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主はわが牧者 (詩編23・1~6)

メッセージ

2010年8月1日富里教会
「主はわが牧者」
(詩編23:1~6)

1.緑の牧場、憩いのみぎわ(汀)に伴われる

今日の説教題を「主はわが牧者」とさせていただきましたが、この一番最初の言葉「主はわが牧者」という言葉が、この詩全体のテーマになっているような気がします。私は牧師ですけれども、私の本当の牧者がいる、生涯に渡って、私を助け導いて下さったお方がおられるということです。これはすばらしいことです。このお方に、45年間、助け養われ導かれて今日まで歩んでくることができました。

まず最初に、青年期、御言葉によって豊かに成長する時期についてお話したいと思います。私は、この新共同訳の訳よりも、前の口語訳の聖書で覚えておりますが、そちらの方が少し文学的な表現になっていますので、そちらの言葉でもう一度、読ませていただきます。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。」
(詩編23:1~2)

新共同訳では、「青草の原、憩いの水のほとり」となっていますが、口語訳では「緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」となっています。日本語の美しさが出ている訳です。「緑の牧場といこいのみぎわ」です。「青草の原」よりは「緑の牧場」の方が、イメージとして浮かんできます。また、「水のほとり」という言葉よりは「みぎわ」という美しい日本語があります。水際という意味ですね。でも、とても美しい響きをもった言葉ではありませんか。

御存知のとおり、パレスチナ地方は、千葉県と違って、緑も水もない砂漠だけの土地です。羊飼いは、緑の牧草と井戸水を求めて、砂漠から野原、時には山岳地帯を、羊の群れを率いて旅をしなければなりません。それは本当に大変な旅であり、仕事です。羊は、飼い主に従順でおとなしい家畜ですが、その反面、道に迷いやすい家畜であるとも言われています。ですから、神を忘れ、道に迷ってしまったイスラエルの民や、また弱さを持った私たちクリスチャンの姿に重ね合わせているのではないでしょうか。道に迷うことは、牧草と水にありつけないと言うことですから、それは死を意味します。羊は、羊飼いなしでは生きてゆくことはできません。

でもイエス様は、そういう道に迷い、群れを離れてしまいやすい私たちを、一人一人覚えて下さり、緑の牧場といこいの水のほとりへと、いつも導いて下さり、養っていて下さいます。私も、毎朝、早く起きて、この教会の緑の芝生の上にイスを出し、デボーションの時を持っています。本当にこの教会の芝生の上に座っていて、森を見ながら神様への思いを深くすることができます。今は、この時間が至福の時です。イエス様が私をこうして毎日、青草の上で養ってくださることを感謝します。そして、「わたしたちの魂を生き返らせてくださって、正しい道に導いて下さるお方です。」(23:3)まことの羊飼いであるイエス様に守られ、緑の牧場でのんびりと青草を食べている羊の群れ、それが私たちの教会の姿ではないでしょうか。

2. 死の陰の谷を歩むとも

でも人生、順風満帆な時だけではありません。時には嵐の時もあります。いや、それよりも、この詩編23篇がクリスチャンの人生を表わしているならば、私たちは、「死の陰の谷」を歩むような時もあります。突然に、降って湧いたように災いが襲ってくることもあります。そういう「真暗闇の死の谷」を強いて、歩かされるような時もあります。

それが次の4節の御言葉です。
「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」

でもそういう時こそ、主が共にいてくださることが、更に強く実感できるのではないでしょうか。先週、詩編の22編で「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という御言葉を学びました。神様の姿が見えず、真暗闇の中に一人ぽつんと見捨てられたような孤独の中で、神様に必死に助けを求める姿です。しかしやがて、その訴えの祈りが讃美の祈りへと変わってゆきました。これは、主がその試練を通して、私たちを訓練し、いっそう神への信頼を、確かなものとすることができるようにして下さったからです。

誰もいないと思っていた、あの真暗闇の中に、死を覚悟しなければならないような絶体絶命の中にも、主は確かに私と共にいてくださったことが、解ったからです。枯れたような谷底にも水が流れていた、真暗な谷の底に一輪の真っ白なゆりの花が咲いていた。谷川の水、谷川のゆり、神様の救いの御手を表わしています。

この4~5節では主語が、「私」になっています。この私を訓練してくれるのは、神様の鞭と杖でした。この試練の中で、自分が傷を受けたことも、それは神様の愛の鞭だったのです。また、神様の愛の杖だったのです。「私」という自我が打ち砕かれるために、死の谷を強いて通らせられる時もあるかもしれません。私たちは時には、そのような道を通らなければ、自分の罪と過ちに気が付かないことがあります。

また、もう一つの災は、自分を迫害する者と出合う時です。世の中にはいろんな人がいます。全部が全部良い人ではありません。私を苦しめ迫害し、陥れようとする人にも出会います。周りを囲まれ、罠を仕掛けられ、絶体絶命の場面に直面することもあるでしょう。

それが、5節です。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えて下さる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。」
普通でしたら、周りを敵に囲まれ、攻撃され、夜も眠れなくなります。気が変になって発狂してしまうかも知れません。でも、どんなに敵が周りに増え、罠を仕掛けられても、神様はその敵の面前で、食卓を整えて宴会を開いて下さり、頭に祝福の香油を注いで下さる。そして心を喜びで満して下さいます。どんな危機に直面しても、主は必ず共にいてくださいます。祝福と喜びで、私たちの心を満たして下さいます。

神様はいたずらに、私たちを災いや試練に会わせるようなことなさいません。人生の苦しみを通して、真暗闇のような時期を通して、わたしたちの信仰を強め、時には、鞭と杖をもって厳しく懲らしめて下さいます。わたしたちの心をしっかりと主に向くようにしてくださいます。そして必ず、私たちを守って下さり、必ず正しい道へと導いて下さるのです。必ずです。苦しみを通して、悩みを通して、失敗を通して出なければ見えてこない希望の道があるからです。

ローマ書5:3~5に「それだけでなく、艱難をも喜んでいる。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、私たちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」

3. 主の家に住む

そして今ようやく、主の目的である最終の場所に私を導いて下さいました。それが、6節の「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」牧者である主は、私を、主の家に導いて下さり、生きている限り一生涯、そこにとどまるようにしてくださいました。

「主の家」それは、神様といつも共にいる幸いな場所です。神の中に存在し、神と共に一日中いて、神様のすばらしさを感謝し、その御業をほめたたえる場所です。それはどこでしょうか。私は、それは祈りの家だと思います。もちろん、今までも祈ってきました。でも、苦しみと死の蔭の谷を通されることによって、さらに祈りの確かさ、すばらしさを教えられました。

主の家、それは別の言葉でいえば、祈りの家ではないかと思います。人生いろいろあった、でも最後には神様のふところに入って、神様の愛の豊かな御臨在の中で、神の祝福と愛と恵みを覚えつつ、神をあがめ、神を讃え、神に感謝する日々を過ごすことです。私たちが生きている限り、「神様の恵みと慈しみが私の後を追って来る」と言っています。自分から求めるのではなくて、神様の恵みの方が、私の後を追って来るというのです。なんとすばらしい人生ではないですか。羊飼いである主は、私たちを、最終的にこの主の家に導いて下さろうとしているのです。ハレルヤ! ハレルヤ!

生涯、この主の家に宿り、そこに留まり心から主を讃美しましょう。今朝、歌った讃美歌にあるように。
「ただ主を崇めて、ただ主に仕えん。
 ただ主を頼りて、ただ主を仰がん。
 讃えよただ主を、主は救い主、
 聖め主、いやし主、王の王、主の主。」(聖歌520)

                                       (岡田 久)

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