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主御自身が第一 (詩編127編1~5)

メッセージ

2013年1月6日富里キリスト教会
「主御自身が第一」
(詩編127:1~5)

1.焦る必要はない

2013年新年に与えられた御言葉を読んでみましょう。
「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ。それはむなしいことではないか、主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。」
(詩編127:1~2)

この人は生きるために、一生懸命朝から晩まで寝る間も惜しんで働いて来ました。そして、一家を支え、家を建て、町の中でも有力な人物になって高い地位を得ることを目標として来ました。イスラエルの民は、日本人のような勤勉な国民でもあったようです。しかし、イスラエルの人々にとって、いくら勤勉に寝る間も惜しんで働いて財を成しても、結局は、神様ご自身がその人の家を建て、その人の町を守ってくださるのでなければ、その苦労も空しいものではないだろうかと疑問を投げかけています。

2節のところで、朝早く起きて働き、夜遅くまで夜なべをしながら働いて、生活の糧を得ても、それは空しいことだと言っています。この人は、朝早く起きて夜は遅くまで仕事をするのでしたら、一体いつ眠るのでしょうか。たとえ今日のように、不況でアルバイトを何件もこなさなければ生きて行くことができない時代でありましても、神様を第一とし、神様が自分の生活を仕事を家を支えて養って下さるという信仰がない限り、その人の人生は空しいのではないだろうかと問いかけています。

2.主御自身が建ててくださる

つまり、私たちの人生の中で、そして日々の生活の中で何が一番大事かということです。そして、信仰生活の中で、何が私たちが目指すべきゴールであるかということです。男でしたら、やはり一家を支えて、家を建て、子供をたくさん育てて孫子の代まで自分の家の繁栄を見ることが、生きがいではないでしょうか。でも、たとえ立派な家を建てても、主が建て上げてくださるのでなければそれは空しいと言っています。また、敵から身を守るために、いくら立派な門を造り外壁を築いても、またどんなセキュリテイ―をつけても、主御自身が町を守ってくださるのでなければ、敵の侵入と攻撃に耐えることはできないと言っています。

逆に言いますと、たとえ、町の防備が貧弱でも、主が守ってくださるならば、その町な難攻不落の要塞同然、絶対に侵入されることはないということです。また、どんなに力がなく、資金がなくても、主がこの家を建てようと決断されるならばその家は建つのです。まず、神様ご自身が家を建てる、神様ご自身が家を守るというご決断をして下さらない限り私たちは何もできないのです。だから何をするにしても、まず主がそのようにご決断されているのか、もしかしたら自分の願い願望でもの事を進めているのではないだろうかということを反省してみる必要があります。

主を先頭にしなければ家も教会も建ちません。神様を第一として、行かなければ、家も町も教会も敵に侵略されてしまいます。主御自身が、この富里教会の主であるように、そして主御自身がこの教会を守ってくださるように祈りたいものです。神様を第一にすること、そして神様に従うことを人生の目的とすることです。そのためにはまず祈りが大事です。祈るごとに、主が自分に何をせよと言っているのが聞こえてくるような気がします。それはまず、何よりも主御自身を求めることではないでしょうか。これこそ私たちの人生の、そして信仰生活の目標でありゴールなのではないかと思います。

詩篇の記者もこう言っています。「一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で(復活の)朝を迎えることを。」(詩編27:4)「あなたの命令に従うこと、それだけがわたしのものです。」(詩編119:56)「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。」(詩編58:12)私たちの求めるもの、そして人生の目的は、この生ける主を第一とし、このお方の御言葉に従うことです。常に主を第一とし、何事においても、主が良しとされるところを歩むことではないでしょうか。そのためには、まず祈りの中で、御言葉を通して主の御心を常に求めて行くことではないかと思います。

3.胎の実りは報い

最後に、このように主を第一として歩んだ家族が、どのような結果、どのような報酬を受けるかが後半に記されています。「見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。若くて産んだ子らは、勇士の手の中の矢。いかに幸いなことか、矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争する時も、恥をこうむることはない。」(詩編127:4~5)つまり主を第一として歩んだ家は、多くの子供をいただくということです。そして、その子供たちが、今度は親を支えて敵と戦ってくれるようになるということが約束されています。

胎の実りですから、この家の奥さんは妊娠していることになります。そしてたくさんの子供を産んで、子供たちが敵である悪魔に対して勇敢に戦ってくれる勇士となって行くということです。教会に当てはめて言いますと、次々と霊の子供が誕生するということです。次々とバプテスマが与えられて新生児が生まれることを意味しています。生まれたばかりの霊の子供、そしてまたお母さんのお腹には出産を待っている次の求道者がいるということです。

これが霊的に祝福された家族です。子供の出産も子育ても大変です。でも、それが神様の祝福された教会の姿ではないでしょうか。そして、同じような情景が詩編128:3にも記されています。「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの木。見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。シオンから、主があなたを祝福して下さるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見、多くの子や孫を見るように。」(詩編128:3~6)

女性の方々、表面には立ちませんが、謙遜に教会の奥の方にいて、静かに家族を見守っていますが、ぶどうの木のようにいっぱい実をつけます。霊の子供をたくさん産みだす働きをします。そして教会の家の中には、新しく生まれた霊の子供たちがいっぱいいて、霊の糧である御言葉のミルクをたっぷりと飲んでいます。そして教会の家の中は、子供や孫やひ孫でごった返してるようになると言っています。それが、多くの子供や孫の顔を見るようになるということです。

霊の子供を産む妻は誰でしょうか。霊の子を宿している妊娠中の奥さんは誰でしょうか。霊の子育て中のお母さんは誰でしょうか。赤ちゃんにはおしめを変えたり、ミルクを飲ませたりするのは大変です。やっと子育てが終わったと思ったら、二番目の子供がいます。一人っ子ではないですから、お母さんも大変です。大家族は何人も子供がいます。お腹を大きくしながら、子育てをしなければならないかもしれません。でもそれが主に祝福された家族です。主御自身を第一とし、主がまず家を建ててくださることを信じ願っている教会の姿ではないでしょうか。主が教会を守っていて下さることを、第一に願っている教会ではないでしょうか。

あくせく働いて、いつもいがみ合って暮らしている家庭になってはいけません。それはいつの間にか自分が主人になっているのです。そんな家はどんなに立派な建物でも、空しいです。すぐに崩れてしまいます。主を第一として、主にいつも寄りすがって行かなければ、どんなに強固な城壁を築いても、たちまちのうちに崩れてしまいます。主御自身を第一としましょう。主を求めましょう。そのためにも、新しい2013年も心を一つにして祈って行きましょう。どんな時にも神様の御言葉を求め、これに従いこれに教えられて行くことを願いましょう。そこにこそ、私たちの人生の目的があり、祝福の源があるのです。
(岡田 久)

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