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主の霊の存在するところに自由がある (Ⅱコリント3:1~13)

メッセージ
2018年6月3日富里キリスト教会

「主の霊の存在するところに自由がある」
                  (Ⅱコリント3:1~13)

1.私たちはキリストの手紙

「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かかれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(Ⅱコリント3:1~3)

パウロに反対する者たちは、今度は何を持ち出してきたのかと言いますと、あいつは偽物の伝道者ではないか、本当にあのペテロたちと同じ使徒なのだろうかという疑念を呼び起こしていたのでした。確かに、パウロは生前のイエスと出会ったことがありません。一緒に生活したこともありません。そこでユダヤ主義者たちは、パウロの使徒としての証明を求めたのでした。お前はあのエルサレムのペテロやヤコブと言われるイエスの直弟子の証明書、推薦状を持っているのかと言ってきたのです。これに対してパウロは、自分には推薦状などないが、しいて言うならば、あなたがたコリントの信徒たちがわたしの推薦状ですと言っています。

Paul was accused by Jewishist that he is not true apostle and he had not been with Jesus. But Paul insisted that true proof of his apostleship is the Corinthian church members itself. He said you yourselves are our letter, written on our heart, known and read by everybody and written not with ink but with the Spirit of the living God,
not on the tablets of stone but tablets of human hearts. I had been preached at Tomisato church through my sermons for ten years. So you are my letters written by the Spirit on the human hearts. And your life of faith is showing my certification of pastor.

パウロは「わたしたちの推薦状は、あなたがたコリントの信徒の皆さんです。」と言っています。どうしてかと言いますと、パウロは「あなたがたは、神の霊によって、心の板に書かれた手紙だからです」。つまり、わたしを真の伝道者として証明し、わたし自身を推薦してくれるのは、富里教会の皆さん方の信仰生活そのものなのだということです。信徒の皆さんがどういう信仰生活を送っているのかを見れば、その人を育てた伝道者が誰であるのか、そしてどんな伝道と教育訓練をしたのかが証明されるというのです。

2.文字は人を殺すが、霊は人を生かす

ここでパウロは3:6でこう言っています。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えて下さいました。文字は人を殺しますが、霊は人を生かします。」と言っています。少し興味深い言葉ですね。「文字は人を殺し、霊は人を生かす」ということばです。英語でも「the letter kills but the spirit gives life」となっています。「文字は人を殺し、霊は人を生かす」という、気になる言葉です。

この3:6を現代訳聖書では分かりやすくこう訳しています。「神はわたしたちを新約の働き人とさせてくださった。それは律法を守るように教える働きではなく、御霊の神によって人を生まれ変わらせる働きである。律法を守ろうとしても守れない人間には死があるだけだが、御霊の神は人に命を与えて下さる。」(尾山礼二現代訳3:6)

Paul said that God has made us competent as ministers of a new covenant -not of the letter but of the Spirit; for the letter kills, but the Spirit gives life. This is an interesting word that the letter kills but the Spirit gives life. This means that our ministries are not to teach and keep the law but our ministries to make a difference our life of faith. There is one way to death for those who will try to keep the law but will be fail to the end. But the Spirit of God gives him the life unconditionally when they turn to the God. Moreover Paul says no one will be righteous by completing the law rather through the law we become conscious of sin, I found that the very commandment that was intended to bring life actually brought death. (Romans 3:20, 7:10)
This is the purpose of the law. But when we turn to the Lord, we will be free and our sins will be redeemed by the blood of Jesus. This is the work of the Holy Spirit.

モーセがシナイ山で、石に刻んだ十戒を神から受けたのが、神の律法であり、その働きは死に仕える務めを帯びていました。なぜかと言いますと、パウロは十戒に示された律法の働きとその目的について、ローマ書でこう述べています。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」「そして命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。」(ローマ3:20、7:10)と。

これが律法の目的です。すべての人は律法を守ろうと思っても守りきれないのです。かえって自分の義を立てて、他者を裁き、追い込んで死に至らしめるのです。そのことによってかえって律法を実行する者が、自分の罪に気づかされ、自分を死に定めてしまう結果となってしまいます。これが「文字は人を殺す」ということの意味です。こういう律法的な教会に行ったら大変です。毎回、会計報告の数字が違うと言って、喧々諤々の議論をしたり、ミスプリントを一字一句あげつらって批判の応酬です。ともかく過ちとか失敗が許せないのですから。それが律法の落とし穴です。

つまり、律法(法律)に基づいて、自分の義を貫くということは、逆に自分の首も絞めて、自分も死に至らしめてしまうことがあるということです。これが律法の世界です。律法はすべての人を罪に定めるために、神から人間に与えられたものです。「文字は人を罪に定め、死に仕えるという栄光を持っている」(Ⅱコリント3:7、9)とパウロは言っています。でも律法とは違い、霊に仕える務めはそうではなく、逆に人の罪を赦し、人を救い、生かすものであると言っています。この霊の働きは文字の働きよりも、何倍も大きな栄光の輝きを持っているのです。

エルサレムから来たユダヤ主義者たち、そして律法の優位を強調する推薦状付きの指導者たちは、何とかしてパウロをコリント教会から退けようとしました。パウロは資格のない使徒、アルバイトをしながら伝道しているつまらない伝道者だと批判しました。そしてパウロの使徒性を否定し、コリント教会の信徒を自分たちの方に引きずり込もうとしていました。それでパウロは、律法と福音の比較、律法という古い契約に仕えるものと福音という新しい契約に仕えるものとの比較をして、キリストの福音の優位性を説いたのです。彼らユダヤ主義者たちの顔には、あのモーセが消え去る時にその恥を隠すために架けた覆いのベールが、いまだに取り除かれずにかけられたままであって、彼らの霊的な目が開かれていないと批判しています。そしてこのユダヤ教的律法的なクリスチャンも、心から悔い改めて主に立ち返ることを訴えたのがこの3章のです。

3.主に向き直れば

「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられてゆきます。これは主の霊の働きによることです。」(3:15~18)

律法的な人は、いまだに顔に覆いがかけられているというのです。自由にされていません。律法と掟にがんじがらめに縛られています。絶対に真実を言うまい、自分の非を認めまい、自分の罪を死んでも口にするまいと誓っているようなものです。つまり、自分に非を認めない人、自分に罪がないという人、自分の欠点や弱さや障害を隠している人は、この律法の世界にまだいる人です。その人にとっては、欠点や失敗、障害、不完全というものが罪なのです。そういう人はまだ、顔に覆いが掛けられています。解放されていません。自由がありません。自由な人というのは、自分の非を素直に認める人です。そしてそのことを公に告白する人です。恥やそしりや非難を覚悟で、正直にありのままを言う人です。この人が自由にされています。これは信仰の世界でも同じことです。

主に顔を向ければ、覆いが取り除かれます。サタンは真実を覆い隠して、自分の手下になるようにそそのかしました。しかし彼は、主の方に向き直ったのです。先ほどの子供メッセージではないですが、どちらを向くかです。もし主に向き直るならば、そこには自由があります、解放があります、救いもあります。希望もあります。皆さんはどうされますか、サタンの誘惑にそそのかされて、真理に顔を向けることを拒みますか。それとも素直に真理に顔を向けますか。真理とはイエス・キリストです。神がその一人子を十字架につけて、ご自身の愛を表した、ここに真理があります。

Even if we committed the sins when we turn to the Lord the Spirit of the Lord will make us free. This is the law of the Holy Spirit like a law of gravitation. The holy Spirit is working wherever we are, only to turn back to Jesus and look up the cross and confront our sins and face to our sins. This is the only way to overcome our sins. We cannot save ourselves by our power and our good deed, this is God only that can save us from our sins. Paul says that whenever anyone turns to the Lord, the vail is taken away. Now the Lord is the Spirit and where the Spirit of the Lord is, there is freedom. (ⅡCorin.3:16-17)

昔、荒野を旅したイスラエルの民が、神様に対してつぶやきました。水が欲しい、肉が食べたい、モーセなんか知らないと言って背き続けました。そうしましたら、神様が民の間に炎の蛇を送って人々をかませました。それは恐ろしい毒蛇で、火のような痛みを起こして人々は次々と死んでゆきました。モーセが神様にとりなして、何とかこれ以上死人が出ないようにしてくださいと祈ったら、神様はモーセに竿の上に青銅の蛇を掲げて、それを見上げるようにしなさいといいました。そしてかまれて苦しんでいる人々が、その場で目を上げて旗竿の青銅の蛇を見上げたとたん、痛みが取れいやされたのです。

「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」とあります。たとえ咬まれても、つまりたとえ罪を犯しても、その場で、自分の罪の化身である蛇を見上げると、痛みがいやされました。(民数記21:4~9)見上げるだけで、そこに癒しと赦しが与えられました。自分の罪と向き合うということです。そして自分の罪の身代わりにイエス・キリストは十字架に架かってくださったということを思い出すことです。今日も説教の後、自分の罪と向き合う主の晩餐式があります。これは神の霊の働きです

このコリント書でも「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」とパウロは言っています。主を見上げるだけでいいのです。するとそこに命と御霊の法則が働いて、自然と自由にされて自分の非をすべて打ち明けるようになります。これは霊の働きです。カウンセリングでも治療でもありません。御霊の法則です。しかも命の法則です。万有引力のように働く物理的な力が、そこに作用するのです。

主に顔を向ける時、わたしたちは御霊の力によって、主の栄光を映し出し、栄光から栄光へと変えられてゆきます。また命から命へと、恵みから恵へと信仰から信仰へと新しく造りかえられてゆくのです。これが命と御霊の法則のもとにある私たちの信仰生活ではないでしょうか。今日もこうして主の恵みのもとにやってきました。そして今私たちは主を仰いでいます。

これからイエス様の十字架の贖いを記念する主の晩餐式にあずかろうとしています。また日々の生活の中でも、まず主のもとに座って主を見上げる時間を生活の中心にしています。主に向き合う時、主を見上げる時、主の前にひざまずくとき、そこに聖霊様が働いて私たちを自由にしてくださいます。そして神の愛と恵みに満たして、罪から解放してくださいます。病も苦しみも悩みもすべてが、主にあって感謝と讃美へと変えられて行く時です。自分自身の闇の部分、肉の部分、罪そのもとと向き合う時として、聖霊様の助けをいただきながら、この後の主の晩餐式に臨んでまいりましょう。 

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