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主はあなたを見守る方 (詩編121:1~8)

メッセージ
2019年10月13日富里キリスト教会
「主はあなたを見守る方」
(詩編121:1~8)
1.わが助けは主のもとから必ず来る

これは巡礼の詩と言われていますが、当時はエルサレムの神殿に礼拝に行くときに歌った詩と言われています。当時聖地エルサレムへの旅は、誰でもあこがれる旅でした。又ユダヤ人であれば、何回か神殿に礼拝することが習慣になっていました。しかし、その道中は、異教徒の嫌がらせや妨害、一人旅の場合には盗賊や追いはぎに襲われることもありました。又獣に襲われることもありました。ですからこのエルサレム神殿への旅は、まさしく命がけだったようです。

以前NHKの番組で、「世界の少数民族サマリヤ人」の特集がありました。一年に一回イスラエルの各地から、サマリヤの聖地ゲリジム山に礼拝に来る人々がおります。ところが聖地ゲリジム山に行くまでに、ユダヤ人の妨害や嫌がらせ発砲を受けるということで、巡礼のバスには防弾の鉄板を貼ったバスが使われているということでした。まさにサマリヤ人にとって、聖地ゲリジム山への巡礼は命がけだったのです。良きサマリヤ人のたとえ話にも出てくるように、旅の途中で強盗に襲われて着ぐるみ脱がされ、瀕死の状態になるまで暴行を受ける人もありました。

ですから巡礼の旅は、危険がいっぱいでした。巡礼に行って無事帰って来れるかどうか保証がなかったのです。ですから、団体で護衛もつけながらの命がけの旅でした。山は危険な場所です。感傷に浸るような場所ではありませんでした。しかしその危険な場所を目の前にして、必ず私を助ける方はおられるという信仰が、巡礼者には求められていたのです。今回の台風のように、もう理屈抜きで、神様に守ってもらえるかどうか、それとも途中で危険にさらされて命を落とすかの賭けのような心境で出かけたのです。でも目の前の危険と困難の山の彼方に、必ず天地万物の造り主なる主がおられ、わたしの助け守って下さるという告白をしています。

2.まどろむことも眠ることもない主

主はわたしたちを見守っていてくださるお方です。「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。身よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。」(121:3~4)これは、主はわたしたちの心と魂を見守っていてくださるということではないでしょうか。ただ単に、外敵から守るだけではなく、心の中にあるゆるみやすきを狙ってサタンが攻撃してくることもあります。

こどもでもお人形さんや食べ物には弱いです。つい見知らぬ人でもついて行ってしまいます。大人でもそうです。旅に出た解放感で、つい羽目を外してしまって、とんでもない痛い目に会うこともあるのではないでしょうか。足がよろめくという言葉は、まさにしく誘惑に会ってよろめいてしまい、道を誤ってしまうことです。わたしたちはつい、疲れたり、欲しいものを目の前に出されると、それに飛びついてしまいます。信仰の目が眠ってしまっている状態です。イエス様は言いました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(マタイ26:41)心は信仰の炎で燃えていても、肉体は誘惑に弱いのです。ついまどろんでしまいます。

でも主はどんな時にでも、決してまどろむことも眠ることもせずに、常に目を開いて私たちの心を見守っていてくださるお方です。英語ではhe will neither slumber nor sleep となっています。スランバーというのは、うつらうつらするということです。気持ちはあるのです、心も燃えているのです。しかし肉体が弱いために、ついうっかりスランバーまどろんでしまうのです。あるいは完全にぐっすり寝込んでしまうことはないでしょうか。ゲッセマネの園でも、弟子たちは、連日の強行軍ですっかり疲れ果てて眠ってしまいました。誰もイエス様と一緒に目を覚まして祈ってくれる弟子はいませんでした。仕方がないですね、まだ信仰に入ってから3年しかたっていませんから、そこまで要求する方が無理があるかもしれません。

私達は信仰を持っています、また聖霊に満たされて祈りたい、でも時には疲れてしまったり、睡魔に襲われて、つい祈りを忘れてしまうことはないでしょうか。でも主は決してまどろむことなく、眠ることもなく、いつもしっかりと目を覚まして私たちのことを見守っていてくださるのです。わたしたちは眠ってしまっても、主は起きているのです。わたしたちは道を外れるようなことがありましても、主は決して眠ってしまうのではなく起きて見守っておられるのです。そしてサタンの攻撃からわたしたちの心と信仰を守って下さっているのです。

3.陰となり、常に右にいます方

「主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことはなく、夜、月もあなたを撃つことはない。」(121:5~6)
これは明らかに、外敵からわたしたちを守って下さるお方だということです。太陽が打つということは、これは明らかに砂漠の中の旅ですから、熱中症の危険です。40度以上もあるなかを歩くのですから、まさに死の行軍です。その太陽の熱から、神様は影となって守り覆ってくださるお方だということです。また夜は夜で、月の明かりは旅人を照らして盗賊に見つけやすくします。ですから太陽も月も、旅をする者にとっては死の危険が付きまとうものなのです。

その死の危険から神様は、陰となって守って下さる、またわたしたちの右にいて支えて下さるお方です。右側は権威のある場所ですから、権威をもって外敵からわたしたちの体を守って下さるお方だということです。「アパルーム」に次のようなあかしが載っておりました。ベトナム戦争で、前線のアメリカ兵が、今晩北ベトナム軍のテトの大攻勢があるという情報を耳にしました。大挙してきた北ベトナム軍と解放戦線の部隊が、アメリカ軍の前線基地に総攻撃を仕掛けるというのです。その証を書いたアメリカ兵は、今晩が最後の夜かもしれないと覚悟をしたそうです。

その時に思い出した御言葉が、この「主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」という御言葉で、このみ言葉を信じて戦いに臨みました。そしてその夜は北ベトナムの激しい攻撃に会い、部隊の殆どが壊滅的な打撃を受けました。しかし明け方、彼が目にした光景は、多くのベトナム兵やアメリカ兵の死体が、自分の右にも左にも転がっている戦場で、ついに自分だけは奇跡的に生き残ったというのです。このことから主が自分の覆いとなって下さり、わたしの右にいて下さり、敵の手から守って下さったということを確信したというのです。主はわたしたちを覆う陰となって下さり、あらゆる危険から守ってくださいます。そして、わたしたちの右にいて下さり、敵の手からも守って下さるお方なのです。

4.出発も帰りも守られる主

最後に、7節からの御言葉です。
「主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今もそしてとこしえに。」(121:7~8)
ここでは、この旅の安全が約束されています。そこに「すべての災い」とありますように、全部の災いからわたしたちを遠ざけて下さるということです。そしてここでは魂を見守ってくださるようにとなっていますように、わたしたちの魂を守って下さるのです。

災いを遠ざけてとありますから、災いはあることはあるのです。でもその災いからは遠ざけて下さるということです。試練や苦難のない人生はないと思います。
災いや試練に会うことは会うが、それを遠ざけて下さるというのです。神様はそのような災いを通して、わたしたちが本当に神様に頼っているのかどうかを試されているのではないでしょうか。

皆さんもご存知のヨブという人は、誰もが経験したことのないような災いを経験しました。しかし、その災いはサタンが彼を試したものでした。ヨブは財産があり、家族に恵まれているから信じているのだ、それらを全部失うという不幸と災いがやってくれば、彼は神様を捨てますよとサタンは神に言いました。そして、神様が試すことを許したのでした。あまりの災難続きに、ヨブの妻は、「あなたいつまで義人ぶっているの、こんなにわたしたちをひどい目に合わせる神なんて、信じられないわ。こんなんじゃ神を呪って死んだほうがましよ。」と言ってヨブをけしかけました。

でも彼はどこまでも神を信頼し、信じて信仰を捨てることはありませんでした。必ず主が守って下さる、わたしたちの信仰生活を最後の最後まで、守り導いてくださるという確信を捨てませんでした。たとえ、自分の願いが叶わなくても、神を呪って信仰から離れるようなことはありませんでした。主は必ず私たちの信仰生活の最初と最後まで守って下さるお方です。わたしが家から出て行く時も祝福の内に守って下さる。そして無事に目的を果たして帰ってくるという約束です。「あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。」神様はわたしの入院する日もまた退院して帰ってくる時も、ちゃんと見守ってくださるのだということです。

そしてこの神様の御守りは、その時だけではありません。入院している時だけではなく、これからも永遠に共にいて下さり、わたしたちを見守っていてくださるお方だということです。わたしたちを助けて下さるお方は、天地を造られた主のもとからやって来るのです。諦めてはいけません。又恐れ怖がってはいけません。主は今も共にいて下さいます。そしてあらゆる災いからわたしたちを守って下さり、見守っていてくださるお方なのです。そしていつも私たちを見ていて下さるのです。

たとえ屋根が飛んでも、保険で前よりもよくなるように修理してくださいます。そのような工事の人たちを、神様は高松姉を通して与えて下さいました。主はわたしたちの必要を天から見下ろしてくださっています。目を天に上げて主を見上げるならば、主はその求めに答えて下さるお方です。お母さんが運動会で、わが子の一挙手一投足を、目を見離さずに見守っていてくださるように、主なる神様は、わたしたちをまどろむことなくまた眠ることなく見守っていてくださるのです。このお方に心か感謝をささげ、御名を賛美してまいりましょう。
(岡田 久)

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