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人間の支配ではなく神の御支配によって (コヘレト8:8~17)

メッセージ
2020/11/01
富里キリスト教会礼拝説教
「人間の支配ではなく神の御支配によって」
(コヘレトの言葉8:8〜17)

①人の支配の限界
今日の箇所は8章の8節からですが、この8章の冒頭でコヘレトは王の支配への従順ということについて語ります。賢者であり王であるこの私の言葉を聞け、守れ。不遜ながらも彼はそのように語ります。しかし、そんな王にも支配できないものがある。その真理にも気づき、コヘレトはこの世の支配者、王であってもなにもできない、二つの無力な領域についても語ります。まず一つに、未来があります。ときは全て神のご支配の中でなされること。未来に何が起こるかは人間には知ることはできないし、変えることができません。そしてもう一つが霊です。

8:8
「人は霊を支配できない。霊を押しとどめることはできない。死の日を支配することもできない。戦争を免れる者もない。悪は悪を行うものを逃れさせはしない。」

人は霊を支配することができないとコヘレトは言います。この霊と訳されている言葉は風、息という意味をも持ちます。新改訳ではここでは霊ではなく、風と訳しています。コヘレトの言葉では、風はつかむことができない存在としてたびたび表現されています。知恵を求め、全てを見極めようとしたがそれは風を追うようなことだったと彼は振り返っています。風は決して掴むことはできず、支配することはできません。人は自然を支配できないのです。
それと共に霊は息とも言えます。私たち人間は、ただの土の塊であったのが神の息、霊が吹き込まれたことによって命が生み出されました。神は霊です。そして、霊である神の息を吹き込まれた私たち人間も、それゆえに霊的存在であるといえます。つまり霊は人の命そのものと言っても良いでしょう。命というものはまさに神の領域であります。人間には命を生み出すこともできませんし、寿命を伸ばすこともできません。もっと言えば死を克服できる人間は一人もいません。命というものを前にしたとき、私たちは人間の限界を見ますし、その命を通して神のくすしいみわざ、奇跡を垣間見るのです。
そして、霊は聖霊とも訳されます。これこそ人が支配できないものです。人が聖霊を自力で掴み取ることはできません。聖霊は神様から一方的に与えられる恵みであり、私たちは受け取ることしかできません。そしてその聖霊のみわざによって私たちは主を主と信じ、告白し永遠の命という死を超えた最大の恵みに預かっているのです。まことの命は人の力では手に入れられないのです。
他方、神の霊がない、罪に囚われた人間は死の支配から逃れることができません。罪の報酬は死である(ローマ6:23)と聖書は明確に語っています。どんなにすごい人間でもこの死から逃れることはできません。たとえ世界を支配する大悪人だったとしても、悪の力で命を支配し、死を克服することはできないのです。
罪を悔い改め、神様に素直に降参した者のみが永遠の命、聖霊の恵みに預かるのです。なぜなら、唯一、死に勝利されたお方が存在するからです。そのお方が私たちの救い主イエス・キリストです。そのイエス様を信じることによって私たちも死からの勝利者とされるのです。イエス・キリストの復活のみが私たちを死の鎖から解き放ってくださるのです。

ローマ6:23
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

人間は決して自分の力で死の支配から救われることはありません。その罪と死の世界から救ってくださるのは、聖であり、義であり、なによりも愛である主なる神様だけです。どんなに力を持っていても悪は決して悪を救うことはできなのです。

②この世の支配、この世の矛盾
人には支配できない領域がある。それを踏まえつつもこの地上の支配の矛盾に、コヘレトはため息し、空しさを表します。今は人間が人間を支配している。そこには苦しみがあるとコヘレトは言います。本来、人を支配されているのは神様です。神のご支配、摂理によって私たちの世界は成り立っています。しかし、その真実に背を向け、人間を支配しようとしてきた権力者たちがどれほどいたことでしょうか。ナチスドイツのヒトラーや戦前の日本、またスターリンなどはまさしく恐怖で人を支配していきました。力で押さえつけ、イデオロギーで縛り、そこには全く自由がありませんでした。民は大いに苦しみ、多くの犠牲者を生みました。
かつてもそうですが、今、現代においても人の支配は変わりません。歴史は常に繰り返し続けています。現代では力、純粋な武力による支配もあるでしょうが、それ以上に経済という力によって人を支配する傾向があるように思います。貧富の差は未だにあるどころか、増すばかりです。資本主義自体は悪いものでもありませんし、本来の経済の役割は人に幸せを与えるものであります。しかし、神のご支配という謙遜の中でなされなければ、お金が人を支配する世界となってしまうことでしょう。その支配もまた、人間に苦しみを与えるものとなります。
そのような人の支配による社会は矛盾だらけです。悪人が盛大に葬儀をされ、尊ばれ、崇められる。正しいことをした人が陽の目を見ず、ひっそりと忘れ去られる。名も知られぬ偉人がきっと歴史にはたくさん埋もれていることでしょう。そういう人ほど忘れ去られるとは、たしかになんともむなしい世の中です。
これは、いまだに勝てば官軍、負ければ賊軍の世界がまかり通っているということでしょう。勝負に勝つ、強い者こそが正義なのだ。だれもおおっぴらに口には出しませんが、現実にはそういう面が私たちの社会には未だに強く残っているような気がします。
そういった世界では正しいものがどんどん取って代わられていきます。何が正しくて何が悪なのか、もうなにがなんだか、わからなくなってきます。勝てば官軍、負ければ賊軍とは明治維新の時の言葉ですが、昨日までの将軍がいつのまにやら賊軍になったりするわけです。以前、正しさにこだわりすぎてもいけないといったことを語りましたが、この世は何が正しいとは言い切れない不完全で矛盾に満ちた世界であることを痛感いたします。時に悪が栄えたり、正しい者が悪とされたりと、人の支配する世界はまことにむなしいものです。

③本当の幸い
そういった世の中で生きていると、「正直者がバカをみる」。そのような思いにかられる人も多くいるかもしれません。バレない限り悪事を犯してしまえ。最初は小さなことからかもしれません。しかし、徐々に大胆に悪事を犯し、ブレーキが効かなくなっていきます。「どうせバレない。裁かれないならやったもん勝ちだ。」そういってエスカレートしていきます。そして、現実に悪事はバレずに悪がひっくり返らないということも往往にして起こります。バレずに長生きして、そのまま死を迎えることもあるでしょう。そんな不条理な現実に憤りを覚えたくなるかもしれません。
しかし、これが本当に幸せな人生と言えるのでしょうか。悪事によって私腹を肥やし、物に溢れ、欲望を満たし、人からも賞賛を受けながらも、その人の奥底にある心の穴は決して埋まりません。その穴は、表面上隠すことはできても自分自身にはごまかすことはできません。その心の穴を埋めるのは神様しかおられないのです。しかし、罪に囚われ悪事に手を染めどこまでも突き進む、そこに神様はおられません。もはや、その者の霊、命は死んでいるのです。力も富もあっても決して幸せではないのです。まことに空しい人生です。
他方、神を恐れる者こそ幸いであるとコヘレトは語ります。全知全能の神が人間をはじめ、この地上のすべてのものを生み出し、恵みを降り注ぎ、その全てを治めておられる。そして、その神は愛と憐れみに満ち、罪の泥沼に陥っている私たち人間のために人となって降りてこられ、全ての罪を背負い十字架にかかられた。そして、復活を持ってその死に打ち勝たれた。この真理を知り、確信を持って歩めることは人生において非常に大きいことです。それが全てだといっても過言ではありません。まさにまことの幸い、神と共に生きる喜びがそこにあります。
たとえ足りないものがあったとしても、他人と比べてうらやむことなく、自分自身に与えられた目の前の恵、この一つ一つが神様が私に与えてくださったかけがえのないギフトなのだ。そうやって恵みを両の手で受け取り、感謝の中で生きる日々、これこそ幸いです。感謝できる毎日って本当に幸せですよね。
罪を犯すという言葉はそもそも、まとを外すという意味合いを持っています。神に背を向け罪の中に生きることは、どれほど裕福で、栄華を極めようとも、人間の生き方としてどこかずれているのです。その人生はむなしい的外れな生き方であり心を満たすことは決してありません。
他方、感謝するという言葉は矢を射るという意味合いもあります。神を恐れ、神に信頼し、その恵みに感謝するという生き方は人間として的を得た幸いな人生なのです。感謝の中で生きることによって、本当に私と神様の向きがぴったりと合わさってくるのです。
そして私たちが最も感謝するアメージンググレイス、驚くべき恵みが永遠の命であります。神を恐れ、神を信頼し、神を愛する者の命は肉体の死を超えてなお続く永遠の中にあります。
しかし、罪を悔い改めず、悪に走り続ける者は永遠の死を迎えることになります。この地上での生ではたとえ長生きしたとしても、必ず神の裁きを受けることになります。この世での生よりも死んでからの方が圧倒的に長いです。悪人は本質的な意味において長生きは決してできません。地上で生きている時も、死んでからも決して幸福にはなれません。報いは必ずあるのです。でも、神様は忍耐強いお方です。ずっと待ってくださっています。もし、心に何か思い当たるものがある方は素直に神のみ前に出て、悔い改めてほしいと思います。その時、神様はあなたを喜んで抱きしめてくださります。

④無知の知
コヘレトはずっと、延々とこのように知恵、真理を追い求め続けました。人の人生はむなしい、はかない。悪が栄え、正義が報われない。そもそも何が正義で悪なのかも究極、わからない。人にはできないことだらけだ。全ての栄華もいつか必ず滅びる。人は一体何のために生きるのか。なぜだ?コヘレトは問い続け、知恵を追求し、この世の全てを見極めようとしました。そして、彼は一つのことに気づきました。それは、この地上で行われている全てのことは神のみわざであるということです。新共同訳の聖書では17節を「神のすべての業を観察した。」とありますが、新改訳ではここを「すべては神のみわざであることが分かった。」とあります。ここではこの新改訳の方がわたしとしてはしっくりきます。
全ては神のみわざであることが分かったコヘレトは一つの結論にたどり着きます。それはその神のみわざの全てを人間が理解することはできないということです。彼は人にはどれだけ知恵を追求してもわからないことがあるんだということが分かったのです。分からないことが分かった。人の分、限界を知ったということです。
その自覚と謙遜によって「私は何も知らない」というコヘレトの言葉はまことの知恵者の言葉と言えるでしょう。無知の知というソクラテスの考え方がありますが、これは自らの無知を自覚することが真の認識に至る道であるとする考え方です。そして人の限界を知ったその時こそ、神の無限を知るのです。その神のみこころの深さ、広さ、高さを知った時、人は心から感動するのです。パウロは十字架の救いという理解しきれない深い神の知恵を知った時、心から感動しました。

ローマ11:33
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」

神のなされるすべてのみわざの深さを人が完全に知り得ることはできませんし、知らなくてもよいのです。それほど神のみわざは素晴らしく、愛と慰めに満ちたものなのです。全てを知ることはできないという人間の分を踏まえ、主なる神を恐れる。一周回ってこの境地に立った時こそ知恵の始まりと言えるのではないでしょうか。
私たちのために全てをささげるほど愛に満ちた神様。その神様のなされることは常に最善なのだと信頼して、委ねることしか私たちにはできないのです。神様に「あなたのなさることは私にはわからないことがたくさんあります。しかし、全てをあなたにお任せします。」と手を上げる。このように神様に降参したときから私たちは少しずつ神様のことを体験的に知っていくこととなるのではないでしょうか。
長年、聖書を読み続けていると高慢な私なんかは気をつけていないとすぐに、なんか分かったような気になってしまいます。それでは、まだまだ。とてもとても、といった感じです。本当は聖書というものは知れば知るほどわからないこともどんどん増えてくるものです。むしろそのほうがみことばと真摯に向き合うことができていると言えるでしょう。
私には分からないことがたくさんあるし、人は全てを分かりうることはできないと謙遜でありつつも、それでも主よ、私はあなたのことを、みこころをもっと知りたいのですと恋い慕うように、神の知恵を求めつづけていきたいと願います。
その中で神の恵みを喜び、一つ一つ感謝しながら人間として的を得たまことの幸いな人生を主と共に歩んでまいりましょう。

武井誠司

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