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向こう岸に渡ろう (マタイ8・18~27)

メッセージ

2010年5月16日富里教会
「向こう岸へ渡ろう」
(マタイによる福音書8:18~27)

1. 死人のことは死人に任せなさい。(弟子の覚悟)

マタイによる福音書8章18節に「イエスは自分を取り囲んでいる群集を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。」とあります。イエス様の周りには大勢の群衆が取り囲んでいました。そして、弟子たちに対して、向こう岸へ渡ろうとおっしゃったのです。主が立っているカファルナウムの町から、ガリラヤ湖の反対側、ガダラ人の地方まで、船で南の方に下るようにして出発しようと声をかけました。

これは湖を船に乗って向こう側へ渡ろうということですが、実は、向こう岸とは天国、そしてこちらの岸とは現実の世界という意味も含んでおります。良く、仏教用語で、彼の岸と書いて彼岸と言いますが、これは来世、あの世を意味しています。そして此の岸と書いて、此岸、すなわち現世という意味です。ですから、イエス様が「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったのは、向こう岸、みんなで天国へ行こうとおっしゃったということです。そのためには船に乗って向こう岸に行かなければなりません。そして、この船は教会を意味していることになります。

しかし、このイエス様の御言葉に従って行くためには、条件がありました。一人の律法学者が「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります。」と言って志願してきました。すると主は、「狐には穴があり、そらの鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない。」と言われました。これは、イエスに従って行く弟子としての人生には、自分の家でゆっくりと休んだり、余生を過ごしたりする時間はない、生涯伝道で明け暮れるぞ、それでもついて来るか、と尋ねたのでした。

イエス様に従って、弟子として天国目指して歩む人生と言うのは、それくらいの覚悟が必要だということです。これは、牧師であろうが信徒であろうがそれくらいの覚悟は必要だということです。たとえ、マイホームを持って、余生はこれでゆっくり過ごそうと考えたり、自分の家で息子や孫たちに囲まれて生涯を送ろうと思っても、それはまだ、本当の自分が帰るべき我が家ではないと言うことです。仮の住まいです。私たちが本当に枕して安らぐことのできるのは、天にある永遠の家に帰る時だけなのです。この世では生涯、旅人なのです。

もう一人の弟子が、「主よ、まず父を葬りに行かせて下さい」と言いました。すると、イエス様が「私に従ってきなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」(8:21~22)と言いました。これは、少し厳しい言葉です。自分の父の死に際にも、また葬式にも行けないのです。別なところでは、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)とも言われました。

なぜそこまで厳しく言うかと申しますと、その理由は、自分の父も自分の家族も親戚もすでに霊的な意味では死んでいる者たちです。ただ、あなただけは今、私に従ってきて、命の方を選び取りなさい、そちらの方が大事だからと主は言われました。私たち人間は、そして特に日本人は親兄弟、お墓、先祖といったものに弱いです。完全に縛られています。正直言いまして、血縁の絆のほうがキリストの絆よりも強いかもしれません。もしこの弟子が、「イエス様、ともかく行って、葬儀さえ終ったらすぐに戻ってきて従います。」と言ったかもしれません。でも、イエス様は行ったらもう彼は帰って来られないということを知っておられました。残された母をどうするか、家や畑をどうするかと周りから言われたら、おそらく来れなくなることは目に見えています。

人は、「今」と言うこの瞬間に従わなければ、永遠に従うことはないということです。今、船にイエス様と一緒に乗るかどうかです。今を逃がしたら、永遠に天国へ行く道は失われてしまうのです。岸に残されてしまいます。イエス様に従うことは、この世での大きな犠牲が求められます。でも、戻って死人の仲間になって失われてしまうよりは、イエス様に従った方が永遠に生きる道です。この岸辺は死ぬか生きるかの別れ目になりました。私たちは引き返して良いでしょうか。この世のマイホームを目的にしていいでしょうか。真の家族と真の住まいは、永遠の命であるイエス様の中にあります。

2.眠っているイエス

弟子たちは、群集を後にして、また自分たちもいろんな覚悟をし、犠牲を払ってイエス様に従いました。イエス様と一緒に、教会という船に乗り込みました。ところが、それでもまた人生の旅の途中で、教会の中でも嵐が襲ってくることがあります。こんなはずではなかったと言うことが起こります。8:23から読んでみましょう。「イエスが船に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、船は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、『主よ、助けて下さい。おぼれそうです。』と言った。」

イエス様が、先に船に乗り込みました。それに弟子たちが従いました。船長はイエス様でした。ところが、間もなくイエス様は眠ってしまわれたのです。どうして眠られたのでしょうか。船に乗って一安心して、疲れでもでて来たのでしょうか。おそらく、船を操るのも、またこのガリラヤ湖を渡るのも、弟子たちの方が上だったからではないかと思います。弟子の主なメンバーは漁師たちです。船の扱いもコースも彼らの方が、イエス様よりも熟知していました。おそらく、「先生、海のほうは私たちに任せてください。全部やりますから、あなたは船の艫の方で休んでいて下さい」とイエス様を差し置いて、自分たちで船を操ったのではないかと思います。

でも、突然の嵐にはかないませんでした。このガリラヤ湖は、地形の関係で突然嵐が起こると言われています。案の定、船がにっちもさっちも行かなくなり、弟子たちはイエス様を起こしにかかりました。私たちは、突然襲ってくる嵐には、経験や技術がいくらあっても歯が立ちません。また、ある意味では、イエス様が眠ると嵐が襲ってくることもあるのではないでしょうか。ここに、キリストの弟子ですけれども、肉的なクリスチャン、まだ真の弟子になっていないクリスチャンの姿を見るような気がします。

つまり、イエス様を受け入れ信じて、従ってはいるけれども、まだ、自分の力自分の知識や自分の経験で従っている人のことです。一緒に、教会という船に乗り込んで、天国を目指してはいるものの、自分の技術や経験、知識に頼る時、そこには大きな落とし穴が待ち受けています。教会が嵐に大きく揺れて、波が入り込み、沈みかけてしまうようなことがあります。つまり自分たちが教会をひっぱっているといって、自分たちが船の先頭にたち、舳先にたって雄々しく前進航海していたのではないでしょうか。肝心のイエス様は、居場所をなくして、艫の方に場を譲っていたのではないかと思います。

でも、真の船長はイエス様です。私たちは水夫です。船長の命令どおりに動かなければなりません。船長は、操舵室に立って、前方を見つめ、様々な指示を出します。ところがいつの間にか、操舵室にはペテロが立ってしまっていたのではないでしょうか。ですから、イエス様はしかたなく、艫のほうに行って寝ているしかありませんでした。教会に限らず、私たちの人生においても船長はイエス様です。ですから絶えず、船長に伺いを立てて、その指示に従う必要があります。自分勝手に自分の人生も教会も操ってはいけません。ルール違反です。
(成田の場合には、船長ではなく、機長にイエス様をたとえた方が良いかも知れない。)

つまり教会は、本来イエス様がおられる場所に、いて下さるようにしなければなりません。教会の中で、イエス様がいる場所はどこですか。後ろの方ですか。そうではありません、イエス様は常に教会に先頭に立って、教会の真ん中に立っておられなければなりません。教会の中心はイエス様です。教会の頭はイエス・キリストです。教会の船長はイエス様です。イエス様を邪魔扱いし寝せてはいけません。

イザヤ書62:6に「エルサレムよ、あなたの上壁の上に、私は見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。主に思い起こしていただく役目の者よ、決して沈黙してはならない。また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取りかかり、エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは。」という言葉があります。

神様を沈黙させ、お客様にしてはいけません。主人はイエス様、船長です。船長がいなければ何もできません。私たちはいつも、「イエス様、教会の中心にいて下さい。あなたはすばらしいお方です。私たちの救い主であり、偉大な主です。どうぞ、私たちの讃美を受けて下さい」と、主をほめたたえ讃美する必要があります。イエス様を沈黙させてはいけないのです。イエス様を眠らせてはいけません。イエス様が眠ったとたんに、嵐が起こり、サタンが大きな力を振るって船に襲いかかったのです。

3.主よ、助けください。

案の定、弟子たちはにっちもさっちも行かなくなって、イエス様を起しました。「主よ、助けて下さい。おぼれそうです。」と、パニックになって叫びました。これはいわば、苦しい時の神頼みの信仰です。苦しい時、試練にあった時、どうしようもなくなった時、「神様、お助け下さい!」と叫びだすようなものです。そして、イエス様が起き上がって、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」とおっしゃって、風と湖をお叱りになりました。すると、すぐに風も波も止んで、無風状態になったのです。そこで、みんな驚いて「一体この方はどういう方だろうか。風も湖も従うとは。」と異口同音に驚きました。

イエス・キリスト様は、どんな嵐も波風も静めるお方です。当時、ユダヤ人は海には魔物が住んでいると言う迷信がありました。この魔物が突然荒れ狂って、船もろとも人間を真暗闇の海の底に静めてしまうと考えられていました。確かに船の上は一寸先は闇です。四国にいる時、よくフェリーに乗りましたが、夜の海ほど怖いものはありません。真暗闇です。夜の海を見ていると暗闇の中に引きずり込まれてしまいそうになります。

でも、イエス・キリスト様はそういう魔物、サタンの働きをも退けられるお方です。十字架の上で、悪魔にも勝利されました。そして私たちの罪をも赦して下さいました。たとえ、イエス様の目から見て、本当に信仰が薄い者であっても、苦しい時の神頼みでしかないような信仰の者であっても、イエス様はその祈りに答えてくださいます。祈りと言うよりは、パニック状態になって叫んでいるような祈りです。決して、お前の信仰は薄いとか、信仰が弱いとおっっしゃって拒否したり、私たちを非難して知らん顔をしたりするお方ではありません。

本当に無きがごとくの、苦しい時の神頼みのような信仰でありましても、それに立ち上がって答えてくださり、大きな権威と力を持って闇の力、この教会を海の中に沈めてしまうおうとするサタンの力に勝利して下さるお方です。同僚の牧師も、「教会が嵐に翻弄され、今にも沈みかけるような時が何度もありましたが、その時には、イエス・キリストの御名により頼んで祈り、助けを求めて、この教会で宣教の働きを続けてくることができました。」とおっしゃっておられました。

本当に弱い私たち、信仰の薄い者ですが、そのような者の祈りにも、しっかりと答えてくださる方です。ですから、嵐の時だけではなく、順風満帆で航海している時も、私たちを約束の御国に導いて行って下さる、まことの船長であるイエス・キリスト様をいつも先頭にして進んでまいりましょう。いつも、祈祷会に来てイエス様に祈りましょう。家庭でも祈りましょう。イエス様を眠らせてはいけません。「私の神、私の主よ、目を覚まして起き上がり、私のために裁きに臨み、私に代わって争って下さい。」(詩篇35:22)と必死に祈りましょう。

自分の経験、自分の感、自分の知識に頼らないで、何事でも船長であるイエス様に尋ねて、その指示を待って行動するようにしましょう。牧師はそのために立てられています。私も常に船長である主に報告し連絡し相談しながら、伝道牧会をして行きたいと願っています。皆さんも、主に尋ねもとめ祈りつつ、そして航海士である牧者の私にも相談しながら、進んで行きましょう。絶えず、主をほめたたえ、讃美と感謝をもってイエス様をこの富里丸の先頭に立てて、約束の向こう岸を目指して歩んで行こうではありませんか。
                                    (岡田 久)

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