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主を求めよ、そして生きよ (アモス5:4~6、21~24)

メッセージ

2012年11月18日富里キリスト教会
「主を求めよ、そして生きよ」
(アモス書5:4~6、21~24)

1.信仰生活とは

信仰生活の出発点は、もうバプテスマを受けたから大丈夫、教会員になったから大丈夫というものではありません。むしろ今まで以上に、熱心に主を求め、聖書を調べ研究し、真理を探究して行く者になることです。霊的な成長のスタートです。教会という神学校に入学したような者です。何かこれから自分が真人間になろうとか、正しい生き方をしようとか、何か人のために尽くすようなボランテアをしようとかというようなものではありません。

何よりも大切なことは、この天地万物をおつくりになり、今もこの世界を支え、御支配しておられ、わたしたちの罪を贖い赦して下さる唯一のお方に出会ったことです。そして、この方をさらにもっと深く知り、このお方に従っていきますという人生の決心をしたということです。この方を忘れたり、この方をおろそかにしたりしますと、わたしたちは信仰の何たるかを見失ってしまうのではないでしょうか。生ける神様との絶えざる出会いと対話、そして御言葉の実践、服従、これが私たちが救われたことの意味なのではないでしょうか。

信仰とは単純明快です。ただ一つのことです。それは「主を求めよ、そして生きよ。」です。これは一生のテーマです。英語ではもっと簡単です。Seek me and live・・ Seek the Lord and live(アモス5:4,6)。5:4~6を読んでみましょう。「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。しかし、べテルに助けを求めるな、ギルガルに行くな、べエルシバに赴くな。ギルガルは必ず捕え移され、べテルは無に帰すから。主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のように、ヨセフの家に襲いかかり、火が燃え盛っても、べテルのためにその火を消す者はいない。」

べテルやギルガルというのは、聖所があったところです。そこに行けば生活が何とかなると思っていました。でも主はそんな場所にいる方ではないのです。私たちが本当に心から罪を悔い改めて、主に従うならば、どこでも主とお会いできるのです。大事なことは、いつでもどこでも真実に生きておられる主を求める心です。なぜならば、真に命を与えて下さるのは、そのような場所や儀式や奉仕ではなく、主御自身だからです。このお方を求めることが何よりも大事なことであり、最優先のことにしたいものだと思います。

2.わたしを求めよ

この頃、北イスラエルも南王国ユダも比較的安定して栄えておりました。それぞれの聖所で神礼拝がなされていたのです。しかし、その国の繁栄とは裏腹に、国内においては、彼らの自己中心的かつ形式的な礼拝のゆえに、いろんな社会問題や宗教上の堕落がはびこっていました。神様の正義や神様の恵みの業が、聖所から流れ出て来ないのです。自分本位の神礼拝、自分中心の神礼拝では、本当の神様の思いが聖所を通して、社会に家庭に現れて来なかったのです。正義も恵みの業も一切が枯れ果て、多くの人々が霊的にも物質的にも疲弊してしまっていました。それはあたがたの信仰生活や生活態度、社会の出来事を見ればわかると言っています。

どういうことが起こっていたかと申しますと、「社会の中で貧しい人々が、たった靴一足分の値段で、奴隷として売買されていたというのです。そして強い者、資本を持っている者が、弱い者の頭を地面に踏みつけて搾取しているということです。それから、家庭においても父親と息子が、同じ一人の売春婦のもとに通っているという事実。そして神殿の中では、神殿税の代わりにとりたてたぶどう酒を祭司たちが飲んでいるということ。また祭壇のそばで税金のかたに取った衣服を広げて値踏みをして自分のものにしていることなど、神殿の中でも社会の中でも家庭でも秩序が乱れ、汚れた行為がはびこっていたのです。」(2:6~8)

彼らが求めていたのは、自分の腹、自分のふところ、自分の欲でした。このような社会の有様を見たアモスは、もともと預言者ではありませんでした。一介の羊飼いでしたが、神様の召しを受けて、厳しくその罪を糾弾しました。彼は、わざわざ自分の国、ユダのテコアから北のイスラエルまで行って預言活動をしました。まず、主を求めなさい。神様ご自身を第一に求め、その御心を探し求め、その御言葉に忠実に従う本来の信仰に立ち帰りなさいと言ってふれ回ったのです。真の信仰とは、まず一人一人が、真剣に主を求め、主に聞き従う、主に忠実になることから始まるのです。一人一人の心の中で、個人的に神様に出会うことです。このことなしに真に主と出会うことはありません。アモスは、「イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ。」(4:12)と言っています。

あなたは、あなたの神に個人的出会う備えをしていますか。主なる神様に個人的に出会っていますか。また、あなたの神を個人的に祈り求めていますか。それがアモスの一番言いたかったことです。イエス様も言いました、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7:7)とあります。

神様は、私たちが神様ご自身を求めることを待っておられます。神様は、わたしたちが門をたたくことを待っておられるのです。誰でも、求める者は必ず、与えられ、探す者は必ず得られるのです。このように、主を必死に、真剣に求める飢え渇いた魂を主は探しておられます。

3.そして生きよ

アモスは、「主を求めよ、そして生きよ。」と何度も言いました。実に単純で力強い言葉です。私たちの日々の生活も、苦労の多い長い人生を生きることに必死です。どうして生きて行ったらいいのか、迷いながらも一歩一歩歩んでいます。しかし、この短い言葉の中に一つの真理があります。それは、生きる前にまず、主を求めることです。つまり、主を求めずして、どんな人生を歩んだとしてもそれは生きることにならないということです。主を求めるということがまず最初にあって、それから、わたしたちは初めて自分の生きる道を見出して歩むことができるのです。ですから、この短い言葉「そして」がとても大事なのです。

「主を求め、そして生きる」という、この順番が大事です。ですから、主を求めずしては、その道は常に迷い道であり、行く先が見えず、まるで暗闇の中を焦って手さぐりで歩いているみたいなものではないでしょうか。自分の人生の目的、目標は主御自身に出会い、このお方の指し示す道をひたすら歩き続けることではないかと思います。主を求め、主を見つけ、主とお会し、主をより深く知ることによって、初めて生きる道を見出すことができるのです。

何度も申しますが、順番が大事です。主を求めることによって、私たちは初めて真の人生を送ることができるのです。主を求めることと生きることを切り離してはいけません。そして、真に生きることは、真に主を求めることから来るのです。主を求めずしては、いくら良いことをしても慈善を行っても、それは空しい業です。主が共にいるからこそ初めて、他の人と共に歩むことができるのです。

あのヨナが海に放り込まれて、その奈落の底に沈んで行こうとする時に、必死になって叫んだ言葉があります。の間際に発した言葉、これが主を求めることです。「息絶えようとする時、わたしは主の御名を唱えた。」(ヨナ2:8)あの時の叫び声です。それは飛行機事故で墜落する機内から、最後に神様に叫んだ「神様助けてください!」という叫び声です。あるいは、いまわの時に最後に叫ぶような言葉です。「主よ、わたしの霊をあなたにお返しします。」

人は誰でも何も持たずに、死んで行かなければなりません。いくら傍に家族がいて、教会の牧師がいても、息を引き取る時には一人で旅立たなければなりません。しかし、イエス様だけは生きている時も、病の時も、息を引き取る瞬間も、そして死んだ後も共にいてくださいます。いつも私のそばにいてくださるお方です。息を引き取る時に、私たちは何を求めますか。幸せを求めるでしょうか。家を求めるでしょうか。この世の富や地位を求めるでしょうか。おそらくそれらは何の益にもならないでしょう。

私たちは、ただ一人、このお方の御名に寄りすがるのではないでしょうか。そういう思いで、今を生きていただきたいのです。これが「主を求めよ、そして生きよ」と言われた言葉の真の意味ではないかと思います。そのような生き方が、死を越えて永遠に至る道につながって行くのではないかと思います。罪の深みから引き上げてくださった、主の大いなる恵みと憐れみを忘れてはなりません。今日から、私たちもこのかけがえのない人生を、新しく生まれ変わった者として、真剣にそして必死に主を求めて歩んでまいりましょう。(岡田 久)

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