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二つ分の霊 (列王記下2:8~14)

メッセージ

2011年1月23日富里教会
「二つ分の霊」
(列王記下2:8~14)
1.あなたを離れません

預言者エリヤは、バアルの預言者とカルメル山で戦い勝利を得ました。しかし、王妃イゼベルの報復を恐れて、砂漠に身を隠しました。そこで神様からの慰めと励ましを受け、再び立ち上がり、自分の後継者を選んで任命する使命が与えられました。そこで、神に選ばれたのがエリシャという一人の農夫でした。エリシャはその後、エリヤの弟子になるのですが、どのようにしてエリヤからエリシャに霊の賜物の継承がなされたのか見てみたいと思います。

預言者エリヤが、いよいよ天に挙げられる日が近いという時、エリヤは、主の導きによってギルガルを出てベテルに行こうとしました。そして、弟子のエリシャに「あなたはここにとどまっていなさい。」と言いました。すると、エリシャは、「主は生きておられ、あなた自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません。」と言いました。(列王記下2:2,4,6)それから、ベテルからエリコに行き、エリコからヨルダンへ行く時まで、計3回エリシャはエリヤに対して同じことを言っております。そしてその都度、エリシャは、師の言いつけに逆らって、「私はあなたを離れません」と言って後をついてきました。

「お前は、もうここまでついて来たから、あとはここで留まっていなさい。」とエリヤが言っても、エリシャは「離れません」と言って、どこまでもエリヤについて行きました。それは、エリヤが、真の神の霊によって行動し預言をしているのをエリシャが見たからです。この方こそ真の預言者、神の人だと思ったからエリシャはどこまでも師について行きました。

神様は、そのように私たちを試される時があります。私たちがどこまでついてくるのかを。ある人は、「私はもう日曜日に礼拝に来て、お話を聞くだけでいいです。それ以上は勘弁させていただきます。」という人もいるでしょう。またある人は、「教会学校のリーダーくらいはできますが、自分の家を開放してそこでスモール・グループをしたり、子供クリスマス会を開いて伝道するところまではゆきません。」という人もいるでしょう。またある人は「教会の奉仕なら何でもやります。役員でもやります。でも伝道者として仕事を辞めて献身する所までは行けません。」とおっしゃる方もいるかもしれません。

人それぞれ自分にあった信仰の段階と歩みがあります。でも、エリシャは、エリヤにどこまでもついて行こうとしました。このように、一緒に働き、一緒に活動してゆく中で預言者の外套が投げかけられるのですね。ですから、「わたしはあなたを離れません」ということは、賜物の継承のためには大事なことですね。

2.二つ分の霊

列王記下の2:8節からをもう一度読んでみましょう。「エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。『私があなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。』エリシャは、『あなたの霊の二つ分を私に受け継がせてください』と言った。エリヤは言った。『あなたは難しい願いをする。私があなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。』」(列王記下2:8~10)

エリヤは最後にエリシャに、何でも願いを聞いてあげるから言いなさいと言いました。するとエリシャは、「二つ分の霊」を下さいと言いました。これは、申命記21:15~17に出ておりますが、長男の権利として親の財産を他の兄弟の二倍いただくことができるという考えから来ております。つまり、エリシャは自分がエリヤの最初の霊の子供として、イスラエルを導くための預言者としての正当な第一の後継者であると言うことを認めて欲しかったのです。また、それにふさわしい預言者の賜物、また様々な奇跡を行なう力を与えて下さるようにと師に願いました。

それに対して、エリヤはあなたは難しい願いを言われると言います。確かに、その人に預言の賜物を与えるのは人間のすることではありません。賜物は天からきます。神様が与えて下さらなければ誰も預言をすることはできません。でも私は、このエリシャの態度から、この預言の賜物について熱心に求めることを教えられました。「求めよ、さらば与えられん」です。皆さんはエリシャのように、預言者の後をついて歩いて「私に二倍の霊の賜物を下さい」と熱心に求めたことはありますか。

「預言の賜物や説教することは、あれは牧師のすることだから、私たち信徒はそこまで求めなくてもいいのではないか。」と思っていることはありませんか。また、CSのショートメッセージの時にも、神様に真剣に「神様、私に預言の賜物、メッセージをする賜物を与えて下さい」と真剣に祈り求めたりすることはないでしょうか。パウロは言っています。「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」(Ⅰコリント14:1)と。

3.エリヤの外套

最後に二つ分の霊の賜物を受けたエリシャが、どう変わっていったかを見てみたいと思います。13節から読んでみましょう。「エリヤの着ていた外套が落ちて来たので、彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ち、落ちてきたエリヤの外套を取って、それで水を打ち、『エリヤの神、主はどこにおられますか』と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることができた。エリコの預言者の仲間たちは目の前で彼を見て、『エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている』と言い、彼を迎えに行って、その前で地にひれ伏した。」とあります。

エリシャは、自分の着ていた衣を二つに引き裂きました。これは悲しみの気持ちを表しているといわれていますが、自分の今まで来ていた古い考えや気持ちをそこで投げ捨てたのではないでしょうか。そして、エリヤが残してくれた外套を使ってヨルダン川の流れを打ったところ、水は左右に分かれ彼はそこを通って反対側に渡ることができました。これは、モーセが海を分けて渡ったこと(創世記14章)、そしてヨシュアがヨルダン川を渡った(ヨシュア3章)という奇跡の出来事を思い出させ、エリシャこそエリヤに代わってイスラエルを導く真の主の預言者だということのしるしになりました。

エリコの預言者たちは、エリシャの上にエリヤの霊が留まっているということを確めました。ところが彼らの目には、まだエリヤの遺体を見なければエリヤが死んでしまったということを信じることはできませんでした。エリヤの遺体を捜しに行くといい始めましたが、エリシャは止めました。その制止も聞かずに彼らは、エリヤの遺体を探しに行くわけですが発見できずに帰ってきましてエリシャにたしなめられます。

つまり他の預言者たちは、エリヤが生きたまま天に帰られたということが信じられませんでした。その事実を見て信じたのは、エリシャだけでした。つまり、これはあの復活のイエス様の遺体を捜し求めている弟子たちと同じです。イエス様は復活されたのに、それを信じることができずにその遺体の入った墓の前で泣き崩れ、主の遺体を見るまでは復活を信じないと言った不信仰な弟子たちと同じ信仰でした。

でも、エリシャはすでにエリヤは、天に帰っていったという復活信仰を持っていたのです。遺体があるかないかは問題ではありません。生きながらにして天に引き上げられました。それはあの創世記にある165年間生きて、生きたまま天に挙げられたエノクのようでした。(創世記5:23~24)

こうしてこの波乱に富んだ激動の時代に、信仰は預言者たちの働きを通して、イスラエルの中で継承されて行きます。信仰をどのようにして継承して行くか、そしてどのようにして信仰を宣べ伝えて行くかということが、今日の私たちにも与えられた課題ではないでしょうか。私たちも、エリシャのように「私に二倍の霊の賜物を下さい。」と願いながら、聖霊に満たされて、私たちの本当の師であるイエス・キリスト様に、離れないでついて行きたいと思います。
(岡田 久)

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