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古い文字ではなく新しい御霊によって (ローマ7:1~6)

メッセージ
2021/8/29
富里キリスト教会礼拝説教
「古い文字ではなく新しい御霊によって」
(ローマ書7:1〜6)

①律法は生きている間だけ
ただ神の恵みによってのみ救われる。ならば、罪をいくら犯して関係ないんだな。そういった福音に対する反論、勘違いに対してパウロは丁寧に、「いや、そういうことではないのだ」とこのローマ書6、7章で3つの例えを用いて語っていきます。一つはバプテスマ、もう一つは先週語った奴隷、そして最後の一つが今日の結婚のたとえです。その例えの中でパウロは、私たちは罪に死に、解放された。そして今は、新しい命に生きており、全くもって新しいものへと変えられたのだ。それゆえ信仰によって救われた者は、罪からむしろ離れていくのだ。そのように何度も語っていきます。
先週、取り扱った奴隷のたとえ。これは自由人と奴隷人のいるローマ社会に生きる異邦人にとっては、身近でわかりやすいたとえだったことでしょう。しかし、ユダヤ社会の中で生きているユダヤ人にとってはいまいちピンとこなかったかもしれません。そういったことに配慮したのかパウロは、ここからは結婚に関する律法を例えに用いて、律法を知っている人々、つまりユダヤ人に対して語っていきます。ローマ教会には異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンの両方がいたといわれています。パウロはこの文化的、宗教的背景の違う異邦人、ユダヤ人のどちらに対しても語っていき、そこにあるギャップをイエス・キリスへの信仰によって埋め、一つとしようとしていきます。パウロの牧会的配慮がここにもみられるように思います。
さらにいえば、特にパウロは生粋のユダヤ人でした。それゆえにユダヤ人の気持ちは痛いほどよくわかるのです。ユダヤ人にとって、もちろんクリスチャンにとっても同じですが律法とは単なる人の言葉ではなく、永遠不変の聖なる神の言葉です。それを守らなくてはならないと頑なにもずっとユダヤ人は思っていました。そんな彼らに対して、律法ではなく信仰によってこそ義とされるという言葉は律法などどうでもいい、捨ててしまえと言われているような響きがあったことでしょう。そこに大きな躊躇、ためらいがユダヤ人クリスチャンにあることをパウロはよくわかっていました。
しかし、だからこそパウロはここで結婚に関する律法を例えに、いや、そうではないのだと語っていきます。律法を捨てるのではなく、私たちは一度死んでいるのだから、もはや律法から解放されているのだ。だから律法によらない生き方は、決して神への反逆ではないのだ。律法そのものよりも律法に対するマインドが変わるだけなのだ。パウロはそのように語ります。
この結婚に関する律法の例えについて少し見ていきましょう。当時の律法において、今の私たちの法律や認識も同じだといってよいでしょうが、結婚というものは相手が生きている間はその人との契約によって結ばれているわけですね。その中で、他の人と結婚してしまったら重婚になりますし、そもそも不倫は律法において姦淫という大きな罪であります。しかし、結婚相手が死んだら、その律法、契約はなくなり残された者はそこから解放されます。新たな者と結ばれることを姦淫とはいいません。むしろ、それが若き時であれば後ろを振り向かず、前を向いて新しい相手と生きていくことは喜ばしいことでもあると言えるかもしれません。ルツ記において義理の母であったナオミが亡くなった息子の嫁であったルツたちに早く新しい道を進むようにと促した気持ちは、ごくごく自然なものだといえるでしょう。
また、法律というものは厳密にいえば死んだ者をさばくことができません。すでに死んだ者を裁判にはかけられませんし、もしやって有罪となったとしても墓から掘り起こして死体に鞭打つ姿はもはや、滑稽であると言わざるをえません。ですから、罪に死に、律法に死んだ者には、もはやその拘束力はなく、解放されているのです。だから大丈夫だ、安心しなさい。決して神の言葉をないがしろにしているということではないのだよ。そのようにパウロはユダヤ人クリスチャンに語りかけているのです。

②律法ではなくキリストの実に結ばれて
ローマ7:4
「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」

私たちは罪に死に、律法に死んだ。しかし、そこで終わりではないともパウロは語ります。律法に対して死んだ者はキリストの体に結ばれて新しく生まれるのです。今まで囚われていた罪、欲望から離れ、今までの考え方や価値観がリセットされるのです。掟、規律を守らなければならない、破ってはダメだ。間違ったことをして怒られないようにしないと、人に頼らず甘えず自分の力で、自分を律して生きていかなくてならない、そのようなマインドから解放され、恵みによって生きるという全くもって新しい自分に変えられるのです。
そしてそのキリストに結ばれた私たちは、神に対して豊かな実を結んでいくのです。イエス様は、弟子たちに

ヨハネ15:5
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

といわれましたがこれはまことにそのとおりであります。必死で自分の力で生きようとするかつての自分に死に、主イエスという幹につながりただただ栄養をいただくという、自分を手放し、神に赤子のように信頼して全てを委ねて生きることによってこそ私たちは本当に素晴らしい実を結ぶこととなるのです。
そして、その栄養の名前は聖霊です。主を信じ、留まり続けることによって聖霊という栄養はさらにさらに与えられ、その中で私たちは罪から離れ、御霊の実をつけ、人格が少しずつ少しずつイエス様に似た者とされていくのです。御霊の実とはこういったものであるとガラテヤ5:22に記されていますがそれは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、といったものです。私たちはキリストの体に結ばれる中で、かつての自分とは全く違ったこのような者へと少しずつ果実が実るように変えられていくのです。
そしてこのような御霊の実の性質は、実は律法自体の本質でもあると言えます。本来、律法とは神の慈しみと憐れみにみちたものなのです。しかしユダヤ人、いや、そもそも私たち人間はこの神の律法を守らないとダメだ、このように生きなくてはならない、この律法を全うできない自分も他者も否定されなくてはならない、守れない自分は神の怒りによって滅ぼされてしまう。このような思いで律法と向き合っていました。
このような強迫観念の中、自分の力で戦おうとしても全く歯が立ちません。また、ダメだと言われるとやりたくなるのが人のさがと言いますが、これが人間の中にある根源的な罪深さです。何が罪なのかと律法によって明らかにされたことによって、私たちの欲望というものはさらに増してしまいました。
しかし、今は違うのです。今や律法を守られなければならないという恐れから私たちは解放されているのです。罪に囚われ、律法を全うできなかった自分、この惨めな私を主イエス・キリストは内臓が引きちぎれそうなほど憐れみ、そして実際に私たちのために肉を割かれ、血を流され十字架を持って全て受け取ってくださりました。それは、私たちを縛る律法という証書を十字架にくぎ付けたことをも意味します。

コロサイ2:14
「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださりました。」

このように私たちは、キリストの十字架という大いなる神のみわざによってもはや律法から解放されているのです。なんと驚くべき恵みでしょうか。この福音、圧倒的な十字架の愛を受け入れて生きる時、私たちの心は真に自由なものとなり、〜しなければならない、ではなく〜したい、神に喜ばれる者として生きたいといった神様への愛情表現として守る義務はなくとも律法を守りたくなってくるのです。そこには、やっきになってしなくてはと言っていた時よりも、しぶしぶ仕方なく守っていた時よりも、むしろ聖霊の力によって喜んで主体的に神の言葉に従って生きていく姿があるのです。

③文字ではなく霊に従う生き方
これが文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方なのだとパウロはユダヤ人クリスチャンに丁寧に説明していきました。ここまでしつこく丁寧に語った理由はよくわかります。なぜなら、それは救われた者において、ユダヤ人でなくとも、こうしなくちゃいけない、自分の力で頑張らないと、といった律法に生きようとするマインドは救われてなお、私たちの頭にこびりつき、引きずられることがあるからです。
全てを神さまにお任せしよう、そうでないと私は、もはや生きていけない。委ねる中で自分のできることを喜んで神様にお返ししていこう。こう言った霊に従った生き方をしていても、いつのまにか気づかないうちに〜しなければならないという文字に従う生き方に引き戻されてしまうのです。せっかく解放されたのにまた、自分から縛られにいくことを神様は喜ばれません。本当の意味で解放された者の人生はまことに喜びに満ち、むしろ今までできなかったことがどんどんできるようになっていく、無限大の可能性が広がっています。人の力ではなく、神の力、つまり聖霊という恵みによってなされるからです。神様は私たちにそのようになってほしいのだと願われているのです。
最後に、文字に従う生き方から霊に従う生き方へと変えられ、本当に可能性が広がった神学校時代の私の大切な友人の証をいたします。彼の名前はあだ名ですが、ひらりんといいます。(本人から名前を出すこと、証をすることへの承諾をいただいています)彼は30代で、趣味はボードゲーム、入学式で一人ぼっちだった私に気づいて笑顔で話しかけてくれた心優しい青年です。しかし、ひらりんにはそのような素敵なパーソナリティと共に、彼独自のパウロのとげのようなものがありました。彼が入学式で私に声をかけてくれた時、彼は杖で自分の体を支えていました。ひらりんは若くして病を発し、足に不自由をきたし、杖をついたらなんとか歩けるといった状況だったのです。
そんな中で、彼は神学校に来ました。そこでの生活は不自由そのものだったことと思います。当時、学園内のバリアフリーへの意識の低さに気づかされることが多くありました。今は、彼のおかげで色々改善されました。「僕にとっても神学校にとってもチャレンジ。」だと言っていたことを思いだします。彼にとっての神学校生活はまさに自分との戦い。そうやって彼は自分の杖を握りしめていました。
しかし、やはり中々に厳しいものがありました。みかねてだれかが「車椅子、使ったら?」と言いますが、その言葉に対し彼は怒ったりしたそうです。自分はできるんだ。自分の力でやり遂げるんだ。病によって色々諦めてきた、思い描いていた理想の自分とあまりにちがうギャップに抗いたかった。現実を認めたくない。そういう思いがひらりんにはあったようです。彼は心優しい人間でしたが、必死に杖を握り締めて歩く姿が、私にはどこか苦しそうにも見えました。
そんなひらりんに転機が訪れます。なんと今まで使っていた薬がつかえなくなり、さらに歩けなくなってしまったのです。もう、さすがに車椅子に乗らざるを得ない。だれかに頼り、助けてというのはプライドが邪魔して抵抗があったことでしょう。誰かに素直に助けを求めるということは簡単なようで簡単ではないのです。しかし、もうここまでくれば助けてくれと言うしかありません。彼は杖を手放し、プライドを手放し、神を信頼し、私たち学生に助けを求めました。当然、私たちは喜んで彼の車椅子を押しました。共に生きる私たちにとってそれはむしろ恵みであり、嬉しいことでした。そして、それは彼にとっても嬉しいことだったようです。このエピソードは彼の心に大きなインパクトを与えました。
そして、その時から彼はだんだんと解放され始めていきました。自分の力で、という律法的なマインドを手放し、もう神様にゆだねて、素直に助けを求め、信頼する生き方に彼は変わっていったのです。彼の病自体は結局癒されませんでした。しかし、彼はその病を持つ自分自身を両の手で受け入れ、神に信頼し、素直に人に助けを求めて生きる者とされたのです。本当の意味でひらりんは癒され、解放されていったのです。
そして、さらに彼の思考は、より自由なものへとなっていきました。彼は市から補助金をもらって電動車椅子を購入したのです。福祉社会の中であるべきサポートを彼は活用したのでした。自分自身の両の足で立って歩いて生きる。こういった自己実現を彼は達成できませんでした。しかし、その自己実現という杖を手放し、キリストの体に結ばれて霊に従って生きる者となった彼は電動車椅子に乗ってどこまでも進んでいける者となったのです。そして、彼は今、チャーチスクールで教師をしながら、一人暮らしをしています。きっと、神様に信頼しながら、素直に人の助けをもらいながらのことでしょう。最近はラジオもしているそうです。
このひらりんの杖から電動車椅子という話はとても今日の箇所の話を象徴的に表しているように思います。律法に生きようとするとき、私たちは自分を苦しめ、罪からさらに逃れられなくなります。しかし、御霊によって生きようとしたとき、私たちは神への信頼の中、私の力より圧倒的にすごい神様が、この小さな私をキリストに似た者へと作り変え、自由な者として、自然に律法を守るようにしてくださるのです。
委ねなくてはならない、任せなくてはならない、ではありません。しかし、神様は自分の杖で必死に歩こうとする私たちに、両手を広げながら、もっと私にまかせてごらん、もっと私に頼ってごらんと招いておられるのです。そしてその招きを信頼し、身を任せた時、私たちは聖霊によって鷲のように空高く駆け上り、電動車椅子のようにどこまでも進んでいくことができるのです。自分の力を信じる律法主義という杖を握るのではなく、神への信頼の中、聖霊という電動車椅子に乗って、私たちもどこまでもイエス様と共に歩んでまいろうではありませんか。

武井誠司

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