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伝道の心得 (ルカ9:57~10:12)

メッセージ

2016年7月31日富里キリスト教会

「伝道の心得」
(ルカ9:57~10:12)

1.わたしに従いなさい

「一行が進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります。』と言う人がいた。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところがない。』そして別の人に、『わたしに従いなさい。』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい。』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』
また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせて下さい。』イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みるものは、神の国にふさわしくない』と言われた。」(ルカ9:57~62)

さてこれは牧師や伝道者、宣教師になる人に対して言われた言葉でしょうか。もしそうならば、ここから10章の前半までの今日の箇所は皆さんには関係ないことになります。献身者だけが読めばいいです。そうではありません。これは牧師であろうが信徒であろうが、イエス様に従う者の覚悟について述べています。わたしは、途中で躊躇してしまった人の気持ちもわかるような気がします。イエスに従いますと決心しましたが、ちょうどその時、お父さんが亡くなったのでしょうか。まず父親の葬儀を済ませてから、それから従いますのでいいでしょうかと言ったのです。普通でしたら、「それは大変ですね。じゃあ、実家に行ってとりあえず葬式を済ませてからわたしに従って来なさい。」と言うのが普通ではないでしょうか。

それをイエス様は、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」と言ったのです。つまり、あなたの家族はみんな霊的には死んでいるのだから、死人のことは死人たちに任せなさい。ともかくあなたは、命の言葉を宣べ伝えることに専念しなさいと言ったのです。同じように、「一回、実家に帰って家族に別れを言わせて下さい、それから従ってまいります」という人にも、「すきを手にかけてから後ろを振り向く人は神の国にふさわしくない」と言いました。家族への思いと、弟子として従うことへの思いの二心はだめだということです。もう信じる決心したら、妻や夫や子供への未練を断ち切りなさいということです。なにが何でもキリストを第一としなさいと言うことです。皆さんいかがですか。これは献身者でる牧師や宣教師だけに行っているのではありません。皆さんに言っているのです。弟子となる覚悟はできているかと。

これはおそらく、家族にいとまごいをしているうちに、心変わりがしてくると思ったのでしょう。また父親の葬儀に出ているうちに、親戚から説得されて、家族のために家に残って家を守って行くようにと説得されるかもしれない、そうしたら、いくら従う決心しても、ぐらついてしまうということをイエス様は察知していたと思います。クリスチャンホームでなければ、おそらくどこの家の家族も引き止めたり、止めさせたりするでしょう。「教会に行くな。深入りするな。」と言います。わたしたちは肉親に弱いです。

信仰を持つことはそれほど大変な覚悟が必要だということです。たとえ牧師、伝道者、宣教師にならなくても、クリスチャンになるものは、これくらいの覚悟が必要だとイエス様は言いました。何かを犠牲にしなければ、真に従うということにはならないということです。もちろん、親戚のものとは後で和解をし、認めていただきましたが当時はとても大変でした。わたしたちの中にも、信仰決心してから、途中でいろんな迷いが生じて、バプテスマまで時間がかかったという方もまれではありません。ここで大事なことはやはり、従うということです。口では従いますと言っても、実際に行動を持って従うかどうかが問われています。

2.行きなさい、わたしはあなたがたを遣わす。

この弟子の覚悟の後、10章からは、弟子の派遣の記事が出ております。
「その後、主は他に72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはなたがたを遣わす。それは、狼の群れに子羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶をするな。』」(ルカ10:1~4)

つまりこれは、イエスに従う者は、イエスに遣わされるものであるということです。信仰決心してから、主に遣わされるまで、ある人は数か月か数年かかるかもしれませんし、ある人は信仰決心してから遣わされるまで十数年かかる人がいるかもしれません。そのように遣わされるまで、いろんな時間がありますが、どなたにとりましても最後は、キリストの証人として人々のところに行って福音を宣べ伝えるために遣わされるようになります。

イエス様は決して信徒を遊ばせておくために召されたのでもないし、そのために御自分があの十字架にかかったわけでもありません。わたしたち一人一人がキリストの十字架の血潮によって罪赦され、キリストの復活の証人となるために来られたのです。そしてわたしたちが弟子として福音を宣べ伝えるために十字架にかかられ三日後に復活されたのです。クリスチャンにするために来られたのではなく、キリストの証人として派遣するために来られたのです。

ただ、中にはまだ鋤に手をかけて後ろを向いている人がいるかもしれません。家族のために、完全に従うことをためらっている人がいるかもしれません。そこがクリスチャンでありながら、まだ完全に服従しきれていないところではないでしょうか。それでも主はわたしたちに「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。」と言っているのです。この主の宣教命令に応える人はいますか。

家族、仕事、人間関係、親戚など一切を捨てなければこの主の御命令に従うことはできません。これは実際に家族を捨てろとか、仕事を辞めなさいとか人間関係を断ち切りなさいというものではありません。どちらを優先にしているかの問題だと思います。主の御命令を第一としてこれに従っているかどうかです。家族と一緒に住んではいますが、そして自分の仕事を持っていますが、あなたはどちらを優先していますかという問いなのです。つまり、仕事をしながらその中で主を証しているかどうか、家族や自治会の中で伝道や証を第一として奉仕をしているかどうかです。家族を第一としないで、キリストを第一とすることです。これが弟子としての覚悟です。

3.収穫と平安を祈る伝道

主はこう言いました。「それは、狼の群れに子羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶をするな。」(10:3~4)と。とても貧弱な装備です。狼の中に送り込むような伝道でしたら、お金も着物も靴もしっかりと持って、時には武器も携帯した方が助かるのではないでしょうか。狼の中に送るのでしたら、もっと装備を充実させた方がいいと思います。しかし、主は何も持って行くなと言いました。これはどういうことでしょうか。

つまりは伝道と言うのは、初めから最後まですべては主の働きのもとになされるものだということです。すなわち、伝道はわたしたちが伝道するのではなく、主御自身が伝道するのだということです。ですから、あなたがたは自分のものを持たないようにしなさい。経験も能力も学力もいらない、持つとすればただ一つ、イエス様だけを持ちなさいと言うことです。

つまり伝道のすべてはイエスの名によって実践しなさい。イエスの名に依り頼んで、このお方だけを頼りに行きなさいということではないでしょうか。それは祈ることです。祈りを第一に、イエスの御名だけを携帯して行きなさいということです。それが子羊としての伝道者です。羊は何もできません、ましてや子羊です。狼の絶好の餌ではないですか。狼にとっては飛んで火にいる夏の虫です。

でも祈りと言う最高の武器と道具と必需品が与えられているのです。こう言っています。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(10:2)と。最初の祈りは、働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさいということです。つまり、多くの人々の魂が救いを待っているというのです。しかし、問題はその魂を刈り取るための働き人が少ないというのです。

わたしたちは、新しい魂を刈り取ることを願っていますが、むしろイエス様は、働く人を送ってくださるように祈りなさいと言っています。伝道できる人を起こして下さいという祈りです。でもイエス様は、伝道する際には、働き人、信徒伝道者、信徒宣教師となる人、もちろん献身して神学校に行って伝道者になる方もいるでしょうが、そういう働き人を起こして下さいと祈って配布しなさいと言ったのです。「収穫のための働き手を起こして下さい。」と言う祈りが、伝道の一番最初に来る祈りです。今教会の周囲にはたくさんの方々が、道を求めています。もっとリーダーが必要です。聖書の御言葉を宣べ伝える働き人が必要です。「働き手を送って下さい。御言葉を語る人を起こして下さい。」と。

そしてわたしたちは出かけて行って、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と伝道するわけですが、その前に大切な祈りがあります。それはその家の平安を祈る祈りです。この共同訳では、「平和」となっていますが、これはシャロームと言う言葉です。「平安」と訳している聖書もあります。わたしも「平和」よりは「平安」の方がいいのではないかと思いますが。「平和」ですと、どうしても反対語として「戦争」と言う言葉が来ますので、戦争がなくて平和になるようにと言うことで、国家的な祈りになってしまいます。むしろ、一個の家についての祈りとしては、「平安」の方がいいような気がします。

そして目指す家に入ったら、何もいりません。ただそこで「この家に平安がありますように。」と祈ることだけです。もしそこに平安の子がいれば、皆さんが祈る神の平安はその家に留まります。つまりそこの家族が救われるということです。そしてもし平安の子がいなければ、その祈った平安はわたしたちの所に戻って来るというのです。神の国の祝福は無駄にはならないというのです。祈りの伝道です。これが子羊である弟子達の、唯一のそして最も必要な携帯用品です。

マタイ10:11にはこう書いてありました。「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人は誰かを良く調べ、旅立つときまで、その人のもとに留まりなさい。その家に入ったら、「平和があるように」と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もしふさわしくなければ、その平和はあなたがたに帰ってくる。」(マタイ10:11~13)
とあります。

このようにわたしたちは、祈って出かけ、出かけて行って祈ると言うように、祈りに始まって、祈りで進める伝道なのです。いろんな不安や恐れがあるかもしれませんが、この御言葉を聞いて、まず祈りを持って出かけて行くなら、必ず収穫を得ることができます。実際に弟子達は出かけて行って、多くの収穫を得ました。イエスの名によって祈ると悪霊が天から落ちて来ました。多くの奇蹟を行い、サタンの力を踏みつけて勝利をすることができたのです。

本当に不安や恐れがあるかも知れません。でも大事なことは主の御言葉に従って出かけて行くことです。道路を挟んだ向かいの家に一歩を踏み出すことです。
「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。」とおっしゃいました。わたしたちが信仰と祈りを持って、主に従い、一歩足を踏み出す時に、そこに道が開けて来るのです。救いが起こるのです。この北総の地に、祈りをもって出て行って、福音を宣べ伝えましょう。  

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