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人の言葉ではなく神の言葉による信仰を (Ⅰテサロニケ2:1~13)

メッセージ
2020/06/14
富里教会礼拝説教
「人の言葉ではなく神のことばによる信仰を」
(Ⅰテサロニケ2:1−13)

①無駄ではなかった真の宣教
先週から、私たちはⅠテサロニケ書から、みことばの恵みをいただいていますが今日は2章に入ります。この2章の冒頭で、パウロはいきなり、「私たちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。」と語ります。いったいなぜこのようなことを言うのでしょうか。
それは、テサロニケの教会の人たちがユダヤ人による迫害、苦難を受けながらも、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主に倣う者となり、ギリシャに至る全ての信者の模範とまで成長していたからでした。
この無駄ではなかったと言うギリシャ語は動詞の完了形で、結果の継続を表すものです。すでに成長し、そしてその変化はずっと続いていく、そういった信者たちの生活が見えたことがパウロにとっては何よりも嬉しかったのです。素晴らしい実りを見て、ああ無駄じゃなかったというわけです。喜びもひとしおって感じですよね。しかも、「無駄ではなかったどころか」とまで言うのです。
パウロがそこまで喜ぶのには理由がありました。なぜならテサロニケに来る前にパウロたちはフィリピで非常に強い身体的苦痛と精神的苦悩を受けるという辛い迫害を受けていたからでした。パウロはフィリピで鞭打たれ、足枷までかけられました。そして辱めまで受けたのです。ローマ市民権というある意味、特権を持っていたパウロに対して侮辱の言葉を浴びせまくったようです。
そんなボロボロの状態でテサロニケに来たにも関わらず、パウロたちは神様から勇気をいただきながらめげずに大胆に神の福音を語り続けたのです。決してテサロニケでの宣教も順風満帆ではありませんでした。先週話したように、ユダヤ人の暴動がある中での宣教でした。それでも語り続ける。そして、その激しい苦闘の実りをみて「ああ、無駄じゃなかった」というわけなんです。
私たちの宣教も時に、結果がすぐにでないときには「こんなことしても無駄なのかな」と考えがちです。しかし、その苦労の中でこそ実りがあったときには、神の恵みを実感するはずですし、必ず収穫は約束されています。無駄かと思いつつも踏みとどまったものだけに、「ああ、無駄じゃなかった。」と喜びの刈り取りが待っているのです。詩篇126篇5−6節に

「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」

と書いてあるとおりです。

②宣教の本質
そして、次にパウロは神の国の福音をどのように宣べ伝えたのかについて語っていきますが、そこには宣教の本質というものが語られています。3〜5節までをお読みいたします。

「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。わたしたちは神に認められ、福音を委ねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。あなたがたが知っている通り、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。」

ここで使われている宣教と訳されている言葉は、ギリシャ語でパラカレオーと言い、宣教、説教の本質を表す言葉だと言われています。この言葉の本来の意味は熱心にすすめる、はげます、なぐさめる、など多岐に渡ったものであり、それをここでは総称として宣教と訳していると思われます。神の福音が純粋に、健全に語られるのであれば、聖霊は存分に働かれ、その聞く者の心は熱く促され、背中を押され勇気が出るように励まされ、あなたの心の内に秘めている痛み、傷にそっと手を触れ、優しく温かく抱きしめてくれるような慰めが与えられるのです。言うは易し、するは難し。とても自分がそんな説教できている自覚はありあませんが、いつかこのような説教をしてみたいものです。
その宣教の本質が存分に表されるためには、一体なにが大事でしょうか。知識でしょうか、技術でしょうか。話術でしょうか。そうではなく、宣教において最も大切なことは「動機」であるとパウロは明言しています。これは、神の言葉を取り次ぐ説教者に強く語られている事柄のように思います。語る者である牧師として自分自身が肝に命じなければならないところでしょう。
その動機とは「人に喜ばれるのではなく神に喜んでいただくため」でなければならないということです。
当時、数多くの宗教や哲学などがはびこり、人にへつらったり、口実を設けてかすめ取ろうとするような、自分の利益中心に語る輩がいたようで、パウロもその類の人間だと非難されたことがあったようです。しかし、自分は断固違うとパウロは主張しました。ガラテヤ書1:10でもこのようにパウロは語っています。
「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいはなんとかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」

③賞賛という名の誘惑
人間の誉れを受けたい。人からの賞賛への欲求。これは神の言葉を語る説教者に対する一番の誘惑でしょう。一生続くものかもしれません。ある先生が牧師になるにあたって、最初に「牧師は一番最初に荒野の誘惑に合うよ。」といわれたことが非常に印象に残っています。「先生、いい説教でした」と褒められたいと言う欲求は、まさしくサタンが荒野でイエス様にした人間の栄誉への誘惑と同じでしょう。いや、褒めていただいたらすごく嬉しいですよ。人間ですからね。それはそれとして、感謝して受け止めたいと思います。
しかし、賞賛して欲しくて、ヒト受けのいいような言葉だけ語るようになってしまっては、それはもはや説教とは言えないでしょう。先ほどいったように、健全に語られるならば、みことばは時に厳しく心を突き刺したとしても、そのうえで勧め、励まし、慰めが聖霊を通して与えてられるものだからです。
「先生よかったです」、よりも「先生の説教を通して神様が私に語ってくださいました。」と言う言葉を説教者としては喜びたいものです。人、自分の栄光ではなく、神の栄光をあくまで望む者として神の福音を語った時にこそ聖霊は臨むのでしょう。
また、証についてもそう言えるでしょう。証は単なるその人の経験談ではありませんし、単純にいい話というものでもありませんね。証とは神様が自分とどのように出会い、関わり、働いてくださったのかという恵みを語るものです。文字通り自分ではなく、神さまを証するのです。確かに神は生きておられるという証言をすることが証です。そして、そこにも賞賛してほしいという甘い誘惑が潜んでいることを肝に銘じましょう。

ヨハネ福音書7:18
「自分勝手に話すものは、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求めるものは真実な人であり、その人には不義がない。」

このような人とは、まさしくイエス様であることが表されていますが、私たちもこの主イエスに心から倣いたいものです。

④聞く者の責任
ここまでは、神の福音を語る者の責任であったり、心構えだったりとある意味、説教者である牧師に向けられたメッセージが語られてきました。このままだったら私だけがみことばを受け止めて、「アーメン、頑張ります。」といって自己完結して、聞く側である皆様を置いてけぼりにしてしまいそうです。しかし、パウロはそうしません。パウロは今日の箇所の最後で聞く側がどうあるべきかについても言及しています。
13節
「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いた時、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」

このようなわけで、とパウロは締めくくりかかります。このように私たち、神の福音を語る者は神に喜んでいただくことを動機として語るので、神に感謝しています、ということです。一体、何に感謝しているのでしょうか。なぜ、感謝しているのでしょうか。
それは、テサロニケ教会の人たちがパウロのそのような思いを十分に理解し、パウロの語る言葉を人の言葉としてではなく、神のことばとして受け入れたからでした。私たちもどの教会においても語られている説教に対して、聞く者として神の言葉が語られているという敬意を持ちたいものです。この講壇に上がって語る者は、どれだけ未熟であったとしても神さまに語ることを許された者なのです。
それは、バプテストの特性で言えば牧師であろうが信徒であろうが関係ありません。本質で言えば、牧師だから説教していい、信徒だからできないということではないのです。ただ講壇に上がった者は神に語ることをゆるされた者の言葉であり、牧師であろうと信徒であろうとそこに立つ者は、神の言葉を語る責任を受け止め語らなければなりません。未熟だからといって安易に自分に言い訳をするような心持ちを持って立ってはならないのです。未熟であっても神が自分を立てたことを厳粛に受け止めて最善を尽くすことが全ての説教者に求められます。
他方で聞く側の方にも責任があります。聞く側は、説教者がそのような責任と覚悟をもって、語っていることをしっかりと受け止め、どれだけ未熟な説教であろうと、神さまがこの人に語ることを許されたということを厳粛に受け止め、神が語る言葉として聞かなくてはなりません。また、その内容も自分の心に受け入れやすいとか、心地よいといった自分の喜びで判断するのではなく、たとえ厳しくとも神の言葉として受け取っていくという姿勢がとても大切なように思います。
私たちは、どうしてもメッセージに関して、みことばそのものよりも誰が語っているのか、そういう事柄に左右されがちです。去年まで行っていた私の神学校では毎日チャペルタイムを行なっていました。毎日違う人がメッセージをするのです。それゆえ、時にチャペルのメッセンジャーが誰かによって、行くか行かないかを選んでいる人がいてとても悲しく思ったことを覚えています。
説教は確かに人によって好み、好き好きというものがでてきます。それは別にあってもいいんです。だからこそ神さまはいろんな人を用いるのですから。しかし、礼拝において誰が語ろうと主役は神様であり、そこでは神の言葉が語られているのだという認識と敬意を持って受け止めていくことは御言葉に生きるものとしてとても大切な事のように思います。誰が語るかではなく、誰が語ろうとも神の言葉を求めて礼拝に向かいたいものです。

◎結
この富里キリスト教会の皆様がこの若輩者である私の説教を神のことばとして受けいれてくださっていることを、私はパウロのように絶えず神様に感謝しています。もちろん皆様にも感謝しています。そして、それゆえに私も語る者としての責任をしっかりと受け止め、人に喜ばれるためではなく、神に喜んでいただくために語っていきたいと願います。
語る者も、聞く者もただ神のことばを求めて礼拝に集う。その動機は人の喜びではなく神に喜んでいただくこと。そのようにみなが御言葉にこうべを垂れる姿を、私たちのまことの生ける全能の主なる神様は喜んで見ていただけるのではないでしょうか。
そして、神様に喜んでいただきたい。全てにおいてそのような神に栄光を帰す、純粋な動機の中で行われることがまさに、私たち自身の喜びとなるのではないのでしょうか。それこそまさに主にある私たちの喜びであり、もはや人生の目的そのものと言っても良いのでははないでしょうか。主題聖句の「いつも主にあって喜びなさい」というみことばを実践する鍵はまことに神様そのものにあるのです。神のことばを求める喜びの礼拝の中でこそ真の喜びは湧いてくるのです。ただただ神さまに喜んでいただくことだけを願って今日も、語る者も聞く者も共に主イエスに礼拝をささげましょう。

最後にウエストミンスター信仰基準の大教理問答をお読みいたします。私たちバプテストは、あまりこういうカテキズムというものを用いませんが、中々良いことも書いています。絶対的なものではもちろんありませんが、信仰の背骨をぶ厚くしてくれるものです。では、お読みいたします。

1 人生の目的
問1 人間の主な最高の目的は、何であるか。

答 人間の主な最高の目的は、神の栄光を表し、永遠に神を全く喜ぶことである。

武井誠司

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