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呼び求める声を聞いて下さる神 (詩編4:1~9)

メッセージ
2017年9月23日東ブロック「秋の集い」開会礼拝

「呼び求める声を聞いて下さる神」
(詩編4:1~9)
1.祈りを妨げているもの

牧師会でもいろいろと各教会の情報交換をしていますが、ある教会では「50名礼拝を目指そう」と言うことで、教会員が一丸となって取り組まれたと聞きました。そうしましたら、55名の礼拝が実現したとおっしゃっておりました。わたしはすぐにそれを聞いて、「よし、うちでも早速真似してやろう。」と言うことで、とりあえず身近な目標として、30名礼拝をかかげました。そして昨年は、特伝やクリスマス礼拝などの特別の集会の4週間前から、教会員の方々に毎週金曜日に、自分の時間帯を表に書いて祈っていただきました。

そうしましたら、やはりほぼ毎回30名を超えるのです。ただ漫然と「30名礼拝を目指そう」と書いただけでは、実現しなかった目標が、教会員全員の祈りが加わることによって実現したのです。本当に祈りは聞かれると思いました。また祈りの力の大きさ、奇跡的な出来事をも見させていただいております。

しかし、実際はそうは思ってもなかなか祈りが聞かれない、願ったとおりにならないという現実があるのではないでしょうか。牧師は祈ったらそうなるというのは、少しおめでたい話ではないだろうかと思う方もいるかもしれません。教会はそんな単純なものではないと。今日の詩篇4:7にも「恵みを示すものがあろうかと、多くの人は問います。」と言われています。なぜ、祈りが聞かれないのでしょうか。多くの人がそう思っているというのです。なぜ祈ってもそうならないと思うようになってしまっているのでしょうか。

それは実は、私たちのほうの、わたしたちの側に祈りを妨げているもの、祈りの力を弱めているものがあるのではないかと言うことです。ちょうど今、教会学校では士師記を学んでいます。士師が生きているうちはいいのですが、士師がいなくなるとすぐにまたダメになってしまう。そして苦しみの中から助けを求めると、また主は助け手を与えて下さる。牧師やリーダーが頑張っているうちはいいが、いなくなるとまたダメになる。その繰り返しが士師記です。神に向かってどうして、なぜこうなるのですか、助けてくれないのですかといつも食ってかかるイスラエルの民です。神の側に問題があると言わんばかりです。でもこの士師記のテーマは、民の罪です。のど元過ぎれば、すぐにまた罪を犯し姦淫と偶像礼拝に走ってしまう、そういうどうしようもない人間の弱さ、罪との闘いの歴史といっても過言ではありません。

ですから、ヨシュアが生きている時から、神様は民にこう命じています。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」(申命記3:5)また「イスラエルよ、あなたたちの中に滅ぼし尽くすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない。」(申命記7:13)と。つまり罪はあなたの側にある、あなたの悪が神とあなたの関係を隔てているのだ、あなたの罪が祈りを妨げているのだと指摘しています。いかがでしょうか、私たちの祈りがきかれない原因がここにあると聖書は教えています。

2.人の心を見分けられる主

先ほど読んでいただきました詩篇4編にも、同じようなことが述べられています。ダビデが「呼び求めるわたしに答えて下さい。わたしの正しさを認めて下さる神よ。苦難から解き放って下さい。憐れんで、祈りを聞いて下さい。」と主に呼び求めています。しかし、その後に2節からこうあります。「人の子らよ、いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか。むなしさを愛し、偽りを求めるのか。主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いて下さると知れ。おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。ふさわしい献げ物をささげて、主により頼め。」(詩編4:2~6)と。

誰でも主に向かって祈りの声をあげます。ところが、わたしたちが祈っている時に、いや祈る前に、主の方からわたしたちの方を見ておられるのです。何をかと言いますと、「この人は本当にわたしの慈しみに生きているかどうか。」と言うことです。この祈り手は、本当に主の慈しみを求めているのかそして主の慈しみの中に生きているかどうかです。この詩編4編は夜の祈りの詩篇です。そして5編は朝の祈りになっています。

つまり、わたしたちは夜に祈っているかどうかです。ユダヤ人にとりましては朝の祈りよりも夜の祈りの方が真剣であり緊張したものでした。なぜなら、これから夜のとばりが下りて来ます。闇の世界、悪の力の働く時です。眠っている罪が目を覚ます時間です。その中にあって、主の助けを必死に求めなければ、わたしたちの安眠はないと言うことです。朝を迎えることができるかどうかが、この夜の祈りにかかっているのです。

そしてわたしが一番ビクッとしたのは、4節の「主の慈しみに生きる人を主が見分ける」と言う言葉です。いくら熱心に祈っても、断食しても、連鎖祈祷をしても集中祈祷をしても、その人は本当に主の慈しみの中に生きているかどうかです。神様の方で、わたしたちを見分けているというのです。わたしたちの祈りが神様から見られているのです。選別されているのです。神の慈しみの中にいるかどうかです。つまり別な言葉で言いますと、自分の罪を告白して、心から悔い改めて、聖い生活を送っているかどうかです。特にこの夜の時間帯にです。

5節に「おののいて罪を離れよ。」と言っています。「寝る前に自分の心に問いかけて反省しなさい。そして罪を止めなさい。」と言っています。そしてふさわしい献げ物、つまり「悔いし砕かれた心、罪の悔い改めの供え物を捧げなさい」と言っております。これが夜の祈りの持ち方なのです。罪から離れることが求められています。もしわたしたちがどんなすばらしい働きをしても、多くの人救いに導いても、夜をどう過ごすかによってその人の祈りが神様から評価されるのです。偉大な働きをした人であればあるほど、この夜の祈りについて気をつけなければなりません。朝起きてすがすがしいうちにデボーションをしようというよりも、むしろその前に、夜を聖別する必要があります。何故かと言いますと、今まで多くの偉大な信仰者がここで皆、失敗しているからです。

例えば、あの箱舟を造ったノアはどうでしたでしょうか。あれほど人々から馬鹿にされながらも、ひたすら御言葉に従って箱舟を造ったノアでした。多くの動物と家族を洪水の破滅から救いました。しかし、そのノアがその晩年にしたことは何だったでしょうか。ぶどう酒を造って、それを飲みすぎて真っ裸で寝込んでしまったことです。(創世記9:20~23)つまり夜のアルコールです。悪い言葉で言いますと、ノアはその晩年をアルコールで汚してしまったと言うことです。ちょっとした出来事だったかも知れません。たまたま夜飲みすぎて深酔いして寝込んでしまったのかも知れません。人生、誰でもそういうことはあるでしょう。でもそのちょっとしたハプニングが聖書に残っているのです。これは一回だけではなく、やはり常習になっていたと言うことです。

それからもう一人、有名な人物ですが、夜を聖別しないで晩成を汚してしまった人物がいます。それはあの偉大なイスラエルの王ソロモンです。列王記11章には「ソロモンは多くの外国の女を愛した。・・・彼には妻たち、すなわち7百人の王妃と3百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。」(列王記11:1,3)とあります。ソロモンにとっては罪の落とし穴となったのは女性でした。俗的にいますと女によってソロモンはその晩成を汚したのです。今日ほど、女性問題のスキャンダル、性的な放縦、淫らな画像が世間を圧倒している時代はありません。汚れに汚れている時代です。それは教会にも入って来ています。

これらは皆、夜の一番聖別されなければならない時間帯を汚してしまう罪の恐ろしい落とし穴です。アルコール、性的乱れ、偶像礼拝です。信仰生活は、これらの罪との闘いだと言って過言ではありません。この夜が聖別されないと、朝を迎えることができません。

3.呼び求める声を聞いて下さる主

今日ここにお集まりの皆様は、60代、70代の方々が多くおられます。教会も高齢化の波が押し寄せています。でもこれはある意味では、教会にとってはいいことかもしれません。わたしたちはそれぞれ子育てを終え、また仕事を退職され、第二、第三の人生に入っています。何かしたくても体力的にも、知力的にも正直言って衰えて来たことを感じるこの頃です。富里教会でも、いつも週報に間違いがないかどうかを、三人がかりでチェックします。それでも大きなところで、はっきりと間違っていることがあります。気がつかないでいることが良くあります。

でもたとえ高齢化になっても、後期高齢者という年代に差し掛かっても、祈りだけは、いつでもどこで出来ます。体力が衰えても、知力が衰えても祈ることにおいて衰えという言葉は当てはまりません。そしてそういう祈る時間も若い時よりはもてるようになりました。早く床に就きます。そして夜はどうしても早く目が覚めてしまいます。3時には目覚めてしまう方もいるでしょう。そのようにして、体力が衰え、知力も衰えますが、霊的には逆に強くなって来るのがこの年代ではないでしょうか。

「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:30~31)とあります。そしてまさにこの年代の人は、鷲のようにますます霊的な力を増してくる年代です。そしてまた反対に、アルコール、女性、名誉と言ったこの世の誘惑にも、陥りやすい年代ではないでしょうか。

なかなかこの世の誘惑に引きずり回されて、勝てないで苦しんでいる方もいるかもしれません。でも主の前に、自分の罪を告白して膝まづいて祈るならば、そして罪の悔い改めという最上の献げ物をささげて祈るならば、必ず主は、その罪を赦して聖め、その人を聖別して下さいます。そしてその変化は、瞬時に起こると言っても過言ではありません。その変化は早いです。「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いて下さると知れ。」とありますとおり、すぐに神様には伝わります。すぐに見分けて答えて下さいます。

今日、皆さんが家に帰って、今晩からこの罪を離れて主に祈り求めるなら、皆さん自身の生活が変わります。夫婦関係が変わります。親子関係が変わります。そして何よりも、皆さんの教会が変わって行きます。主はそのように、主の慈しみの中に生きる人をしっかりと見分けておられるからです。主の慈しみを求めて祈る祈りを、主は待っておられます。そして主の戦士として力を与えて豊かに用いて下さいます。アブラハムが神の召しをいただいて生まれ故郷を出て信仰の旅に出発したのは、75歳でした。モーセが民をエジプトから脱出させたのは、彼が80歳の時でした。皆さんの信仰の旅と祈りの生活は、これから始まるのではないでしょうか。主の慈しみに生きる生涯を、最後まで追い求めて行きたいと願っています。     

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