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体は聖霊の宿る神殿 (Ⅰ コリント6・12〜20)

メッセージ

2010年1月24日富里教会
        「体は聖霊の宿る神殿」
              (Ⅰコリント6:12〜20)

1. 礼拝と祈りの共同体としての教会
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(?コリント3:16〜17)

今日の宣教題は「体は聖霊の宿る神殿」と題しましたが、パウロは聖霊の宿るからだとして、ここでは教会を取り上げています。また、もう一つ体を教会という共同体としてだけではなく、個人の体も同じように聖霊の宿る神殿であると言っています。皆さんは、自分の体が聖霊様の宿る神殿だと言われたら、どんな気がするでしょうか。とんでもない、自分はそんなものではないと答えるでしょうか。今日は、このことをあとで一緒に考えてみたいと思います。

パウロは、互いにキリストの十字架の愛によってしっかりと組み合わされ、聖霊様の一致を守るようにと励ましています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか?」と問うています。わたしたちが一つになってゆく時に、そこに神の霊が宿り、神の神殿が見えてくるのです。今日の礼拝にしてもそうです。先週、誰かが掃除をして、誰かが週報を作って、私が説教をねじり鉢巻で準備し、誰かが奏楽をし、誰かが司会をし、誰かが献金を集め、集計します。この礼拝一つを取りましても、いろんな奉仕や働きがありいろんな人が働いて、全体で一つの礼拝を捧げることができます。これが一つの体の働きです。これが、目に見えない神殿としての教会の姿です。

2. 神の神殿とは
A.旧約時代の神殿
神殿とは、文字通り神様のおられる場所です。かつて、イスラエルの民がエジプトを出て、荒野の旅に出た時に、モーセの十戒が入った箱を安置しておいた場所でした。その契約の箱を安置したテントを幕屋と言いますが、別名、「会見の幕屋」と呼ばれていました。その幕屋を通してモーセは神様と会見をし、民を導いたからです。やがてイスラエルの国が建てられ、ダビデ、ソロモンと言う偉大な王のもとで、立派な神殿が建てられました。そこに契約の箱を安置して、その神殿を中心にして礼拝が捧げられるようになりました。文字通り、神殿はそこに神様がおられる場所であり、人間が神様と出会う唯一の場所だったのです。

ソロモンが神殿を建てた時に、神様がソロモンに言った言葉をみてみましょう。列王記上9:1〜3(P.旧約545)を読んでみましょう。「ソロモンが主の神殿と王宮の建築を終え、造ろうと望んでいたものすべてについての念願を果たしたとき、主はかつてギブオンで現れたように、再びソロモンに現れ、こう仰せになった。『わたしはあなたがわたしに憐れみを乞い、祈り求めるのを聞いた。わたしはあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこにわたしの名をとこしえに置く、わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。』」

神殿とは、神の名が置かれている場所です。この神の名が置かれている場所というのは、そこに神が存在しておられるということです。しかも、永遠に名前をそこに置かれるというのです。そして神様は、その神殿を聖別すると言われました。さらに、絶えずこの神殿に目を向け、その神殿に神様の心を寄せられると言うのです。これが神殿の存在意義です。

ですからダビデもソロモンも、この神様の御前で、主に祈り求めてきました。戦いに出かける時、戦いに敗れたとき、災害やききんに出会ったとき、異邦人の救いのためにも祈りました。そして何よりも、モーセもダビデもソロモンも、イスラエルの民の犯した罪、そして自分の犯した罪のとりなしの祈りをささげたところでもありました。これが神の神殿の存在意義だったのです。人間の犯した罪にもかかわらず、神様がそこで出会い、その悔改めととりなしの祈りを、絶えず耳をそばだてて聴いてくださっておられる場所なのです。

B.新約時代の神殿
そして最終的には、大祭司であるイエス・キリスト様が御自分の体をもって、永遠の贖いを成し遂げて下さった場所でもあるのです。イエス・キリストの十字架によって今まで、神と人間を隔てていた神殿の幕が真っ二つに裂けて、誰でも例外なく、この神の大祭司であり贖いの子羊であるイエス・キリストの体を通して、神様とお会いでき神様に祈りをささげることが出来るようになりました。

そのような、尊いすばらしい神殿が私達であるというのです。何と驚くべきことでしょう。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とパウロ先生は言っています。旧約時代に、神様が神殿でささげる祈りをいつも聞いて下さったように、今の時代に、神様は、このキリストの体である教会に、その貴い御名を置いて下さり、私たちの祈りに耳を傾けて下さっているのです。そして私たちに向って、常に目が注がれ、心が向けられているのです。私たちはまさに神の神殿であるキリストの体なのです。一つの体です。そしてそれを一つならしめているのは、皆さんが心の中にいただいている聖霊様の故なのです。この一つの霊によって私たちは一つにされているのです。

そして、一緒に集まって、こうして礼拝をささげている時だけではなく、それぞれが遣わされている場所でも、キリストの体であり手足であり、神の神殿なのです。家に帰っても、職場にいても、学校にいても、私たちは聖霊の宿る神の神殿なのです。

3. 神の神殿としての自分の体
コリントの教会では、先週も申しましたが、教会内の派閥争いがありました。そして、もう一つの大きな問題は、性的な乱れについての問題でした。町の中心にはアフロディテという女神が祭られている神殿があり、そこでは偶像礼拝や神殿での性的な行為をすることによって、御利益に預かるといった迷信がはびこっていました。そしてこの神殿には、約1000人の娼婦がいて、参拝客と性的な行為をしていたわけです。

?コリント6:15〜20までを読んでみます。
「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わるものはその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。『二人は一体となる』と言われています。しかし主に結びつくものは、主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべてからだの外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を表わしなさい。」

私たちは、こうして礼拝をしたり、祈祷会に出たり、チラシを配ったりしている時だけ、神様の神殿ではありません。礼拝を終えて、家庭に帰ってからも、職場に行ってからも、学校に行っていても聖霊の宿る神の神殿なのです。コリント教会でも今の教会でも、一歩離れればいろんなこの世的な誘惑や人間関係が待っていました。そういう中で信仰を守ってゆくのには大きな試練や苦労があったと思います。

「娼婦と肉体的に交わるものは娼婦になるのです。自分の体を汚してはいけません。イエス・キリストが貴い血を流して贖い取った体ではありませんか。イエスの命がかかっている尊い体なのです。神の聖なる体なのですし、もはや自分の体ではないのですから、自分の欲望の道具としてからだを使っていいのですか。」と戒めています。私たちの体は、神が絶えず目を注ぎ、心を寄せて心配している神殿としての体なのです。神様が宿られている聖なる場所なのです。私たちの悔改めと賛美と感謝の祈り上がってくる神殿としての体なのです。

最後に、一つの証をして終りたいと思います。カトリック、プロテスタント両方の教会に大きな影響を与えた、有名な神学者アウグスティヌスのお話ですが。彼は、すでに17歳の時に一人の女性と同棲して、子供をつくりました。当時は、そういう風潮がありまして、結婚をせずとも子供を持つこともあったようです。その後、彼はマニ教と言う異端的な宗教にまで入り込んでいました。この我が子の生活を嘆き悲しんだ母モニカは、毎日教会に行って我が子のためにとりなしの祈りをささげていました。母にできる唯一のことは、ただ、我が子のために祈ることでした。

そして、ある日、アウグスティヌスが庭の梨の木の下で、一人悩みながら思案に暮れていた時、どこからか子供達が歌うわらべ歌が聞こえてきました。それは「取りて読め、取りて読め」という子供の声でした。その子供の歌う声に、ふと気がついて、彼は急いで部屋に戻って、友人がテーブルの上に置いていった1冊の聖書を手に取ってページを開いて見ました。すると彼の目にローマ書13:13〜の御言葉が飛び込んで来ました。「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(口語訳)その時、彼は雷に打たれたようなショックを受けました。そしてその場にひざまずき、込み上げる涙をぬぐおうともせずに泣き崩れたのでした。

彼は母のことを記した「母モニカ」という本の中でこう述べています。
「わたしは子供のころ、母のためにバプテスマを受けようと思っていましたが、
成長するに従って、母の信仰を嘲るようになり、神を汚す道へと成長してゆきました。それでも、母は私のために日に二回、朝と夕には教会に行ってとりなしの祈りをささげてくれました。今、ようやく私は、母がどんなにか私のことを心配して気にかけていてくれたかが分かるようになりました。私を肉体的に生んだ時以上に、もっと深く私を心配して霊的にも私を生み出そうと、苦しんで祈ってくれた母の信仰に感謝します。」と。

私たちも、かつては闇の中をさ迷い、真の神を知らずに肉と情欲に溺れた生活をしていたものです。でも、誰かがあの母モニカのように、私のためにとりなし祈ってくださいました。ですから今こうして、尊い救いに預かることが出来ました。そして、このような者をも聖霊様の宿る神殿として、選びたてて下さいました。神殿は神のおられる場所です。神様と会見する聖なる場所です。私たちの体を神様は、いつも案じて目を注いでくださっています。しかも、神様の御名が永遠に置かれている場所です。この体を神様にお返しする日まで、神様の御栄光を現すものとなって行きたいと願っています。
                                                      岡田 久

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