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五人の信仰 (マルコ2:1~12)

メッセージ

2011年4月10日富里キリスト教会
「五人の信仰」
(マルコ2:1~12)
1.五人の信仰

この場面は、いわば絵になるような場面です。天上に大きな穴があいて、四隅をロープで吊るされ戸板の上に横になった病人がいて、ちょうどイエス様の足元に吊り降ろされてきました。天上の屋根の間からは、仲間が心配そうに下をのぞいています。周囲にはこのとっぴな行動に驚く人々の顔が見えます。病人を見つめるイエス様の慈愛に満ちた眼差し、そしてこわごわとイエス様を見上げる中風の人の顔。また、ある人々は苦々しそうにこの中風の人を見ています(律法学者)。その場面を読んでみましょう。

「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」(2:1~5)

5節のところで、イエス様は、「その人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」とあります。主は彼ら五人のどんな信仰を御覧になったのでしょうか?私は、この五人の中に三つの信仰を見ることができるのではないかと思います。一つは「イエスのもとに行く信仰」です。二つ目は「御言葉を求める信仰」、三つ目は「祈りと愛の交わりの信仰」ではないかと思います。

A.「イエスのもとに行く信仰」(「屋根をはがして穴をあける」)
まず第一に、イエスのところに行く信仰です。この家はカファルナウムのシモン・ペテロの家ではないかと思いますが、イエス様が来られて家庭を開放して伝道集会のような集まりがもたれていたようです。うわさを聞きつけて、たくさんの人が集まってきたものですから、玄関のところまで人があふれて入りきれませんでした。そこに、四人の男が中風の人を担架に載せてやって来ましたが、人がいっぱいで中に入ることができません。

皆さんでしたらどうされますか?「きょうは混んでいるから明日にしよう。」と出直すでしょうか。多くの群衆が集まっていました。しかし、誰もこの中風の人を中に入れてあげようとはしません。このように、イエス様とお会いする時にいろんな妨害や障害が生じてきます。当時は、病気になることは、その人が罪を犯しているからだと言う考え方がありましたので、周囲の人は、罪人はイエス様に会う資格がないと思っていたかもしれません。あの背が低かったザアカイも、群集に阻まれてイエス様にお会いすることができませんでした。(ルカ19:3)

でも彼ら五人は、今この時を逃したら、一生イエス様に会うことができないかも知れない。何が何でも、今日、無理してでもイエス様にお会いしたい、そういう思いを持っていました。私たちはどうでしょうか。あの屋根をはいで、天井からでも、この男を何とかイエス様の元にお連れしたい。今、何としてでも行かなければならない、そういう屋根をはがすほどの信仰があるでしょうか。

逆に、今日は少し体調が悪いからとか、何とか主の元にいけない理由を作って、できれば行かないようにしようということはないでしょうか。むしろ、どうしても、今日の礼拝に行きたい。這いつくばってもイエス様のところに行きたい。何が何でも人に迷惑をかけてでも主の前に出たい、そういう信仰をもちたいものです。また、友人や家族に対して、私を何とか主のもとへ連れて行ってくださいと必死にお願いするほどの信仰を持ちたいものです。そういう信仰を主は御覧になって、「子よ、あなたの罪は赦された。」とおっしゃって下さったのです。

B.御言葉を求める信仰
(「御言葉を語っておられた主」)

第二に、この四人の人が中風の人を運んでいったのは、実はイエス様が御言葉を語っておられた時でした。御言葉を求める信仰です。彼らは、イエス様のところに行けば、きっと御言葉を聞くことが出来る。御言葉を聞けば、きっといやされるという確信をもっておりました。ローマの百卒長も「ただ、お言葉を下さい。そうすれば私の部下は治ります。」(マタイ8:8)と言いました。またスロ・フェニキヤの異邦人の女も「私のような異邦の女でも、御言葉のパン屑はいただきます。」(マルコ7:
28)とイエス様に訴えました。

このように、主の御言葉を信じてこの御言葉を求めるところに罪の赦しと信仰が起こされます。この四人の担ぎ手たちは、イエス様が御言葉を語っているところへ、そしてその一番まん前にこの中風の友を置きました。この御言葉を聞きたい、そういう信仰を主は見てとられたのではないでしょうか。

C.愛と祈りの信仰(「寝かせたまま」)

第三番目に、彼らには愛と祈りの信仰がありました。今日、このような中風の人やお年寄りの介護が問題となっております。中風という病気は、読んで字の如く「風(かぜ)」に「中(あたる)」と書きます。特に北国に多い病気です。暖かい部屋から急に寒い表に出たりしますと、脳の血管が切れて脳内出血を起こし、その場で命を落としてしまうこともありますし、治っても体の機能に障害が残ります。その後、何年もリハビリをしたりしなければなりません。本人も家族も本当に大変な病です。

この聖書に出てくる人も、神経が麻痺していて自分で歩くこともできません。おそらく、一日中家の中にいて萎えた体を横たえて、回復の希望もなく過ごしていたかも知れません。しかし、彼には自分を支えてくれる友人、家族がいました。その日は、イエス様がきていると聞いて、家族の者にお願いして戸板か担架に載せて連れて行ってもらったと思います。「寝かせたままつり降ろしました。」本人は何もできないのです。みんなの支えと助けが必要です。

イエス様も伝道を始める時には、五人で伝道されました。この中風の人も、一人では何もできませんが、彼を支え助けてくれる四人の仲間がいたのです。一人の人の救いのために、四人の信仰の友が一緒になって、力をあわせて助けてくれたからこの男は救われたのです。この五人組には、病気の友への愛と思いやりがありました。四人で力を合わせて、身の回りの世話をし、声をかけ励まして担いで来たのです。しかもみんなの見ている町の中をです。恥ずかしいとも思いませんでした。

この肉体的な麻痺を持った人は、ある意味では、霊的な麻痺つまり罪とサタンに縛られていた人と考えることもできます。自分で祈ることも御言葉を読むこともできず、過去の傷と暗闇の力に縛られて生きる希望を失って、引きこもっていたのかも知れません。精神的にも立ち上がれなかったのです。でも、四人の信仰の友の愛の励ましととりなしの祈りがありました。この霊的にも麻痺した友のために、四人の仲間は愛を持って支え、祈り続けていてくれたのです。

この一人の魂を救いに導くためにも、四人の友の支えが必要だったのです。イエス様が御覧になったのは、この中風の人だけではありません。彼を取り巻くグループの仲間たちの、屋根に穴をあけるほどの熱心な信仰を御覧になったのです。そして「子よ、あなたの罪は赦された。」と宣言して下さいました。五人のグループの愛の支え、熱心な祈りを通して、彼は今ようやく主のもとに行くことができたのです。

2.罪の赦しか、病気のいやしか

このお話は、1~5節で終っていても良かったのです。ところが、この御言葉を聞いていた人々の中に数人の律法学者が座っていました。彼らは、心の中で「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(2:7)とつぶやきました。でも、イエス様は彼らの心の中を霊の力によって見抜かれて、こう言われました。

「『中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして中風の人に言われた。『私はあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このような事は、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」(マルコ2:6~12)

主は、このような不信仰な人々にも、罪を赦す権威を持っていることを証明するために、逆に質問を投げかけました。それが、「あなたの罪が赦される」と言うのと「起きて、床を担いで歩け」と言うのとどちらが易しいか、という質問でした。

皆さんはどちらが易しいと思いますか。罪の赦しは、目に見えませんから宣言しやすいかも知れません。でも、病気のいやしは、その時、病気がいやされなかったら宣言した人の権威が疑われます。面目丸つぶれです。簡単に病気をいやすなんて宣言できませんから、普通は病気のいやしの方が難しいと思うかもしれません。でも、本当は罪を赦すことの方が、難しいのです。なぜなら、それは神にしか出来ないことだったからです。神であるイエス様だけが、罪の赦しを宣告することがおできになるのです。なぜなら、主はこれから私達の罪のために十字架にかかろうとしておられたからです。

でもイエス様は、信じない人々のためにも、罪を赦す権威を持っておられることを教えるために、罪が赦されたしるしとして病気もいやされました。それが、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(2:11)という言葉です。

『起きよ』というのはいつまでも、眠っていないで、今がどんな時であるのか目を覚ましなさいということです。いつまたどんな災害がやってくるかわかりません。私たちはいつ、何が起こっても良いように、覚悟を決めて心の準備をしておく必要があるのではないでしょうか。目を下に向けずに、目を上に上げて、神を見上げる信仰を持ちなさいということです。

『床を取り上げる』というのは、今までの古い過去の生活に別れを告げなさいということです。いつまでも、昔のことで立ち上がることができずに、心を引き戻されて縛られているのではなく、前を見て、未来に向って歩みだしなさいということです。そうしてくださるのはイエス様だけです。人のせいにする人生、過去にこだわる人生と決別して、目を前にむけて、前に向って歩みだすこと、これが「床を取り上げる」ということです。

『家に帰りなさい』ということは、本来の自分が居る場所、神の御許、神の家族にいる教会へ帰りなさいということです。そして兄弟姉妹と共に、神の家族としての新しい人生を歩むこと、やがて帰るべき天国を目指して歩む人生を送りなさいと言うことです。主がそのような生き方へと私たちを造り替えてくださいます。

イエス様の本来の目的は、私たちの罪を贖い赦して下さる、そして私達の罪のために十字架にかかってくださるために来られました。イエス様こそ真の神であり、私たちの罪を贖い赦すことのおできになる唯一人のお方です。このイエス様のところに、どんな障害物がありましても近づくものでありたいと願っています。(岡田久)

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