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十字架につけろ (ヨハネ19:1~16)

メッセージ

2015年3月15日富里キリスト教会

「十字架につけろ」
(ヨハネ19:1~16)

1.総督ピラトの良心

今日のイエスの死刑判決の場面で、ピラトは、法律にのっとってイエスには何の罪も見いだせないことを承知していました。それでも群衆がイエスを死刑にしろと騒いでいるのは、祭司長や長老たちのイエスに対するねたみから死刑にしようとしていることに気づいていました(マタイ27:18)。ですから、今日のイエスの死刑に関する記事(18:38~19:16)の中で、ピラトは四回もイエスに罪を見出せない、できれば何とか釈放したいと考えていたことが伺われます。(18:38,19:4,6,12)

そして一緒にエルサレムに来ておりましたピラトの妻も、裁判の最中に夫に伝言しております。それは、夢の中でイエスに苦しめられたので、その人には極力関わらないようにして、穏便にことを済ませるようにということです。(マタイ27:19)ピラトはイタリア人ですので、いわば今回の事件については門外漢です。ローマの法に照らして公平に裁判ができる立場でした。そして、彼はイエスには罪がないということを百も承知していたのです。できれば中立の立場で、公平な裁判をし、ユダヤ人たちにも納得がゆく形でこの事件の幕を引きたかったわけです。何とかユダヤ人のリーダーとイエスの間に入って、この抜き差しがたい憎しみの対立の構造を少しでも和らげて、ちょうど良い落としどころを見つけて仲裁、和解をさせようとしたのではないでしょうか。

しかし彼は、正義を取るか不義を取るか、正義の故に自分に不利な立場をとるか、不義をして自分に有利な立場をとるかの二者択一を迫られたのです。いわば正しい裁判をしてイエスを取るか、不正な裁判をして民衆の歓心を買うかです。正義を取るか世間の評価を取るか、イエスを取るかローマの皇帝カエサルを取るか、真の王を取るかこの世の王を取るか、神を取るかサタンを取るかのどちらかの選択を迫られたのです。これは何を意味するかと言いますと、この世には、このイエスの側に立つか、それともこの世の支配者であるサタンの側に立つかのどちらかしかないということです。中立の立場は存在しないということです。

そしてピラトも、罪なき者を殺そうという明確な殺意や憎しみやねたみを持っていなくても、そういう悪い人間の脅しや唆しに引きずられて行ってしまう弱さを持っていたのです。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称するものは皆皇帝に背いています。」(19:12)と言う脅しの言葉に屈服してしまいました。ピラトは、公平な裁判をして正しい側に立とうとしましたが、自分の弱点を突かれて、自分を守るために悪の側についてしまったのです。

2.根深い人間のねたみという罪

「そこで、ピラトはイエスを捕えて、鞭で打たせた。兵士たちはいばらで冠を編んで頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないのが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、『十字架につけろ。十字架につけろ』と叫んだ。」
(ヨハネ19:1~6)

イエスを何が何でも、亡き者にしてしまうまでは安心できないのです。祭司長や民の長老といったリーダーであればあるほど、その怒りと妬みが大きいのでしょうか。しかも大勢の群衆を焚きつけて、なにが何でも殺そうと荒れ狂っていたのです。イエスの登場によって、彼らユダヤの宗教指導者たちの面目は丸つぶれです。リーダーであればあるほど、プライドが高く、それが傷つけられることが耐え難かったのでしょう。

「もし総督がイエスを殺さないなら、彼を釈放するなら、あなたは王と言っているこの男を赦して認めることになるから、あのローマの皇帝であるあなたの王を、否定することになりますよ。あなたがもし、そのようにしてイエスの側に立つならば、わたし達は皇帝カエサルにあなたの謀反を訴えることもできるのですよ」と言ったのです。「あなたは皇帝カエサルの友ではなく、あなたはあのナザレのイエスの友なのですか」と総督を脅したのです。(19:12)ピラトの弱点を突いた、脅しです。ピラトは彼らに恐喝されたのです。実にサタンは狡猾で、人を罠にかけるのが得意です。

3.罪人を赦す主の十字架

こうして、イエスを何とか赦そうと努力した総督ピラトも、イエスを十字架に渡してしまいました。イエスを十字架につける側になってしまったのです。このイエス・キリストの十字架の前で、自分は中立であり、あのイエスの十字架とわたしは何の関係もないと断言できる人一人もいません。すべての人が、アダムの子孫であり、生まれながらにして罪を持っています。ピラトだけではなく、あのイエスの弟子達でさえ、もう雲の子を散らすようにしてイエスを裏切ってみんな逃げて行ってしまいました。一番弟子のペテロは三度もイエスを知らないと言ってしまいました。

パウロも言っているように、「正しい人は誰もいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善をおこなう者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10~12)と。自分の立場を守るために、イエスに十字架刑の判決を出してしまったのはピラト総督ですが、わたし達も自分を守るために、自分の立場を守るためにイエスとは関係がないと言ってしまうものです。命欲しさに、十字架のそばから逃げ出してしまうものです。イエスを見捨てたのはわたし達なのです。イエスを十字架につけたのは、裏切ったユダだけではなくわたし達なのです。すべての人がこのイエスの十字架の死に責任があります。誰もわたしは潔白ですと言える人はいないのです。

そういう罪深い私たちのところに、主は来て下さったのです。「神は、その独り子をお与えになるほどに、この世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)イエスを十字架につけよと叫んでいる民衆のためにも、またイエスをねたみ故に亡き者にしようとしているユダヤの指導者たちも、そしてかかわりを持たないようにしたピラトの罪のためにも主はこの世に来て、十字架の上で血を流され罪の贖いの業を受けて下さったのです。

この時、イエスの代わりに釈放された犯罪人バラバの心境を描いた一人の人が、その書物の中でこう言っています。「当初バラバは、自分が自由になること以外何も考えてはいなかった。それから彼は、自分に代わって死んだあの男のことについて考え始めた。イエスの中にある何かが、彼の心をとらえ、彼はイエスの十字架の後について行ってその最後を見届けた。

そして、十字架を背負うイエスの姿を目の当たりにした時、バラバに一つの思いが心に焼き付いた。『あの十字架を負わねばならなかったのは、あいつではなくこの俺だったのだ。あいつが俺を救ったのだ。あいつは俺の身代わりにあって十字架を背負い、十字架の上で苦しんで死んでくれたんだ。』と。そしてさらに、バラバがカルバリの丘で十字架につけられたイエスの姿を見た時、彼の心に思い浮かんだことはただ一つ、『あそこに架けられなければならなかったのは、あいつではなく、この俺だったのだ。あいつが俺を救ってくれたのだ。』」と。

主イエスは、その生涯の最後の最後まで、罪人を救うためにその命を身代わりに献げて下さったということです。あの極悪人、何人も人を殺し、金品を盗んだ強盗のバラバの身代わりになってくれたのです。最後の最後まで、罪人を救うためにこの世に来て下さったのです。自分を嘲ったローマの兵士、祭司長たち、殺せと叫んでいる群衆、そして総督ピラトの罪をも赦すために十字架に向かわれたのです。それは自分が、この世の罪、人々の罪の罰をその身に代わって受けるためでした。人々の心の玄関に、御自分の血を塗って下さるためにこの世に来られたのです。

最後に、イザヤ書の苦難の僕と言われる箇所を読んで終わりたいと思います。
「彼が刺し貫かれたのは、わたし達の背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたし達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたし達はいやされた。」(イザヤ53:5)

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