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主を喜ぶことが力の源です (ネヘミヤ8:4~12)

メッセージ

2012年10月28日富里キリスト教会
「主を喜ぶことが力の源です。」
(ネヘミヤ記8:4~12)

1.一人の人のように集まった

8章1節に「民は皆、水の門の広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持ってくるように求めた。」とあります。水の門とは、おそらく町に水を搬入するために作った出入口としての門だと思います。この水の門を通して、町に水が運び込まれ、人々ののどを潤し生活に必要な水を供給していました。

そこを集会の場所としたのは、まさに、集会に集まってくる人々に命の水をこの門から分け与える場所、そこに行けば渇いた心を潤してくれる命の水にありつける場所でもあったのです。神殿の前ではありませんでした。神殿は男性と女性の入れる場所が制限されています。そうではなく、命の水のほとばしり出る井戸のそばで、集会が行われました。イエス様もこう言いました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)命の水のところに集まることです。それは、この今日の礼拝かも知れません。

しかも、人々は「一人の人のようになった」とあります。ただ、烏合の衆のように集まるのではなく、またデモをする群衆のように集まるのではなく、たくさんの人はいますが、皆同じ気持ち、一つの思いになって、またそれぞれの奉仕分担を一人一人が担当しつつ、整然と統制が取れた一人の人間の体のように集まったのです。

そして民は、祭司エズラに律法の巻物を持って来させ、朗読させました。そして、明け方の六時から正午まで六時間、聖書を交代で読んだのです。人々は、律法が読み上げられ、説明される間、立ったままで真剣に耳を傾けていました。3節に「彼(エズラ)は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達したものに向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。」とあります。まず集まることです。

2.礼拝する

次に神を礼拝しました。会場の前の方に講壇が用意され、そこに、エズラを真ん中にして、左右に六人ずつ長老が立ちました。みんなから、エズラと12人の長老の顔が見えました。エズラは真ん中の少し高い壇の上に立っていました。そして、会衆が見守る中で、エズラがおもむろに律法の書を開くと、一同が立ち上がりました。そしてエズラが、神をたたえて「ハレルヤ!」と叫ぶと、会衆も両手を挙げて「アーメン、アーメン。」と応えて、ひざまずいて、顔を地面に伏せて、主を礼拝しました。

民は一体となって集まり、まず主の御名を賛美し、主の前にひざまずいて主を礼拝し、ほめたたえました。これは大事なことです。まず主を覚えて感謝と賛美をもって礼拝することです。主の前にひれ伏して、主を心からあがめ讃美することです。これがまず、最初になされることです。

ですから、今日の礼拝でもまず賛美を捧げました。また、教会学校の前でも主に賛美の歌を捧げます。それから今日の礼拝が始まるわけです。スモールグループでも、まず主に賛美を捧げ、感謝の祈りを捧げて礼拝・ワーシップをしてから御言葉を聞きます。それはまず、主が賛美の上に座して下さるお方ですから、主の御臨在を仰ぐということです。

3.御言葉を朗読、翻訳、意味を説明し、理解する

三番目に、最も大事なことですが、律法の書を朗読しながら説明をしました。

A)御言葉の朗読、翻訳、説明、理解

祭司エズラ一人では、6時間も連続して説教することはできませんから、13人のレビ人(神殿に仕える役人)が交代で、律法の書について翻訳をし、その意味を説き明かし、説明をしてくれました。このレビ人の働きによって、会衆は、御言葉の意味が解り、理解をすることができたのです。これが、今日、わたしがこうして旧約聖書について翻訳し、意味を明らかにし説き明かして説明をしていることです。まさに、この説教のようなことが13人のレビ人によってなされたのです。

8節に「彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。」とあります。この時、あちこちに捕囚されていた人々が集まって来たのですから、いきなりヘブライ語では解らなかったと思います。いろんな国の言葉に翻訳されたのではないでしょうか。聖書が、多くの国の言葉に翻訳されているように、その国の人にわかるように翻訳されました。(ペンテコステの時のように、世界各国の言語に翻訳されて弟子たちが語り出しました。使徒言行録2:1~13)

しかし、翻訳しただけでは、何を書いているのかその意味が解りません。今日の説教題の「主を喜ぶことが力の源です。」と言われても、どういうことですかと首をかしげる人がいるかもしれません。そういう人のために聖書の言葉は説明されなければならないのです。今、わたしが話しているのが説明です。説教者として神の言葉についての説明責任があります。そのためには、言語のヘブライ語を調べてみたり、その意味を解釈したり、聴く人にわかるように説明しなければなりません。その御言葉の奉仕の働きを皆さんから委託されて、説教者としてここに立っております。わたしは、この働きのために教会での仕事の大部分を使っています。

そして、レビ人の説明を聞いていた会衆は、その御言葉の意味が解りました。理解したのです。どんなに自分たちが今まで、神を神とせず、神に背を向けていたか、そのために神の懲らしめを受けて遠くバビロンまで追放された。でも今こうして、再び故郷に戻って来て、神の都エルサレムと神殿を再建することができた。それは一重に神の恵みと憐れみ以外の何物でもない。イスラエルの神は我々を決して見捨てなかった。その証拠に、今こうしてかつてのように、このシオンの丘で主を礼拝する事ができ、神の御言葉を聞くことができたのだから。彼らは感極まって、こみ上げる涙とむせぶような声で体を震わせながら、真剣に一語一語、律法の朗読に耳を傾けました。

B)主を喜ぶことが、力の源です。

感極まって、泣いている民に対して総督ネヘミヤと祭司エズラは、こう言って励ましました。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。・・・言って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分けてやりなさい。今日は、われらの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力である。・・・静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」(8:9~11)

おそらくイスラエルの民は、このすばらしい礼拝の時を迎えて、今までの苦しかったことや辛かったことが、頭の中に走馬灯のように浮かんできたと思います。いかに自分たちが、神様の教えと律法から遠くかけ離れた生活をしていたのか、そのせいで、長い間他国の人々から嘲られバカにされながら辛いみじめな生活をしてきたか。しかし今、彼らは、この神の御言葉を聞いて、そのような者にも関わらず、主は憐れみをもってエルサレムの神殿と町を再建して下さった。主の恵みと慈しみが解ったのです。律法の意味を悟ったのです。そして、自分たちの罪、先祖が犯してきた数々の罪を示され、心が動揺し会場がざわめきました。

そういう彼らに、ネヘミヤとエズラとレビ人が、「静かにしなさい。恐れることはない。悲しんではならない。喜びなさい。良い肉を思い切り食べ、甘いものを飲みなさい。今日は悲しみの日ではなく、祝いの日です。喜びの日です。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力である。」と呼びかけたのです。
自分の過去の罪にいつまでもこだわっていてはいけない、昔の苦しかったことにいつまでも留まってはいけない。主が勝利されたのだから、今は喜ぼうではないか。これからは救いを成し遂げて下さる主を仰ぎ望んで、この方だけを見上げて、力の限り讃美し感謝を持って仕えて行こうと民を励ましました。

私たちの力の源泉はここにあります。どんなことがあっても神様を喜ぶことです。パウロは「患難をも喜ぶ」(ローマ5:3)といい、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)といいました。喜びは主から来ます。毎朝、主の御言葉の前に立ち祈ることから始まります。クリスチャンはどんな時でもどんな事でも喜ぶ者です。いつも喜んでいなさい。すべてのことに感謝しなさいとあります。

4.分かち合い

イスラエルの民は、御言葉を聞いた後、何をしたかと言いますと、御言葉の分かち合いをしました。12節に「民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、供えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。」とあります。御言葉に教えられたことを、家に帰ってから皆で分かち合いました。するとそこで、また喜びがわき起こったのです。これが、分かち合いです。御言葉の伝道と証しです。自分だけのよろこびにしないで、誰かほかの人に伝えたのです。

主を喜ぶ人は、どんなんことでも隠して心にしまっておかずに、誰かに分かち合います。いやなこと辛いことはそのことによって、みんなが重荷を負って下さって軽くしてくださいます。また、嬉しいことはさらに喜びが増えて来るでしょう。これが分かち合いの力です。彼らは、家に帰ってもう一回みんなと御言葉に恵みを分かち合いました。

先日も一人の方が、自分の恥ずかしいこと辛いことを、やっと皆さんの前に打ち明けて話して下さいました。皆さんで一緒に祈りました。ご本人も少し心が楽になったということです。そして何よりも、神様がその祈りに応えて、その悩みや問題を喜びに代えて下さると信じます。これが分かち合いの力です。今は泣いたり嘆いたりする時ではありません。どんなことがっても主を喜びましょう。

5.御言葉の適用(さらに深く悟るために)

最後ですが、次の日に、会衆はどうしたかと言いますと、さらに律法の言葉を深く悟ろうとしました。13節にこうあります。「二日目に、すべての民の家長たちは、祭司、レビ人と共に書記官エズラのもとに集まり、律法の言葉を深く悟ろうとし、主がモーセによって授けられたこの律法の中にこう記されているのを見出した。」とあります。彼らは、律法をさらにもっと深く知り、その意味を悟ろうとして、あることに気がつきました。それは、仮庵の祭りを実際に行うことでした。彼らは、御言葉を聞いて喜ぶだけではなく、さらに御言葉の意味をもっと深く悟ろうとして、律法に記され規定されていた仮庵の祭りを、実際に行うことにしました。御言葉の適用です。

仮庵の祭りと言いますのは、あの苦しかった荒野の旅を思い起して、簡単な木や枝で造ったテントのようのところで過ごすという祭りです。かつての先祖の苦しかった信仰の旅を思い出し、神様の下さる天からのパンであるマナだけを食べて生活しようという気持ちを表した祭りです。聖書に書いてあることを、実際に行うことによって、更に御言葉の深い意味を悟ることができるのです。彼らは「最初の日から最後まで、毎日律法の書を朗読し、彼らは七日間にわたって祭りを行い、八日目には定めに従って終わりの集会を行った。」(8:18)とあります。実際に御言葉を実践することによって、さらに御言葉の意味を理解し、深く悟らせて下さいます。彼らは一週間御言葉を朗読して、掘立小屋の中で過ごしました。そしてもっと深く聖書の御言葉を悟ることができました。

6.罪の告白

このように御言葉を聞き、その意味を理解し、更に深く悟るために実生活に御言葉を適用しました。その結果、彼らに何が起きたかと言いますと、罪の克服だったのです。9:1から読んでみます。「その月の24日に、イスラエルの人々は集まって断食し、荒布をまとい、土をその身に振りかけた。イスラエルの血筋の者は異民族との関係を一切断ち、進み出て、自分たちの罪科と先祖の罪悪を告白した。彼らは自分の立場に立ち、その日の四分の一の時間は、彼らの神、主の律法の言葉を朗読して過ごし、他の四分の一の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。」(9:1~3)

主の恵みを覚え、主を喜び、感謝をささげ、御言葉の通りに実行し、生活に適用してゆく時に、自分たちの罪を認め、罪から離れる決心ができて来るのです。彼らは、あのソロモンの千人の妃がイスラエルに偶像を招いたことを認め、自分たちも異教の神々から身を清めるために、異民族との関係を一切断つ決心をしました。実際、中には、あのサンバラトと血縁関係を結んでいた祭司の血筋の者がいましたが、彼は異邦人の妻と離縁しなかったために追放されてしまいました。(ネヘミヤ13:28)

7.誓約

こうして、イスラエルの罪の告白に始まった宗教改革は、ただ単に、口で克服するだけではなく、それを誠実に実行することを約束させました。そのことが10章に書かれています。エズラ、ネヘミヤは、ただ単に神殿や城壁を修復しただけではなく、イスラエルの民の生活そのものを刷新しました。かつての形だけの神殿中心の町ではなく、真に生ける神の民として、生活も心も全く新しく刷新されたのです。

こうしてイスラエルの民が、一人のようになって集まり、主を礼拝し、御言葉の説明を聞き、それを理解し共に喜ぶ、そして御言葉の恵みを共に分かち合い証をする。更に深く御言葉を悟るために実生活に適用しました。その上で、数々の自分と先祖の罪を告白し、罪から離れ、二度と過ちを繰り返さないことを約束したのです。こうして、真の神の都エルサレムが甦ったのでした。彼らのこの神殿再建の力は、御言葉から来る神に対する感謝と喜びに由来するものでした。私たちも、御言葉を聞き、御言葉を求め、これを理解し、実践して、常に喜びをもって仕えて行く者となりたいと願っています。     (岡田久)

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