ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

呪いを幸いに代える神 (サムエル記下16:5~14)

メッセージ

2012年7月29日富里キリスト教会
「呪いを幸いに代える神」
(サムエル記下16:5~14)

1.シムイの呪い

サムエル記下16:5以下を読んでみましょう。「ダビデ王がバフリムにさしかかると、そこからサウル家の一族の出で、ゲラの子、名をシムイという男が呪いながら出て来て、兵士、勇士が王の左右をすべて固めているにもかかわらず、ダビデ自身とダビデ王の家臣たち皆に石を投げつけた。シムイは呪ってこう言った。『出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者、サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ。』」)(サムエル下16:5~8)

シムイという男はサウルの家系に属し、ダビデに対しては反感を持っていました。主君サウルを裏切ったならず者という恨みがあったようです。今回も、都落ちをするダビデに対して、今までの恨みつらみを呪いの言葉として容赦なく浴びせかけました。「出て行け、出て行け。お前の身から出た錆だ。」と。ダビデの側近がその気になれば、シムイなどその場で手打ちにできるほどの弱い人間でしたが、ダビデはあえてそのままにして悲しみながら、呪いの言葉に追われるようにしてオリーブ山を越えて逃げて行きました。

人からけなされたり、恥をかかされたり、悪く言われるのはつらいことです。でも今は、ダビデにはシムイの呪いを振り払うだけに勇気はありませんでした。それは、シムイの言うとおり、自分の愛する息子に裏切られ、命を狙われて、命からがら逃げようとしているからです。シムイの反感、呪いは、アブサロムの反逆、裏切りから比べたら物の数ではありません。サウル家の者からの反感ですから、当然のことです。でも今、ダビデは、自分の息子から命を狙われているのです。これほどの皮肉、悲しみは他にあるでしょうか。サウルの者から呪われることぐらい、自分の息子から命を狙われることに比べたら大したことではありませんでした。

附通でしたら、人に一言二言言われたら、もうカッカしてきて怒り心頭、夜も眠れなくなります。悶々としてしまって、その人の言った一言がなかなか頭から離れません。カチンとくるか、無視するか、攻撃するかいろんなことが考えられますが、ダビデは、それは神からの私に対する懲らしめであり、警告だというふうに受け取りました。「わたしに対する呪いの言葉を言わせておきなさい。主がその人に対して言っているのだから、私は甘んじて主のこの呪いの言葉を受け止めよう、確かに私は人から呪われるとこのほどをしてきたのだから。」と。そのことを受け止めて、苦しみ悩むこと、それもまた主から与えられた自分の十字架だと思えたらすばらしいですね。 

2.苦しむ力

もし私たちが、自分の人生に起こっている不幸を受け止めることができずに、その苦しみから逃れようとしたり、それをなくしてしまおうとするならば、いつまでもその苦しみは後を追ってきます。自分の闇の部分、自分の影の部分です。ダビデはこの自分の闇の部分、影の部分としっかりと向き合う覚悟を決めました。ですから、呪う者には呪わせておきなさい。私はその非難や呪いの言葉を決して避けようとは思わない、あえてその言葉と向き合って自分の闇の部分を見据える覚悟があると考えました。

涙の預言者と言われるエレミヤの哀歌にも、同じような言葉があります。
「若いときに軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら、黙して独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。・・・災いも、幸いもいと高き神の命令によるものではないか。生身の人間が、ひとりひとり自分の過ちについてとやかく言うことはない。」(哀歌3:27~29、38~39、P1290)と。

私たちは人生の不条理や自分の理解できないことについて、誰かを責めたり、誰かのせいにしたくなります。ときには神さえも責めたりします。「なんで自分は、こんな目に会っているのか。神は不公平ではないか。何も悪いことをしていないのに、自分はどうしてこんなひどい仕打ちを受けなければならないのか。」と。もしそういう不条理なこと、不公平なこと合点が行かないことで悩み苦しんでいるならば、むしろその苦しみや不幸をしっかりと受け止めなさいと勧めています。できれば若い時にそういう目に会った方がいいとさえ言っています。そして、そのような苦難を受けたらそれを、十分に味わい尽くしなさいと言っています。

それはやはり、自分の自我というものが砕かれて、へりくだり謙遜になるまで徹底的に人の懲らしめを味わいなさいということではないでしょうか。神様が自分を徹底的に打ち砕き、完膚なきまでに叩きのめして下さるように。そして、ついにはへりくだり、地面に顔をつけ、塵を自分の舌でなめるほどに打ちのめされなければ、人間はまともにならないのだということです。それほどに、人間のエゴ、自分、自我というものはなかなか砕かれないということです。これが人生の苦難の意味です。人生の不条理の意味するところなのです。

私たちは苦労から逃れよう逃れよう、苦労を避けよう避けようと必死になってその解決の道を探しつつ、ますます苦しんでしまいます。むしろ、苦しみを苦しみとして受け止め、その苦しみを引き受けることによって、その苦しみの中から、苦しみを通してしか得られない真の解決の道があるのではないでしょうか。人生の様々な場面で出会う苦しみや呪いを通して、その先に真の解決、真の平安というものがあるのではないでしょうか。ですから、神様は時には、私たちを苦しみの道、茨の道に追いやる時もあります。そして、そこから逃れるのではなく、その苦しみを十分に味わい尽くすことによって、その先に神の支配する世界が見えてくるのではないでしょうか。

3.呪いを幸いに代える神

あのオリーブ山を裸足で泣きながら上って逃げて行く時に、シムイの呪いの声は、一層自分たちの悲しみと嘆きを強めるものでした。よく、傷口に塩を塗るという言葉の通りに、ダビデの落ち武者一行にとってはかなり応えていたと思います。その時ダビデはこう言っています。「主がわたしの苦しみをご覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返して下さるかもしれない。」(12節)

先ほどの哀歌の中にもこういう言葉があります。「主は決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめられても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。」(哀歌3:31~33)人間を永遠に懲らしめ苦しめ続けるのは、主の御心ではありません。主は人を訓練し鍛え、やがて義の冠を得させるためにしばしの間、心を鬼にして悩み苦しめることがあるのです。人が自分というものを捨て、主の前に悔い砕かれて「降参、参った。あなたにわたしの心を明け渡します。」というまで、主は私たちを責め続けるのです。

もしそういう人生の不条理、なんでこうなったのかということがあったら、それは神が私たちを訓練している時ですから、へりくだって地面に顔をつけ、土でも塵でも泥でもかぶるつもりで、徹底的に主の前に、また人の前にへりくだることです。それが主の懲らしめを味わい、主の呪いを十分に受けるものの幸いではないでしょうか。へりくだることができた。謙遜な心を持って、神を畏れ人に仕える人生の幸いです。神様は、私たちをこの神様の御性質にあずからせようとして、苦難の道を通させるのです。

むしろ私たちが弱い時にこそ、神の力が働いて勝利して下さるのではないでしょうか。パウロもこう言っています。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:9~10)と。

自分は弱い者であるということ、何もできない一人の弱く貧しい罪人であるという時にこそ、私たちの神の力が私たちを通して力強く働くのです。弱さと貧しさを誇る人間になって行きたいと思います。神の呪いも幸いも、共に神からの贈り物ものとして受け止め、どんな時でも、主に寄りすがって歩んでゆきましょう。そこにこそ、私たちの真に幸いな人生があるのではないでしょうか。
(岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional