性的感情を抑えきれないなら、結婚しなさい、それは決して罪を犯すことではありません。しかし、結婚しないで独身のままでいることのできる賜物をもっている青年はその方がベストですとパウロは言っています。

⑰ 再婚について(7:39~40)
(About remarriage)
最後に、夫が死んで未亡人になった場合、どうしたらいいのかということを教えています。相手が死んだ場合は、再婚しても差し支えはないが、相手はクリスチャンに限りますと言っています。それはお互いに協力し合って、主に仕えるためです。未信者の場合には、どうしても妨げられてしまうことがあるのではないでしょうか。パウロとしては、そのままでいたほうがよりベストだと言っています。そのように神の霊がわたしに教えていますと言ってこの章を終えています。

3.正しい生活でひたすら主に仕える

以上、この7章をじっくりと読んで来ましたが、いかがでしたでしょうか。なんだそうだったのか、もっと早くにこの個所を読んでおけばよかったと思った方はおられるでしょうか。本当にこの7章は、独身、恋愛、結婚、離婚、未亡人、再婚などについて、本当に丁寧に愛をこめてパウロが解き明かしている箇所です。このみ言葉に従ってゆけば、間違いがありません。

召された時の状態で、クリスチャンとして品位のある平和な生活をして、ひたすら祈りとみ言葉を通して主に仕えることです。神が共におられるということを感謝し、自分が主に愛されていることを喜んで、この愛をまだ主を知らない人に証し宣べ伝えて行く生活です。召された時のままで主にひたすら仕えて行くことです。この「仕える」という言葉は、ギリシャ語で「ユーパレドロン」という言葉ですが、「美しく」と「傍らに」と「座る」という三つの言葉からなっているパウロの新造語だそうです。簡単に言いますと、「しっかりと神のもとにとどまること、そして品位をもって自分の身近なところから始めること」です。いたずらに動き回る必要はありません。

The important thing is in the state of being called to serve the Lord in the peaceful life with a prayer and the word of God. With the gratitude
that God is always with us and with the joy being loved by God we are to share the Gospels with the people who do not know the love of Jesus. Whether being married or not, let us serve the Lord as we are.

教会に庭の草を取ることも、お掃除をすることも、教会学校に参加すること、スモールグループを開催すること、献金をすることです。主の再臨は今そこに近づいています。地上での生活はあとわずかかもしれません。あなたができることは何ですか。主が来られた時に、よくやった忠実な僕よと言われたいものです。自分の体を乱れたことに使わずに、神の栄光を表す器として、今日から、今から、まず自分自身を捧げてゆきたいものです。

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