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信仰によって義とされる希望と愛 (ローマ5:1~11)

メッセージ
2021/7/4
富里キリスト教会礼拝説教
「信仰によって義とされる希望と愛」
(ローマ書5:1〜11)
①神との関係回復
ローマ5:1
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導きいれられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」

パウロはこの5章の冒頭の切り口に「このように」、と語り始めます。このようにとは一体どのようにということなのでしょうか。それは広い意味で言えば1章から4章までずっと語り続けている神の義があらわれている福音全体ということでありますし、狭い意味で言えば先週語った、アブラハムが信仰によって義とされたという信仰義認の根拠にあたるでしょう。
アブラハムの約束はキリストの真実、キリストへの信仰によって成就されるのだ。それゆえに、私たちはただ信仰によって義とされたのだということでしょう。私たちは律法という行いによってではなくただキリストの真実な愛の現れである十字架ゆえに、そしてそのキリストへの信仰によって義と認められる、つまり自分の中にある全ての罪が赦され、罪に死んだ者からキリストの命に生きるものとなり、救われるのです。
そして、そのすくいのみわざはただ、神様に無罪と認められた、めでたしめでたし、とそれで終わりではありません。ただ有罪、無罪かの刑事裁判だけではこの救いのみわざは終わらないのです。実は、私は神様のさばきというものは刑事裁判だけでなく民事裁判的要素も入っているように思うのです。刑事裁判というものは有罪か無罪か白黒はっきりつけることが目的です。それに対して、民事裁判というものは有罪、無罪という結論が出るものの、その目的は、それによって不利益を被った人が加害者に対して賠償、謝罪をしてもらうというものです。そして、もっと深く見れば時にはその裁判の目的は単にお金を手に入れるためではなく、そのこじれた関係をもう一度修復するため、お互いが納得するために起こされるということもあります。そう行った際での裁判の時の一番双方にとってよい結論は「和解」というものでしょう。刑事裁判と違って民事裁判には和解という選択が実はあるのです。私なんかは裁判を起こして勝つことよりも和解をして仲直りすることの方がよっぽどスッキリするんじゃないかなとか思います。
神様のすくいのみわざというものもそういった要素があるのではないかと思うのです。罪を明らかにしつつその罪をゆるし、無罪とする。それは神様と私たちの関係を再び平和にするため、つまり和解するためのものであるのではないでしょうか。義認というものは、ただ裁判官と被告人の関係で終わらないのです。その先にある親と子の関係の回復をも意味するのです。
つまり信仰義認という救いのみわざは司法的な無罪放免という意味合いと和解という関係性の回復という意味合いの両面があるのです。神様に自分の明らかにされた罪を素直に認め、ごめんなさいと悔い改める。その信仰を見て神様は憐れみをもって赦してくださる。そして、それはイエス・キリストの十字架の恵みゆえに赦されるのです。十字架の贖いによって私たちと神様との間にあった罪は取り除かれ、その罪によってできた神と人を断絶していた崖の上にイエス様が架け橋となってくださったのです。
そして罪赦された私たちは、その架け橋を渡り父なる神の元に帰り、抱きつき、親子が仲直りするがごとく、その関係は平和なものへと回復するのです。そして、その後もその平和な親子関係が続いていくのです。義認という罪の赦しは一度きりでありながらもその神との豊かな交わりにある関係性は続いていくのです。
聖なる神様は私たちのことを愛していても、人間は罪に汚れてしまったので交わることができませんでした。しかし、キリストの血潮によって私たちの罪は洗い、きよめられました。その贖いゆえに、私たちは再び神との平和な関係を取り戻し、そこにある神との人格的な交わりによって、罪から解放され、心を平安に満たしていただいているのです。
そしてこの神との平和な関係というものはたとえ、私たちに罪があったとしても二度と壊れることはありません。私たちを無罪と認め、関係回復した親子関係というものはもはや決してなくなったりはしないのです。不肖の息子であっても息子は息子、娘は娘、そのように神様は言われ、一度掴んだ私たちの手を決して離したりはされないのです。なんと神の救いのみわざの堅く力強いことでしょう。なんと慈しみと憐れみに満ちたことでしょう。

②苦難は希望へと
今や、私たちはこの神の恵みによって救われたのです。私たちの罪は赦され、神の子としての親子関係をも回復されました。この救いのみわざこそが神の栄光です。パウロは私たちが救われたこの事実こそが神の栄光だと言うのです。なんと嬉しいことでしょうか。この神の力、この神の救いの希望を私たちは誇りとするのです。そして、この神の救いの恵みにあずかっている者の喜びというものは苦難すら誇りとするほどのものなのだとパウロは言うのです。

ローマ5:3−4
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

本来はだれもが、苦難は避けてとおりたいものでしょう。苦しいのは嫌です。辛いものです。根性なしの私などはそこから全力で逃げようとしたくなるときがあります。苦難を通し、人は挫折し、傷つき、痛み、ときに壊れてしまいます。その時、人の心は悲鳴をあげてその心の形はいびつなものになってしまうこともあります。苦しみを与える存在から自分を守るために時に攻撃的になってしまうことすらあります。苦しみによって受けた傷というものは癒されなければよりひどくなり膿んでしまいます。
しかし、キリストの恵みによって義とされ、救われた私たちはすでに傷を癒す神の愛を知っています。その愛を受け取っています。イエス・キリストがこの私の苦しみをも、いや私だけでなく全人類の苦しみをも受け取り、十字架にかかって、私たちを救ってくださったのだ。このキリストのうち傷ゆえに私たちは癒されたのです。

1ペテロ2:21−24
「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒されました。」

この十字架の愛を受け取った時、私たちの心を満たしているものはもはや苦しみではなく全てを良きものとしてくださる神への全き信頼です。これほどまでに神様は私のことを愛してくださっているのだ。この愛に満ちた神様が、私をなんの意味もなくただ、苦しめるためだけに苦難を与えるはずなどない。この全き信頼によって私たちは今、目の前にある苦難すら両の手で受け止めることができるのです。
クリスチャンであっても苦難は辛いものです。私たちの信仰はそのとき正直、揺れ動くこともあります。しかしその時こそ私たちは十字架を見上げるのです。すでに完全な愛を示し、自らのうち傷によってこの私を癒し、救い出してくださったお方が私と共におられるだ。この主イエスの愛だけが私たちを踏みとどまらせることができるのです。そして、その苦難、試練を踏みとどまる忍耐を通してこそ神への信頼がさらに強くなるということを私たちはよく知っているのです。

Ⅰペテロ1:7
「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」

苦しい時にこそ、実は私たちは神様をなによりも求めますし、またそういった時ほど神様の存在を実感するのです。この苦しみの中でこそ神の愛を改めて再確認するのです。そして苦しい時こそ主を賛美するのです。その経験が私という人格をどこまでも練り、神が十字架をもって私を救い出してくださったのだという希望への確信をどこまでも強くさせるのです。その希望とは今、現在の希望であり未来の希望でもあります。今、私はこの神の愛の中に生きているという現在の希望と、この神との愛による交わりが永遠に続いていくのだという未来への希望です。
この希望は失望には終わりません。人はどういった時に失望するでしょうか。それは期待が外れた時ではないでしょうか。人に自分に期待をしたとき、満足することもあるでしょうが、その期待が裏切られることもあるでしょう。そういった時、人はどういった反応をするでしょうか。期待外れだった人や自分を時に怒り、責め、さばいてしまいます。とても悲しいことです。
しかし、神様は決して期待を裏切りません。盤石です。人や自分ではなく神にのみ期待を置いた時、そこにある希望は燦然と輝き続けるのです。苦難のときこそ、すでにキリストが十字架をもって私を救い出してくださった。この事実を見上げ続けることによって私という人格は練られ、希望は揺るがないものとなるのです。

③敵をも愛す神の愛
苦難すら誇りとするほどの神の恵み。この救いの素晴らしさをさきほどから語り続けていますが、それってそんなにすごいことなの?永遠の命ってそんなにありがたいものなの?そのように問いかけてくる方もおられるかもしれません。その問いに対して、私は胸を張って確信をもって「はい、その通りです。」と声を大にして答えます。
なぜなら神の救いへの喜びというものは、その本質、中心にあるものが「神の愛」だからです。信仰によって義と認められ、罪赦される者となった。それが救いの事実でありながらも、その事実には神が私たちをどれほど愛しておられるのかということが凝縮されているのです。私たちは愛されているのだ。これが救いの喜びなのです。この希望は決して消えません。聖霊によって私たちの心に神の愛が注がれ続けているからです。神の愛の実感、これこそが救いの確信であり喜びなのです。
では、この神の愛とはどれほどすごいものなのでしょうか。愛されているっていう実感は幸せな気持ちを与えてくれますよね。やっぱり人に愛してるって言われたら嬉しいものです。しかし、ここでいう愛のレベルはそんな次元の話ではありません。人の愛は有限で、欠けがあり、条件がつきます。しかし神の愛は限りがありません。ぶっちぎりです。そして神の愛は完全で、どこまでも無条件の愛です。
少し物騒な質問かもしれませんが、あえて聞きます。あなたは誰のためだったら死ぬことができますか?正しい人、優等生のようなしっかりした人はどうでしょうか。尊敬はできるかもしれないけど、ちょっと代わりに死ぬのは御免被りたいものです。では、マザーテレサのような絵に描いたような善人はどうでしょう。もしかしたら少しは命を惜しまない人も出てくるかもしれません。我が子のためであれば、もう少しいるかもしれません。どちらにせよ人が人のために死ぬことは相当にハードルが高いものです。できたとしても深く関わりがあるような、自分を心から愛してくれるような存在に対しての場合がほとんどでしょう。
しかし、イエス・キリストは全く違います。弱く、不信心で、罪に囚われ、背を向け続けてきた私たちに対して、先立って一方的に愛をお示しになられたのです。私たちは、ただ神を愛さなかったというだけではありません。むしろ神にとって敵であったとすらパウロは述べています。敵とはまた少し、いいすぎじゃないかと思う方もおられるかもしれません。しかし、パウロが言ったことは決して大げさではありません。
イエス様は多くのユダヤ人たちに、十字架にかけろかけろとこれでもかと敵意をぶつけられながら十字架に架けられ、唾をかけられ、罵声を浴びせられました。なんと残酷なとお思いですか。しかし、このユダヤ人の姿こそが罪にまみれ、神に背を向け、敵対して罵る私たち人間の姿なのです。私たちの罪がイエス様を十字架につけたのです。しかし、その私たちに対して十字架の上で語られたイエス様の言葉は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」といったものでした。イエス様は自分を十字架につけ、嘲る私たちをけなすどころか父なる神様にお赦し下さいと、とりなされたのです。敵であった私たちにたいしてどこまでも愛をお示しになられたのです。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」主イエスの山上の説教での言葉です。そんなことできるわけない。その場にいた人も、今の私たちもそう思うかもしれません。しかし、主イエスはこの言葉通りの完全な愛を十字架の上で証明されました。全ては私たちへの愛です。私たちは、これほどまでに神に愛されているのです。このキリストの命によって再び神と和解するという恵みをいただいているのです。
この愛を信じることによって、私たちは罪から解放され、自分のために生きる自己中心から神と隣人のために愛を表す者として生きていくようになるのです。生きねばならない、ではありません。神の愛を受け取れば、愛さずにはいられなくなるのです。これがキリストの恵みに生きる者なのです。神の愛を表していくということは決して簡単なことではありません。そこには必ず苦難が伴います。イエス様の十字架はまさに苦難の中に表された完全な神の愛でした。しかし、その神の愛に信頼する時、苦難の道は希望に至る道となるのです。神の愛を受け、神の愛を表し、希望の道を歩んでまいりましょう。

武井誠司

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