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信じる者は救われる (ローマ10:5~21)

メッセージ
2021/11/7
富里キリスト教会礼拝説教
「信じる者は救われる」
(ローマ書10:5〜21)

①人と比べる律法の義
キリストは律法の目標であり、完成であり終わりである。それは律法の時代の終止符が、キリストの到来によって打たれたことを意味する。そういったことを先週は語りました。一つの時代が終わりを迎え、神の救いのご計画はキリストの十字架と復活を持って成就なされたのです。そして、それは一つの時代の終わりを意味するとともに、新しい時代の始まりをも意味するものでした。その時代とは、律法ではなく信仰の義による時代です。今日の箇所は、この信仰による義とはどういったものなのかということが中心的に語られていますが、その前にまず律法による義とはどういったものなのかということから見ていきたいと思います。

ローマ10:5
「モーセは、律法による義について『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。」

律法による義とは、掟を守る人は掟に生きるということ。掟が全てだということす。掟を守れているかどうかで救いの明暗が分かれる。そして、実際に人がその明暗を判断していたということです。掟を真面目に守る。うん、いいじゃない。ルール破ってる奴が罰を受けて、しっかり守っている者が報われるのが当然じゃないか。たしかに、おっしゃるとおりかもしれません。筋は通った話です。しかし、その理屈を主張する人は、自分は掟を守っている自負がある。そういった前提がそこにはあるでしょう。そして、その自分の姿は変わらないと思っている。
しかし果たしてそうでしょうか。自分は一生掟、ルール、法律を破ることがないと言い切れるのでしょうか。残念ながらその保証はありません。いつのまにか逆の立場になっていることもありうるのです。それほど私たち人間は不安定で弱い者です。不祥事を批判していたコメンテーターが同じようなことをやってしまい、カウンターパンチのような厳しい批判を受ける。テレビのワイドショーなのではこのような光景を何度か見ます。
一見的を得ているようにみえるこの律法による義、掟による生き方には大きな落とし穴があります。それは、救いの根拠を自分や他人の行動に置くというところです。人間の心、生き方というものはどれだけしっかりしている人だったとしても、やはり不安定なものです。人間に絶対はありません。そんなものによって私と神様との関係を成立させることは、到底できないのです。もし、そうだとするのであれば、私は恐ろしくて仕方ありません。いつ、その神様との関係が壊れてしまうかわからないからです。救いの根拠が自分の行いにあるということはそれほど不安定なものなのです。
また、この律法による義、掟による生き方には他にも落とし穴があります。それは、自分の行動を誇り高慢になる危険性があるということです。まさにユダヤ人がその落とし穴に見事に落ちていました。救いの根拠が人間にあるということ。これは人の行動を見て、比べてしまい、さらには人が救われているかどうかの判断をしかねないのです。たとえそのことを口にすることはなかったとしても、心で思ってしまうことがあるかもしれません。この掟を守ることが全てという価値観、マインドにひきずられてしまうのです。
あの立派なクリスチャンは天国に行けるだろうな。あのだらしない生活ばかりして、ちっともクリスチャンらしくない人は底なしの淵に落ちるだろう。このように人を行いによって裁き、更には自分自身すらも、私はあの人ほど奉仕も献金もしてないし、みことばも破ってばかりだ・・・。こんな私は天国に行けない、といって裁いてしまう。このようなことは決して言ってはならないとパウロは強く警告しています。あえて厳しく言いますがこれは、本当に絶対にやってはいけないことです。
私たちが人の行いを見て、救いを判断する根拠とすることは、キリストを引きずり下ろし、キリストを死者の中から引き上げるようなことなのです。これは、キリストの十字架の贖いと復活を全く無意味なものにしてしまうのです。イエス様を無視し、さらには自らを神とするような行為なのです。キリストを引き下ろし、引き上げたのは神の主権によるみわざです。救いの根拠は人間の行動などではなく、神の主権による憐れみなのです。それが信仰の義に生きる者のマインドです。

②口と心の一体性
では、信仰の義に生きるとは具体的に一体どのようなことなのでしょうか。私の救いの根拠である神の憐れみによって与えられる信仰とは一体どのようなものなのでしょうか。パウロはこの疑問に対して、聖書はどう語っているだろうかと、みことばを根拠として答えていきます。常に聖書に帰っていくこのパウロの姿勢は本当に見習うべき良き姿勢です。

ローマ10:8
「では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」

ここで、パウロは申命記30:14を引用しました。神のみことばがあなたの近くに、本当に親しいものとして共にあり、そのみことばがあなたの口と心のその両方に伴っている。口から出る言葉と心の中の言葉が一致している。口と心の一体性、これこそが信仰であるとパウロは語ります。そして、その具体的な内容をパウロは9、10節で語っていきます。これこそまさに福音の真髄といった内容です。

ローマ10:9−10
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

口で表し、心で信じる、そしてその信じる対象は復活の主イエス。これが揃ったとき人は救われるのです。つまりは、イエスこそが私の主、救い主であるという信仰告白です。ここにもそれぞれ聖書的根拠があります。まず、口で主イエスを認める告白の重要性はイエスさまご自身が語られました。

マタイ10:32
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、私も天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」

そして、心で信じることによって救われるということ。これはパウロ自身が自分自身を閉じこめていた牢獄の看守にも語られたものです。

使徒言行録10:31
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」

とてもシンプルで力強い宣言です。そして、その信仰の対象は復活の主、イエス・キリストです。キリストを模範的な人間としてその教え、道徳、倫理を信じるのではなく、イエスは神が人となって来られ、十字架にかかられ復活された私の主、私の救い主と信じることです。そして、そのイエスを主と信じて告白することができるのは救いのしるしである、聖霊が私のうちに臨んでいるからこそできることなのです。

Ⅰコリント12:3
「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ。』とは言わないし、また聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」

人は心で復活の主イエスを信じて義とされ、口で告白することによって救われる。この真理は聖書全般から力強く語られており、宝石のような輝きを放っています。これこそが福音の神髄です。
色々、小難しいことを言ってしまったかもしれませんが、簡単に言いますと信仰というものは、心で思っていることと、口に出している言葉が一致しているものであるということです。これが、信仰告白です。告白という行動だけを見るのではなく、大切なのは、その告白が本当にその人の心から真に出たものであるのかどうかということです。
ちゃんと信じているんだったら別に、わざわざ言わなくてもいいんじゃない?そういう人がたまにいます。確かに告白したかどうかという行動が救いの根拠となるような、信仰告白を儀式として取り扱うことを私たちはしません。しかし、信仰があると言いながらも自らの口で表明できないということは、やはりその信仰、心に問題がある証拠なのです。言えない何かがあるのです。まず、そこに向き合わなければなりません。信仰を告白するということはとても大切なことです。
逆に、形だけの口先だけで告白してもだめです。神様はちゃんと心を見ています。人をごまかすことはできても、神様をごまかすことはできません。全てバレています。しかし、その心を判断し、取り扱うことがゆるされているお方は神ただお一人だけです。人の心の全てを知ることができない人間が、この告白を口先だけか、心からのものかを判断することは決してゆるされません。私たちは全てを主に委ねて、その目の前で語られる信仰告白を真に心からでたものとして、本当にただただ喜ぶだけですし、自然に喜びが湧いてくるものです。
口と心の一体化。つまり救われた者とは心で信じたことを嬉しくて言いたくなるような者であるということです。心で信じて口で言い表して救われると聞くとどこか条件のように聞こえるかもしれませんが、私たちはこのパウロの言葉を、救われた者は心で信じて口で言い表すようになるのだと、一つの結果を表したものであると受け止めたいと願います。自分は信仰者として本当にふがいない。そう思うことが私自身多々あります。しかしどれだけふがいない者であったとしても、私はイエスさまを救い主と信じ、その信仰を言い表し続ける。そこに救いの根拠があるのだと思えたとき、私自身の魂に本当に温かな神の慰めを覚えるのです。
そしてその信仰とは神の恵みによって与えられたものです。「主を信じる者はだれも、失望することはない。」全くもってアーメンと言いたくなるようなみことばです。人や自分に救いの根拠を置いたとき私たちは失望します。私たち人間はどこまでも不完全で、不安定な者だからです。しかし、救いの根拠が神にあるとき、そこには希望しかありません。神様は救い出してくださった私やあなたの手を決して二度と手放すことはありません。神様に気まぐれも失敗もないからです。主権によって救われた魂が神の元から離れることは決してないのです。
そして、私たちができることはその愛と憐れみに満ちた神様を赤子のように信頼してその主の名を呼び求めるだけなのです。そして、神様は必ずその声に応えてくださるお方なのです。

ローマ10:13
「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」

③良い知らせを伝える者として
主を信じる者はだれも失望しない、主の名を呼び求める者はだれでも救われる。その言葉を信じて私たちが祈り続けるとき、聖霊は与えられ、心でイエスは私の主であり、復活なされたお方だ。私の救い主だと心に確信が与えられ、喜んでその信仰を告白する者とされます。
全ては神の主権によってなされることです。救いに関しては私たちに功績もなければ、その根拠もないのです。これほど福音とは神の愛に満ちた揺るがないものなのです。そこに私自身の至らなさは関係ありません。もちろん、だからといって開き直ってはいけませんが、この福音の真髄である神の憐れみが私たちの心を平安で満たしてくださるのです。
しかし、この素晴らしい福音。これを聞かなければ私たちは信じることができません。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。」救うのは神ですが、神は人を用いて救うのです。喜びの知らせの伝達がそこにはあります。誰かに伝えられ、その伝えられた者がまた、だれかに伝える。そのようなタスキをつないでいく駅伝のように喜びの知らせが広がる中で、神様は私たちを救い出してくださりました。そして私たちをこの喜びを知らせる者としても召し出してくださったのです。

ローマ10:15
「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか。」

この言葉はイザヤ52:7からの引用です。元々、このみことばは預言者イザヤがバビロン捕囚からの解放と言ういい知らせを伝えるものの足を喜びと感謝の瞳を持って美しく描いたものであり、ユダヤ人は今でもそのように捉えています。それに対してパウロはイエス・キリストの福音を伝える者たちにこの言葉を使い、良い知らせを伝えるものに対する感謝と好意の喜びを表していますが、そこに神の本当の真意があります。なぜならこの引用されたイザヤ書52章はこのように続くからです。

イザヤ52:10
「主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあわらわにされた。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。」

すべての人が神の救いを仰ぐ。まさしく福音です。その神の救いのわざに参与する者の足はなんと美しいことか。神様は私たちに向けてそのように語られているのです。
しかし、悲しい現実もあります。この福音を聞いても受け取らない人もたくさんいます。人は頑ななものです。かつての自分もそうでした。そして、まさにイスラエルはそうだったわけです。今もその中にいます。しかし、それでも神は一日中ずっとそのような者たちに対して手を差し伸べ続けられるのです。

ローマ10:21
「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた。」

救いは神の主権によってなされることです。そしてそのお方はどこまでも愛と忍耐と憐れみに満ちたお方であり、不従順なものに対して手を差し伸べ続けられています。私たちは、救ってくださるこの神を信頼し、ゆだねながら、ただこの喜びの知らせを伝えていくのみであります。心の中にあるイエスは復活の主であり私の救い主であるという確信を、喜びをもって告白し、その喜びの知らせを伝え続けてまいりましょう。
その喜びの知らせを告白していくことによってうまくいくこともあれば、悲しいこともあるかもしれません。伝え続けても一向に反応がない、もはや私は伝える者としてふさわしくないのではと思うこともあるかもしれません。しかし、神様はそれでも懸命に救いの喜びを届けるあなたの足は美しいといってくださるのです。どれだけ泥にまみれた足でも美しいと言ってくださるのです。神から与えられたこの宝のような信仰を告白し、救われた者としてこの喜びを共に届けてまいりましょう。

武井誠司

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