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十字架にある主の愛

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2009/5/24 富里キリスト教会
「十字架にある主の愛」
(エフェソの信徒への手紙 1章3節〜23節)

おはようございます。今日このようにして富里キリスト教会の皆さんとお会いできたこと、そして共に主を賛美することのできる祝福に心から感謝いたします。

東京バプテスト教会の奉仕のひとつに、セレブレート・リカバリーというものがあります。日本語では、「回復の喜び」と訳されますが、簡単に言いますと、マタイの5章にある山上の垂訓に基づく回復プログラムです。私たちは誰でも、人生において、人を傷つけ、人から傷つけられ、そして自分を傷つけて生きてきました。ですから、私たちはみな、神様の意図された人生を生きるために、悔い改めて自分の回復に取り組んでいく必要があるのです。ここでは、週1回合計25回の交わりを通して、霊的に支えあい、励ましあえるグループ内の仲間と一緒に、自分の心にある問題を神様に取り扱っていただき、神様の御言葉によって、回復するプログラムです。参加してみて気づいたのは、問題を何も抱えていない人は誰もいないということです。どんな人であっても何かしら神様に取り扱っていただく必要のある問題を持っているのだと思います。

アメリカの教会でカウンセリングをしているある牧師先生の本の中にこういう記述がありました。「鬱(うつ)などのメンタルな問題を抱えている人達の最も多い原因が、赦せない心、つまり、誰かしら赦せない人がいて、そしてそのことをずっと心に抱えているせいである。」
また別の説教の中である牧師先生が言っていた言葉ですが、人をうらむこと、人を憎むこと、というのは、相手が傷つけばいいと念じながら、自分自身が毒を飲み続けるようなものだそうです。人に対して赦せない心を抱え続けることは、これほどまでに自分の心にとって良くないことなのですね。

そもそも「傷つく」というのはどういうことでしょうか。それは人間の罪の性質から生じる「肉の行い」であるとガラテヤ人への手紙(5:20,21)に書いてあります。それを具体的に羅列してみると、敵意 争い、そねみ、憤り、党派心、分裂・分派、ねたみ、などです。そういうものがあるとどうなるのかはヤコブの手紙(3:16)にこう書いてあります。「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです」。さらに、同じくヤコブの手紙(4:1)にはこうあります。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」。そしてその結果、感情を害したり、不愉快になったり、傷ついたり、赦せないという思いを抱いたり、怒りを感じたり、憎んだり、うらんだりして、そして人間関係が冷たくなり、愛が冷えて、人と距離を置く、のではないでしょうか。そしてこういう現象をまとめて「傷ついた」と表現し、その場合の多くは「プライドが傷ついた」、こういう言い方もできると思います。

セレブレート・リカバリーの25回の交わり、これをステップスタディと呼んでいますが、そこでは、「心のたな卸し」ということを行います。紙を用意して、今までに自分を傷つけた人、または自分が傷つけた人を書き出し、そしてそれによってどういう影響を受けて、今の自分にどのような影響を及ぼしているかを思いつくままに書き出すという作業です。
私も参加当初は、今までの人生を洗いざらい掘り起こして、いやなこと、傷ついたこと、今でも忘れられないこと、などをリストに書き連ねていったものですが、あるとき、ふと神様にこう気づかされました。
なぜ、私はキリストと共に十字架にかかったはずの古い自分をほじくり返すことばかりに集中して、主にあって新しく変えられた自分と、その自分に絶えず降り注ぐ主の祝福を見ようとしないのか。聖書には、「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント人への手紙第一5:17)」とあります。

イエス様はなぜ私たちのために十字架の上で私たちにその命を捧げてくださったのでしょうか。それは正にこの「傷つく」ことを私たちの代わりにイエス様ご自身が「傷つかれ」、そしてその傷と報いを取り扱ってくださったのではないのでしょうか。1ペテロ(2:24)に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ(罪に死に)、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と書かれています。これこそが私たちクリスチャンの信仰の根本ではないのでしょうか。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と言う御言葉を日ごろよく読み、また口にしていながら、未だに自分の昔の心の傷を大げさに取り沙汰している自分の行動は、何かが間違っている、と感じました。つまり、本当の原因は、自分の傷が癒されていないということではなく、キリストの十字架の意味、言い換えれば、キリストを受け入れた自分が一体キリストにあってどんな存在なのか、を私はまだちゃんと理解していないのだと気づきました。

罪とその性質からくる数々の問題、― 先ほどガラテヤ人への手紙(5章)から引用しました、「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」― これらのものから完全に開放されるには「自分に死ぬこと」つまり、「自分の肉を十字架につけてしまう」以外に解決方法はないのです。もしそれ以外に解決方法があるのなら、イエス様は敢えて私たちのために十字架につくことはされなかったでしょう。コリント人への手紙第一(1:18)にはそのことをこう言い表している箇所があります。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」つまり、十字架のメッセージを本当に自分のものとするときに、本当の意味で受け取るとき、そのときこの天地を創造された偉大なる主の力によって、私たちの肉と罪の性質から来る全ての「傷」から自由になることができるのです。聖書では、そのような私たちを指して、「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ人への手紙3:10)」とあります。ここでいう真の知識、とは言うまでも無く、私たちの主であるキリストのことです。また、さらに聖書にはこう書いてあります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(ヘブル人への手紙12:2)」

エペソ人への手紙1:3〜14
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にある全ての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷の無い者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義(おくぎ)を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は、私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」

ここでパウロが言わんとしていることは、私たちの持っているものは全てよみがえられたキリストと、私たちの内に住まわれる聖霊との親しい、個人的な関係のゆえに与えられるということです。神様は、私たちが、神の愛と祝福を十分に理解することを望んでおられます。そして神様の愛の中に私たちが守られていること、安全であることを確信することを願っておられます。
ここでは、神様の愛の中に私たちが安全であることを示すために、「証印」という言葉が用いられています。13節で言われている「約束の聖霊をもって証印を押されました」とはどういう意味なのでしょうか?
マタイの福音書(27:66)では、イエス様の墓では石に封印をし、番兵が墓の番をした、と書かれています。ヨハネの黙示録(20:3)では、神様が悪魔を底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことの無いようにした、と書かれています。日本語の聖書では「証印」と「封印」と違う単語で訳されていますが、英語の聖書では全て”sealed”と同じ単語で統一されています。つまり、証印を押すということのひとつの意味は、何かを固定したり、守るという意味です。
ローマ人への手紙(4:11)では、アブラハムの割礼は彼が、信仰によって義と認められたことのしるしと証印であると書かれています。そして?コリント(9:2)には、コリントの人々はパウロが使徒であることの証印であると書かれています。つまり、「証印」の2つ目の意味は、それが本物であること、信頼性、確実性、という意味です。
3つ目の意味は、ヨハネの黙示録(7:3)にありますが、ここでは御使いが神のしもべ達を艱難から守るために、神のしもべ達の額に行ける神の印を押す、と書かれています。
つまり、エペソ人への手紙1:13、「約束の聖霊をもって証印を押されました」という箇所でパウロが言わんとしていることは、こういうことです。神様は私たちがキリストを信じたとき、聖霊を私たちに送ってくださいました。そして私たちの信仰は聖霊によってしっかりと固定され、守られ、私たちが神様の子供であることの信頼性、正当性を確実なものとしてくれています。そしてまたその証印によって、私たちは悪しき者から守られます、つまり不安になったり、それを疑ったりすることから守られる、という意味です。そして14節では、聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です、と書かれています。

パウロはここで、キリストにあって私たちがどういう存在かを書き記したうえで、彼の祈りの中に、この手紙を宛てた信者達への心からの願いを言い表しているのが、その後に続く18節から23節です。

エペソ人への手紙1:18〜23
「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストの内に働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

なぜ、パウロは私たちの心の目が開かれるように祈ったのでしょうか。それは、私たちが救われた後であってもなお癒されずに抱えている心の傷は、私たちがクリスチャンとしてキリストにあってどういう存在であるかを、本当の意味で理解していないからです。そして、私たちがどのような存在かを理解していないならば、私たちの本質に備わっている自由と御霊の実を結ぶことを経験することはできません。昔の古い自分に関する私たちの数々の問題は、全知全能の創造主である主の祝福が私たちに注がれていないのではなく、ただ私たちがそのことに気づいていないだけなのです。そしてそのキリストにある存在の意味を知らないままであれば、人生において、古い自分という鎖につながれたまま生きていくことになってしまいます。
エペソ人への手紙の1:19では、「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」とあります。主イエス・キリストの復活は、この全知全能なる創造主である御父のご計画とその偉大なる力の働きによるものです。そしてイエス様を死からよみがえらせ、悪魔を打ち破った力が、私たちを日々の生活において自由にするべく、私たちにも与えられています。御父はイエス様を死からよみがえらせた後で、その右の座に着かせ、全てに勝る偉大な権威と力を与えました。そしてそれだけではなく、私たちをもイエス様と共に天の所に座らせてくださいました。この後に続くエペソ人への手紙の2:4〜6にはこう書いてあります。

エペソ人への手紙2:4〜6
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストと共に生かし、― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。 ― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

キリストが死からよみがえられたときに、キリストを信じている者達もまた、その霊的に死んだ状態からよみがえり、「キリストと共に」生きる者となりました。つまりキリストが復活したとき、私たちの霊的な死からの復活も起こりました。なぜなら、頭(かしら)であるキリストと、そのからだである私たちはもはやひとつだからです。そしてそれに加えて、神がキリストをその右の座に着かせられ、すべての権威を授けられたときに、私たちをもその右の座に着かせられ、キリストを通して、私たちにも全ての権威を授けてくださったのです。それは全て、私たちが「キリストと共にある」者であるがゆえです。だから私たちクリスチャンの国籍はこの地上ではなく天国なのです。
そしてこれらのこと全てが、二千年以上前にイエス様の復活とその天に昇られたときに起こりました。私たちが「罪過の中に死んでいた」ときにすでに完了していたのです。私たちがイエス様を救い主として受け入れるそのときに、神様が二千年以上前にすでに私たちにしてくださったことを、私たちは受け取るのです。
神様の子供としての私たちの本質的な存在は、この後私たちがある一定の基準にまで成長すれば手に入れられるとか、将来手に入る、というものではありません。私たちは、今現在、それをもうすでに受け取っているのです。私たちは、今この場において、霊的に生きる、神様の子供であり、神様の家族です。

天の御父である神様が私たちに与えてくださった素晴らしい溢れんばかりの愛に感謝します。神様は、私たちにご自分のひとり子の命さえも惜しまずに与えてくださったその愛を今日もまた、私たちにたくさん与えてくださっています。その父の愛を今日も存分に受け取り、全てに感謝して一日を過ごしましょう。
                                 (東京バプテスト教会  寺嶋 伯文(のりふみ)

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