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主の過ぎ越し (出エジプト12:21~28)

メッセージ
2020年8月30日富里キリスト教会
「主の過ぎ越し」(2020)
(出エジプト記12:21~28)
1.子羊の血を柱に塗る

「モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。『さあ、家族ごとに羊を取り、過ぎ越しの犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝まで誰も家の入口から出てはならない。』」(12:21~22)

頑ななエジプトの王に対する神の十番目の災いは、エジプト全土の初子、すなわち長男を、王の子供であれ奴隷の子供であれ、家畜の子であれ、すべての初子を死なせるということでした。(11:4~6)しかし、イスラエルの初子たちは守りました。そのためにイスラエルの家々では、傷のない一歳の雄の子羊か山羊を用意して、その月の10日に取り分けておいて、14日目にその子羊を屠るよう命じました。そしてその血を鉢にとり、ヒソプの枝をもって、各自の家の二本の柱と鴨居に子羊の血を塗ったのです。

その際には、子羊を解体しないで、頭、足がついたまま、内臓も取らないで火で焼いて食べなさいということでした。どのようにして食べるかという細かい規定が、12章後半の6~11節に書かれておりますのでそこを読んでみましょう。
「それは、この月の14日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、子羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過ぎ越しである。」(12:6~10)

これは過ぎ越しの祭りに関する具体的な規定ですが、その作業の一つ一つに意味があります。夕方に屠るとありますが、夕方は午後の3時から6時までを指しますので、ちょうどイエス様が十字架の上で息を引き取ったのが午後の3時でした。そしてヒソプの枝で、屠った子羊の血を、家の入口即ち玄関の二本の柱と鴨居に塗るのです。これは、どういう意味があるでしょうか。これは二本の柱と一本の鴨居を組み合わせると、ちょうど十字架の形になります。

つまり入り口の血は、イエスキリストの十字架の贖いの血を意味しています。ヒソプは清めに使う小さなほうきのような道具ですから、神の子羊イエス・キリストの血がわたしたちの罪を聖めるということになります。そしてこの罪を聖める血を見て、神の災いが通り過ぎるというのです。血が塗られたイスラエルの家だけ、罪赦され、滅ぼされず長男が助かる、そしてその家全体が救われるというのです。そして、入り口に血のついていない家の長男は皆、神に撃たれるのです。

長男を失うことはその家の血筋が絶たれることを意味します。これを神は、ユダヤの三大儀式の一つとして守るよう主は命じられました。災いが過ぎ越す、英語ではパスオーバー、「過ぎ越しの祭り」と言います。文字通り、災いが過ぎ越すというのです。ユダヤ人にとりましては、神の災いが通り過ぎて、長子が守られるという意味ですが、イエス・キリストの十字架の贖いの血潮を信じているわたしたちにとりましては、神の裁きが通り過ぎて裁かれないということを意味します。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じるものは裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネ3:16~18)ですからその夜は誰も家の中から出てはならないと戒めています。十字架の御許から離れてはいけないのです。今は過ぎ越しの時代です。今は過ぎ越しの夜です。入口に子羊の血が塗られていない家の長子の命が奪われます。一日も早く家の入口に、わたしたちの心の入り口にイエス・キリストの贖いの血を塗りましょう。手遅れにならないうちに。

主イエスご自身もこう言いました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネ6:53~54)ペテロもこう言っています。「あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、金銀のような朽ち果てるものにはよらず、傷や汚れのない子羊のような、キリストの尊い血によるのです。」(Ⅰペテロ1:18~19)

2.血を見るならば

12章13節には「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」とあります。また23節には「主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血をご覧になって、その入り口を過ぎ越される。」とあります。

神はその家の柱の血を見て、長子を撃つかどうか判断しました。血が塗られた縦と横の木です。すなわちそれは十字架のキリストの贖いの血を示しています。しかも完全な贖いの力を発揮することのできる血です。さて神はこの血に何を見られたのでしょうか。どうして子羊の血が、神の災いを過ぎ越させる力があったのでしょうか。わたしはその血には三つの効力があったと思います。
1) 罪の贖いの力
イスラエルの民にとりましては、子羊の血ですが、わたしたちにとりましては、神の子羊であるイエス・キリストの十字架の血潮を意味しています。罪を犯して、エジプトまで下って行き、そこで奴隷として重労働を課せられてしまいました。モーセとアロンが神の約束を伝え、共にこの奴隷の従属から脱出して、荒野に出て神を礼拝しようと訴えても、なかなか従順に従うとはせず、二の足を踏んでしまう弱い民でした。おまけに指導者のモーセとアロンに反発さえする始末です。

しかし神はそのような頑なな民に憐れみをかけ、彼らの罪の贖いのしるしとして鴨居に血を塗るようにと命じました。これはやがて来るべきキリストの十字架の贖いを意味しています。ローマ書の中に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じるもののために罪を償う供え物としてくださいました。」(ローマ3:23~25)

この血潮は、わたしたちの罪を贖うための供え物なのです。贖うという言葉は、償うとも言いますが、買い戻すという経済用語らしいです。借金のかたで、身を売られていたものを、かなりの金額をはたいて解放して自由の身にしてやることです。キリストの血には、わたしたちを罪の奴隷から解放して自由の身にしてやるという贖いの力があるのです。たとえわたしたちに罪がありましても、罪のないもの、義なるものとしてくださるのです。

2) 罪の清めの力
二番目には、この子羊の血には罪を清める力があるということです。神は聖なるお方ですから、汚れた物、悪しきものをそのままにはして置かれません。滅ぼされるお方です。律法によれば、いけにえの血はヒソプによって、人々や儀式に用いる器具にも振りかけられて、清められることになっていました。人々の罪を赦すためには、誰かの血が流されて、その罪人の身代わりにならなければ、罪の赦しは本来的にはないからでした。

ヘブライ9:13~14までと22節に次のような言葉があります。
「なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その実を清めるならば、まして、永遠の霊によって、御自身を傷のないものとして神に捧げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(9:13~14)「こうしてほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはあり得ないのです。」(9:22)

神の御子がわたしたちの罪のために身代わりになって、十字架に架けられ、その柱に血潮を流してくださったことによって、わたしたちキリストの血を受けるものはその罪が清められているのです。ですから神の目からは、わたしたちの罪を裁く理由はどこにもないのです。神はこの十字架の柱の血をご覧になるのですから。たとえわたしたちが神の選びから外れた異邦人でありましても、その心の入り口に、神の子羊の血潮が塗られているならば、神はわたしたちの中に災いを下される根拠を見つけることができないのです。わたしたちの行いや働きではなく、この血潮だけがわたしたちを清めて神の前に立たせてくださるのです。そしてどんな罪人でも、このキリストの十字架の故に、大胆に神の御前に近づいて、聖なる神の祭司として祈りをささげることさえできるのです。(エフェソ3:12)

3) 執り成しの力
そして最後にこの子羊の血には、神に対してわたしたちのために執り成してくださる力があるのです。主イエスは、十字架に架けられたときに、天のお父様に向かってこう言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)神の子羊である主イエスは、最後の最後に十字架の上から、天のお父様に向かって、わたしたちのための執り成しの祈りをして下さいました。イエスを十字架に架けようとしていたローマの兵士、周りを取り囲んでヤジを飛ばしている人々、逃げて行ってしまった弟子たち、裏切ったユダのためにも、最後の最後まで、天のお父様に執り成しの祈りをささげられたのです。

神の使いが剣をもって長子を撃とうとして家に入ろうとしても、入り口に血潮は力強く語ってくれるのです。「父よ、待って下さい、この家の者は罪人ですが、この玄関の子羊の血を見て赦してください。裁きを降さないで通り過ごしてください。」と語って下さっているのです。わたしが代わりにその罪の代価として自分の命を差し上げますから、このわたしの執り成しに免じて赦してくださいと語っているのではないでしょうか。「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない。」と言ったように、御子の血は、我々のために雄弁に神に向かって弁護し、執り成して下さっているのです。この柱の血は、雄弁にわたしたちの罪の贖いと清めと執り成しの声をあげてくださっているのです。それを聞いて、神の裁きは通り越してゆくのです。

3.過ぎ越しの食事の意味

1)贖いの儀式の成就

最後に、家の中での食事規定についてお話したいと思います。家の中では、頭も足も内臓も切り離さないで、子羊を丸ごとそのまま火で焼いて食べました。決して肉を生で食べたり、煮て食べてはいけないというのです。必ず火をじかに通さなければなりません。これはやはり、聖霊の炎でもって聖別された供え物であるということを意味しているのではないでしょうか。完全な備えもの、傷のない雄の子羊です。しかも焼く時には、解体しないで、そのまま丸ごと焼かなければなりません。これも完全な備えものという意味です。また、一つの体を食することによって、家族の一体感を表しています。

そしてその肉は翌日まで残しておいてはいけないというのです。余った肉は取っておいて、明日また食べようというのではなく、食べ切る必要がありました。残さずに完食することは、贖いの業の完成を意味しています。もし残ったならば、朝には全部それをきれいに焼却しなければなりません。これは、贖いの儀式が完全に完了したということです。食べ残しがあるということはまだ不完全なのです。

ともかく神の災いからわたしたちを守るために、純粋で完全ないけにえが捧げられなければなりませんでした。そしてその贖いの業が、完全に成し遂げられなければならないのです。もし不完全な傷のある余り物の子羊であったり、食べることのできない部分を残してしまうようなことがあれば、贖いの業が不完全、不十分だということになります。それは、あの芳一の耳に経文を書き忘れたのと同じことです。耳だけ書き残すような不完全は儀式、不十分な贖いの儀式では意味がないのです。

イエス様が最後に十字架の上で言った言葉を覚えているでしょうか。それは「成し遂げられた。」「すべてが完了した。」(ヨハネ19:30)という言葉です。神の子羊であるイエス・キリストの十字架上の血潮と引き裂かれた肉が、わたしたちの罪を贖う完全な神の供え物として捧げられたのです。そしてイエスの死をもって完了、成就したのです。そのことをあらかじめ示すために、神は過ぎ越しの食事の規定を細かく指示されました。神の贖いの業が完全に成し遂げられるためにです。神は、その家の柱と鴨居に塗られた子羊の血を見て、その家に災いを降すことを止められ通り過ぎられたのです。

もし、子羊の贖いための足を残したら、頭を残したら、その贖いの供え物は不完全、未消化ということになります。子羊の血潮とその肉の全部が、完全に消化されることによって贖いが完成、成就するのです。神の子羊キリストの血と肉は、完全にわたしたちを神の裁きと災い守って隠してくださるのです。手も足も耳も全部が清められているのです。

2)苦い食事

おそらくその晩は、エジプトの国のあちこちで、エジプト人の泣き叫ぶ声や悲鳴が聞こえたのではないでしょうか。イスラエルの人々は、じっと息を凝らしながら、黙々と過ぎ越しの羊の肉を食べていました。しかも、肉と一緒に酵母を入れないパンを、苦菜と一緒に食べていました。(12:8)苦菜には数種類の草がありますが、その中の一つにタンポポがあげられています。見るからに苦そうな草ですね。それを種なしつまり、イースト菌の入っていないパンと一緒に食べるのです。普通でしたら、ラム肉を焼いてパンを食べての楽しいジンギスカンバーベキューのような食事になるはずです。でも彼らは、その肉と一緒に苦いパンをかじりながら、黙々と肉を食べました。苦さをこらえながら。災いが通り過ぎるまで、じっと家の中にいて、その食事の材料や作法の意味をこどもたちに説明しながら食しました。

そこには、家族団らんの愛餐バーベキューという楽しい雰囲気は全くありません。むしろ、苦菜ですから、食べるたびに、自分の苦い罪の根を思い起こしながら、静かに深い反省の心と悔い改めをもって食事をしていたのではないでしょうか。キリストの十字架上の裂かれた肉と流された血の意味を思い浮かべながら、何ゆえ子羊の血が流されなければならなかったのかを考えながら、食していました。この儀式は形を変えて、今日の教会の主の晩餐式にまで続いています。誰も主の晩餐式を楽しい食事の時だとは思いません。むしろ、自分の心の中の苦い罪の根を思い起こしつつ、深い悔い改めを持って臨みます。ある意味では自分の罪と向き合う悲しくも、つらく、苦しい時となるかもしれません。それが、焼いた肉と苦菜を添えたパンの食卓です。

3)残りは焼却する

最後にこの過ぎ越しの出来事は、イスラエルの民を救うためだけのように思われがちですが、彼らが食べた後の子羊の骨や残った肉は、翌朝、家の外で焼却されました。これは、イエス・キリストの十字架が、町の外で行われたことと関連しています。これはキリストの贖い業は、決してイスラエルの民のためだけではなく、家の外にいる異邦人、エジプト人のためにも備えられているということを意味しています。焼却した灰は、彼ら異邦人にも、その罪を清める灰が残されていることを示しています。贖いの業は、全世界の罪のためになされたのです。

旧約聖書、律法の教えでは、家の中だけに神の救いが与えられたように思いがちですが、神の子羊であるキリストの十字架の死刑は、エルサレムの町の郊外、ゴルゴタの丘でなされました。これはご自分の救いがイスラエルの民だけではなく、そこを出て異邦人の世界にももたらされる贖いの業だということを示されたのです。「なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。それで、イエスもまた、ご自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に会われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。」(ヘブライ13:11~13)

神様はイスラエルだけではなく、エジプト人のためにも救いの道を備えておられたのです。たとえエジプト人でも、この神の災いを通して、数々の奇跡を見て、罪を悔い改めて神に立ち帰り、主に従う者の群れに入ることを願っていました。そのために、わたしたち罪贖われた者をこの世界に遣わされるのです。それが、「宿営の外に出て、イエスと共に恥も辱めを担い、主のもとに行こう」と言ったことの意味ではないでしょうか。

この罪に満ちた世界に出て行って、早く家々の入り口に、子羊の血を塗りなさい。神の災いと裁きが来る前に、子羊イエスの血を心の柱に塗り、主イエス・キリストを信じ受け入れなさい。今は過ぎ越しの時代です。今日は過ぎ越しの夜です。まだ遅くはありません。そのように世の人々に宣べ伝えなさいと、主はわたしたちを招いておられます。わたしたちも人々の罪の重荷を担いつつ、宿営の外に出て行って、十字架の血の贖いの福音を宣べ伝えましょう。(岡田 久)

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