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十分に懲らしめを味わえ (哀歌3:22~33)

メッセージ

2011年3月27日
「十分に懲らしめを味わえ」
(哀歌3:22~33)

1. はじめに

今朝取り上げました「哀歌」は、エレミヤの作といわれていますが、表題はヘブライ語で「エーカー(嗚呼!)」と言う言葉で始まっていますので、「嗚呼!」という題をとって「哀歌」(=悲しみの歌)と名づけられています。

エレミヤは、預言者としてユダ王国の数々の罪と背信を責め、神の裁きの時が近づいていることを預言しました。それ故に同胞からは反発を買い、社会から締め出されてしまいます。神の言葉を語れば語るほど、このような時代の只中にあって、この預言者としての使命がどれほど彼を苦しめ、しばしば挫折感を味わわせたのかを聖書の中から読み取ることができます。しかしエレミヤは、人間の限界を超える苦難と見捨てられる孤立感の極みの中で、やがて成就する神の救いの光を待ち望みつつ、民に語り続けました。

2.神の裁き

4:6にこうあります。「ソドムは、その罪の故に、人の手によらず、一瞬にして滅んだが、わたしの民の娘は、それよりも重い罪を犯したのだ。」と。あのソドムとゴモラの町は、その罪の故に神の手によって一瞬にして火と硫黄をもって滅ぼされてしまいました。自然現象をもって、神はこの町を一瞬のうちに滅ぼしてしまいましたが、今回、ユダの国はもっと残酷な方法で、滅ぼされてしまうことになりました。人の手によらないで、自然現象で滅ぼされたならば、人々はお互いに助け合い、同情しあうことが出来ます。でも、ユダに対する神の裁きは、それさえも赦さないほどの凄惨を極めたものでした。

戦争で、多くの餓死者が出て、子供達も食べ物がなくて次々と死んでゆく有様です。2:20にも有名な言葉があります。「立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。主の御前に出て、水のようにあなたの心を注ぎ出せ。両手を上げて命乞いをせよ、あなたの幼子らのために。彼らは街角でも飢えて衰えてゆく。主よ、目を留めてよく見てください。これほど懲らしめられたものがありましょうか。女がその胎の実を、育てた子を食い物にしているのです。祭司や預言者が、主の聖所で殺されているのです。」(哀歌2:19~20)

しかし、王や他の預言者たちは、エレミヤの預言を信ぜず、当てにならないエジプトの援軍、人間の力と武力に頼って、どこまでも降伏せずバビロン軍に抵抗して戦い続けました。その結果、イスラエルの民は人間がこれほどまでのことをするかというところまで、追い詰められ、まるで生き地獄のような状態になっていったのでした。

3.くびきを負う

しかし、エレミヤは今のこの苦難を何とか逃れようとして、人間の力や武器に頼るのではなく、主の与える苦しみを黙して受けることを王と民に訴えました。 それが今日の御言葉です。哀歌3:28から読んでみましょう。

「くびきを負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。」(哀歌3:28~33)

あなたは若い時にくびきを負いなさい。そして、くびきを負って、一人で黙って座ってそのくびきの重さに耐えなさいと言っています。くびきと言いますのは、家畜の肩にかけて、それに荷車やすきを引っ張らせる道具です。重荷を負うと言う意味もあります。そして若い時に、そういう重荷を負うようなことがあったら、そのくびきを避けようとせずに、それを首につけて黙ってなすがままにしていなさいと言うのです。

エレミヤはここで、このくびきを負うための三つの心構えを教えています。
一つは、「黙して、独りで座っている」ことです。二つ目は「塵に口をつけること」です。そして三つ目は「打つ者に自分の頬を向けること」です。

A)沈黙して、独りで座る

一番目の「黙して、独り座っている」と言うことはとても良いことです。沈黙と孤独は最高の教師です。いつも楽しい仲間と楽しい毎日を過ごしていれば、確かに楽しいでしょう。でも、その人は、自分の人生とは何か、生きるとは何かという人間本来の根本的な問いかけを自分自身にすることなく、花鳥風月の世界ではかなく風に飛ばされては、はかなく消えてゆきます。でも、独り孤独の中に置かれるならば、じっと自分の人生、将来、自己といういうものを考えることができます。

皆さんも計画停電を経験されたと思いますが、夜、真っ暗な中で、独り静かにローソクの灯りを見つめながら、3時間過ごすのもとても貴重な時のような気がします。何もしないで、ただ黙っているのも大切な時間です。私は、停電の時は、ちょうど祈りの時間としてとることができます。夫婦なら、普段はあまり経験できない二人だけの貴重な時間をとることができるのではないでしょうか。

B)塵に口をつける

二番目に「塵に口をつけよ」という言葉ですが、これは奴隷のように主人に仕える態度です。地面に口をつけるほど身を低くするということです。若い時は、理想に燃え、自分のプライドを高く持っています。その自分のプライドを捨てるほどに、へりくだること、謙遜になることです。イスラエルとユダの国の犯した罪の中にプライドがあります。

このプライドが徹底的の打ち砕かれるためにも、自分と言う自我を打ち砕くためにも人間は謙遜という態度を学ぶ必要があります。若い時に、そのような経験をしていることは、将来、どこまでもへりくだって神に仕え、人に仕えてゆくためにも必要なことでした。ですから、もし人から辱しめを受けたり、卑しめられたりするようなことがあったら、むしろ自分から進んでそのような訓練を受けなさいとエレミヤは勧めています。詩編141:5にも「主に従う人がわたしを打ち、慈しみを持って戒めてくれますように。」とあります。

ですから、自分も恥やプライドを捨てて、地面に口をつけるほどの辱しめを受けることによって初めて人の気持ちが解るし、謙遜になって人に仕えるということが解るのではないでしょうか。若い時に、自分のプライドを捨てきれるような経験をする人は、将来希望があるということです。もし、へりくだることが身につかなければ、人間何歳になっても真の人格というものを身につけることができないのではないでしょうか。

C)打つものに頬を向けなさい

三番目に、「打つものに頬を向けなさい」と言うことです。これは、イエス様もおっしゃた言葉です。「悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39)と。イエス様こそ人々にあざけられつつも、大いなる愛と忍耐、寛容を持って十字架の道を歩まれた方です。エレミヤの方は、「十分に懲らしめを味わえ。」と付け加えております。

人間の罪というものプライド、この世の富と言うものがいかに私たちをがんじがらめに縛り付けているかということです。少しくらいの懲らしめでは、効果がないのです。徹底して懲らしめられなければ、人は心底から悔い改めることはできません。とことんまで行かなければ、人間は自分に絶望することはありません。3:18に「私は言う、『私の生きる力は絶えた、ただ主を待ち望もう』と」という言葉があります。

4.悔い改めて、主に立ち帰ろう

神様は私たちを懲らしめるために懲らしめているのではありません。懲らしめる意味と目的があるのです。3:31に「主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。」(3:31~33)とあります。

神様は、私たちを愛するが故に、懲らしめられるのです。ですからこの主の懲らしめを十分に受けることが大事です。途中で止めないで、また苦難のくびきを途中で放り出すのではなく、最後まで味わい尽くすとこによって、もはや自分自身の力ではなく、神の力によってしか生きることができないと気づくまでです。その時に、必ず、神様は憐れみを持って望んでくださいます。

22節に「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。」とあります。またさらに、40節に「私たちは自らの道を探し求めて、主に立ち返ろう。天にいます神に向って、両手を上げ心も挙げて言おう。わたしたちは、背き逆らいました。」とあります。

神様は、今こそ私たちが、手だけではなく、心をも主に挙げて告白しましょう。神様はわたしたちの心をご覧になられます。挫折と孤独と絶望のどん底で、希望の光を求めつつ、心から罪を悔い改めて主の御許に立ち帰りましょう。今はその時です。

たとえ家、財産、土地、家族を失っても、私たちが受けるものは、主イエス・キリスト御自身です。他のものをたとえ失っても、イエス様だけが私たちの受け継ぐべき財産であり宝物だということです。このお方だけは、どんなことがあっても失うようなことのないようにしたいものです。この世の富、知識、地位ではなく、私たちの真の宝物をしっかりと手放さないで、来るべき救いの時を待ち望みながら生きて行きたいものです。

あのソドムとゴモラノ町が滅びる時、神様は避難するロトの家族に向ってこう言いました。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになります。」(創世記19:17)今が、主の山に逃げる時です。手遅れにならないうちに、罪を悔い改めて主の山に一目散にかけ上りましょう。後ろを振り返ってはいけません。
(岡田久)

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