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共に学び、共に励まされる教会 (Ⅰコリント14:23~33a)

メッセージ

2014年3月30日富里キリスト教会

「共に学び、共に励まされる教会」
(Ⅰコリント14:23~33a)

1.教会での集会プログラム

14:26から読んでみましょう。
「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩篇の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。」
                    (Ⅰコリント14:26~28)
パウロはここで、兄弟姉妹が集まったときに、どのようにして集会を持つかを
教えています。まず第一に「詩篇の歌」をうたいます。私たちの教会でも、教会学校の始めに賛美の時を持っています。いつも新生讃美歌かワーシップから3曲くらい選んで賛美しています。パウロの時代には、詩篇にメロデイーをつけたものを歌ったようです。今日でも詩篇にメロデイーをつけて賛美もあります。例えば、「谷川の流れを慕う鹿のように、主よわが魂、あなたを慕う。…」と言う有名な讃美歌もあります。また、礼拝の前にも賛美を歌ってから礼拝を始めます。SG(スモールグループ)でもそうです。賛美しながら、神様の御臨在を仰ぐのです。参加者も賛美しながら神様の懐に入って行きます。

次に聖書の「教え」を語ります。ショートメッセージやわたしのこの宣教の働きが、この「教え」に当たるのではないでしょうか。そしてそのメッセージに対する応答として、会衆が一人ずつ自分に示された聖書についての教えを付け加えたり、その教えについてのさらに細かい具体的なことを述べて実生活に適用させたのではないかと思います。これが、次の「啓示を語る」と言う場面になるのではないでしょうか。啓示の霊が働いて、順番に二、三人に語ることを告げます。

この理性の言葉で「啓示を語る」ということについて、パウロは29節でこう説明しています。「預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語り出した者は黙りなさい。」と。ですから、この啓示の場面では、自分勝手にその場を独占したりしないように注意しています。聖霊様は、一人だけに働くのではありません。その交わりとグループに働いて、かわるがわる預言をさせて下さいます。この場合には、二、三人が順番に語るようにしなさいと言っています。聖霊様が働いて、メンバーの誰かに働いたら、預言している人は次の人に話すことを譲りなさいというのです。いつまでも一人の人が、その集会を独占しないようにしなさいと言っています。(これは皆さん、実際に経験していることではないでしょうか。)

そして、お互いに話している内容が御言葉に沿ったものであるかどうかを、お互いに検討し合いなさいと勧めています。ですから、この集会の中で大事な預言の御言葉の分かち合いというものは、誰も解らない異言で語り合うのではなく、預言、つまり理性と知性の言葉を用いて、誰にでも解る言葉を用いて話しなさいと勧めています。

そして、もし異言を使って語るならば、その場合にも二、三人が語り、必ず誰か一人の人に解釈させなさいと命じています。そして、もし、その場に異言を解釈(=通訳)する人がいなければ、異言を語る者は教会では黙っていなさいと釘を刺しています。つまり、パウロは教会の公の集会では、異言だけで語ったり祈ったりすることを禁じました。なぜならば、教会の集まりは、すべてのことにおいて、「教会員同士を造り上げるためになされなければならないからです。」それ以外の自分を誇ったり、スタンドプレーは一切慎むようにと言っています。

2.秩序ある自由な集会

この14:26に御言葉の中に、「詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈する」とありますが、原語のギリシャ語を見てみますと、「詩編を持っている、教えを持っている、啓示を持っている、異言を持っている」と言う言葉になっています。ですから、集会に参加する人々が、集会に来る時には何かをそれぞれ持って集まって来ていたのではないでしょうか。

今日のように、説教者が一人立てられて会衆は黙ってそれを聞くという形ではなく、誰かが話すと、参加者全員が、自分の持っているいろんな賜物を用いて、語り出していたのではないかと思います。説教を聞くために集まって来ているのではなく、みんながそれぞれの賜物を持って集まって来て、最初に誰かが今日の教えについて口火を切ると、次々に、聖霊に感じた者が立って、聖霊様が語られるように自由に話し出したのではないかと思います。

しかも、教会堂と言うよりはそれぞれの家庭を中心にして集まっておりましたから、今日で言うスモールグループのように、家々で集まって、参加者全員が何らかの聖書の教えや証を語り合っていたのではないでしょうか。ですから、異言の賜物を持った人が勝手に異言で語り出すと、集会が簡単に無秩序になってしまうという危険性を持っていました。

ですからパウロは、31節のところで、「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」(14:30~33)と言っています。みんなが学ぶことができるし、みんなが励まされるようになることが、集会の目的でした。特別な賜物を持った人だけが、集会を支配して誰にも話させないというのではなく、みんなが自由に話し合えて、みんなが共に学びあえるのです。しかも、異言ではなく誰でも解る預言の言葉を用いて語るように指導しました。

3.新来者の救いのために

このように、預言の賜物をたくさんいただいている教会員の多い教会は、成長して行きます。なぜか、それが14:23~に記されております。
「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたのうちにおられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」(14:23~25)

私たちの教会でも、この主日礼拝や教会学校、あるいはスモールグループに、クリスチャンでない方、新来者の方々が一緒に集っています。そして、集会の中で、誰にでも解る預言の言葉で皆が語っているところに、求道者や未信者の方が入って来たら、その言葉によって神を信じるようになると記されています。

四つのことが、その人の心の中に起こると言っています。一つは、その人が皆から「自分の非を悟らされる」というのです。二つ目には、「自分の罪を指摘される」というのです。三つ目には、「心の内に隠していたことが明らかにされる」、そして四つ目にはついに「神の前にひれ伏して、この群れの中に神がいる」と言って礼拝をするようになると記されています。

これが、教会に新しい人々が救われて加わってくるプロセスです。これは、今も昔も変わることはないと思います。教会でも、説教の後に、自分の罪を悔い改めて主を信じる決心をされた方を招きます。また、成人科でもそういうことがあるかもしれません。スモールグループでもそうです。皆さんがいろいろと聖書について話したり、証しをしていたりすることによって、そこに参加している未信者の方の心が開かれ、自分の罪が示されて、主を礼拝するようになるというのです。これは確かなことです。今まで何度もそういうことがありました。

大事なことは、この神様からの預言の言葉を明確に語り続けることです。新来者がこんなことを聞いたら、つまずいて来なくなるかもしれないと心配する必要はありません。神様から示された啓示の言葉を大胆に語ることです。罪を言ったらつまずくのではないだろうか、献金の話をしたらつまずくのではないだろうか、最後の審判や地獄があると言ったら来なくなるのではないかと恐れる必要はありません。誰にでも解る預言の言葉をしっかりと語ってあげることです。

今日はこの後、教会学校の祝福式を行いますが、クラスのリーダーだけではありません。クラスを生かすも殺すもリーダーよりはメンバーにかかっているのです。来年度も「共に学び、共に励まされる」を合言葉にして、リーダーも、またクラスのメンバーの方々も一人一人に与えられている賜物を持ち寄って集まって行きましょう。皆が共に学び、皆が共に励まし合える、そのような教会、そのような教会学校の働き、またSGの働きが盛んになって行くことを心から願っています。                     (岡田 久)

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