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主の祭壇を築く (創世記12:8~13:4)

メッセージ
2018年7月8日富里キリスト教会
「主の祭壇を築く」
(創世記12:8~13:4)

This morning I would like to preach about the altar which Abram built.
Because the life of faith is how to built our altar in our daily life. We have called to be in front of the God then we will hear the voice of God and ask to the God in the name of Jesus. This vertical relationship between the God and us is the altar of the Lord. This is the start point
of the life of faith and goal.

1.最初の祭壇を築く

「アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。』アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望むところに天幕を張って、そこに主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。」(創世記12:6~8)

私たち人間は生きて行くことに必死です。夜遅くまで働いてきて、やっと一息ついてまた仕事に出かけてゆきます。アブラムも家族を抱え多くの家畜や召使を従えて、長い旅をしてカナンの地までやってきました。そしてそこのシケムの聖所のあった場所で、主はアブラムに現れてくださいました。信仰生活の中で、主がわたし達に現れてくださるということはなかなかありません。信じてはいるけれども、神様は目に見えませんから、だんだん信仰的にも薄れてきて元の生活に戻ってしまうこともあるかもしれません。

マンネリ化してしまいやすい私たちの信仰生活のために、神様は絶えず語りかけ励ましてくださっているのですが、わたし達の方の霊の目が見えなくなってしまっている時があります。信仰に入った当初は、ようしこれから祈って行くぞとか、聖書を毎日読むぞと決心はしても、やがて聖書も読まなくなり、祈りもしなくなることがあります。そういう弱さを持ったわたしたちですが、イエス様がいつも共にいて私たちのために執り成しくださっています。失敗しても罪を犯すようなことがありまして、自分の罪を告白して悔い改めるならば、どんな罪でも赦され、再出発することができるのです。これが主と共に生きる祝福された生活です。

そして主なる神への全き服従へと成長させてくださるのです。その訓練の日々がわたしたちの人生と言ってもいいかもしれません。信仰生活は祈りに始まり、祈りに終わると言っても過言ではありません。そして先週も言いましたが、神様の祝福は、何か幸せなことがあるということではなく、神様への徹底的な従順、服従の姿勢の中にあるということです。神様が自分に語りかけてくださり、自分がそれに聞き従うようになること。これが神の祝福であり、そういう生活こそ祝福された生活と言ってもいいのではないでしょうか。そのために信仰生活があり、訓練の時がわたしたちの日々の生活なのです。

At the first stage of faith we might be hard to read the Bible and pray,
but it may be more and more ignoring as we continue to live our faith. Abram met the famine at the first stage of his life of faith, then he forgot to built the God’s altar to pray and ask to God. He decided by himself to go to Egypt to save his households and advised his wife Sarai “say you are my sister, so that I will be treated well for your sake and my life will be spared because of you.” (12:13) this is the failure of his decision because he did not built the altar in the crisis he decided by himself according his own experience and knowledge and his will. But God called us to submit the word of God through the altar asking and hearing to God. This is the true blessings of God that I preached last week.

牧師になってから、「拡大する人生」という初心者向けのテキストを学んでいる時に、その冒頭にこう書いてありました「朝の静聴の時を持つために、①特別な時間と場所を決めましょう。②一貫性を持ちましょう。やったりやらなかったりということのないように。そうでなければあなたの信仰に対する真剣さが疑われます。③聖書と鉛筆とノートを用意して、主に向かいましょう。④祈りをもって聖書を読み、学んだことを自分の実生活に当てはめてみましょう。」こうしてようやく主の御名を呼び求める生活、祈りの祭壇を築く生活を始めることができるようになったのです。

2.忘れられた祈りの祭壇

「アブラムはさらに旅を続け、ネゲブ地方へ移った。その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。『あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、「この女はあの男の妻だ」と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくに違いない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。』」(12:9~13)

カナン地方に入って、そこで神様からこの地を与えるという言葉を聞いたにもかかわらず、そして、その場所に二か所も祭壇を築いたにもかかわらず、アブラムはさらに南の方へ下って行きました。どうしてでしょうか。おそらく約束の地には、カナン人が住んでいて、よそ者の自分たちには到底この地に定住することができないと思ったのではないでしょうか。そしてもっと人が住んでいない南の砂漠地方へと行きました。それがネゲブ地方です。ところがその地方に、飢饉が起こり多くの家畜にやる水もエサも手に入らなくなりました。

私たちが信仰生活に入って、やはり一番、最初に遭遇する問題は、経済上の問題です。仕事がうまくゆかなくなる、生活が厳しくなる、家のローンがある、子供教育費が必要だと、いろんな経済上の問題で教会から離れてしまうことがあります。誰でも経験することです。それでアブラムも、その地方の人々の習慣に従って、厳しいときのエジプト逃れに走りました。多くの人々が、生活上の困難から、エジプトに避難しました。エジプトはナイル川の恵みで、水が枯れることはなく、飢饉の時にも食べ物も飲み水もありました。

そこでアブラムがとった行動は、自分の妻サライを自分の妹だと称して、自分の命を守ることでした。それは、たとえエジプトの王様がサライの美しさに目をつけて自分の妻にしようとしても、自分の命も助かるし、逆に歓待してもらえると考えたからです。一族や財産を守るためには、自分の妻であっても、王に献上することもやむなしと考えました。当時は、この世的な知恵がまかり通っていたようです。案の定、サライは王の目に留まり、すぐに宮殿に召し入れられました。そしてアブラムには、羊や牛の群れ、ロバや奴隷までも王からの献上物として与えられました。表面的には大成功、まさに神様の祝福をいただいたような状態になりました。でも神様の祝福は、そういう表面的な経済的な幸福が神の祝福でしょうか。神様は人の心を見られます。そしてご自分の義しさのためにも、介入されました。

アブラムの心の中には、もちろん妻を手放したくはありませんでしたが、恐怖がありました。自分が殺されて、妻を奪われるという、そして、確かにサライはアブラムの異母兄弟ですから、妹だと言っても全くの嘘ではありませんでした。でも神様は、アブラムが神の祝福を受けたものとして、神様の所有物であり、神によって聖別された家族としての祝福を与えたのです。その神の聖別された家族であるということを忘れて、妻が汚され、姦淫の罪を犯すということは神の神聖さが赦しませんでした。そこで主なる神は、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせました。その神の介入によって、王は、サライが、アブラムの妹ではなく妻であることを知りました。そして、アブラムを責めましたが、王はアブラムを罰することはせず、かえって彼らに与えた財産はそのままにして、エジプトから立ち去るように命じました。

ここにも神の祝福の御業がなされました。本来ならば、神を信ぜず祭壇を築くこともなく、自らの自己保身を考え、罪を犯してしまったアブラムです。それにもかかわらず、神ご自身が介入することによって、かえって神様の御手によって財産が増え、妻も返していただいたのです。生活上の逆境、苦難の時にこそ、神の御手が働いて万事を益としてくださったのです。これが神の祝福です。逆境を祝福に変え、苦難を喜びに変えてくださるお方なのです。そのためにも、アブラムは神を呼び求めることが求められていたのです。このエジプト下りの時には、一度も祭壇のことは出て来ていません。こういう苦しい時こそ、危機の時こそ祭壇を築くべきではないでしょうか。

「神は愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるようにと共に働くということを、わたし達は知っています。」(ローマ8:6)との御言葉にありますとおり、たとえ苦難や試練の中にありましても、神様がすべてのことに働いて、全部プラスにしてくださるということです。ですから、どんな試練や苦難があっても恐れることなく、主の訓練と信じて進んでゆくことが大事ではないでしょうか。

By the worst and shameful advice of Abram to his wife, he is to commit adultery to the God. His wrong decision came from his fear of being killed and his self-protection idea. He forgot to pray and ask for God totally. Despite his unfaithful behavior, God has intervened in this incident. The Lord inflicted serious diseases on Pharaoh and his household because of Abram’s wife Sarai. The Lord save Abram and his wife Sarai from the sins of adultery and self-centered. This is the blessings of the Lord that always keeps us from the sins and gets off the wrong ways.

3.祈りの祭壇の回復

しかし、この恥ずべき不信仰な出来事を通して、彼は再び、最初に祭壇を築いた場所へと帰って行きました。いわば、信仰の原点に返ったのです。神の祭壇を築いて、必死に神に祈り求めた原点へと帰って行ったのです。わたしたちも信仰が亡くなりそうな時には、もう一度信仰の原点に返ることです。それは祈りの祭壇を築き直すということです。「アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイの間の、以前天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。」(13:1~4)皆さんの
信仰の原点はどこですか?あの時主が語ってくださった、わたしの目を開いてくださった、そこに立ち帰ることです。

彼はエジプトを出てから、再びカナンへ戻ってきて、以前祭壇を築いた場所まで来ました。それはベテルとアイの約3キロ位の狭い場所でした。西にベテルの町、東にアイの町を見渡せるような高い場所です。そこで再び主の祭壇を築いて、主の名を呼びました。何と呼びかけたのでしょうか。おそらく、生活上の危機を逃れるために、また自分の自己保身のために自分の最愛の妻を、人に差し出すような罪深い行為をしてしまったことを悔やみ、後悔したに違いありません。ここでの祭壇は、自分の罪の告白を伴った新しい意味での祭壇だったのではないでしょうか。罪の悔い改めの祭壇です。自分の弱さを認めて、主の御力だけにより頼む信仰です。

After the God’s intervention to the faithful journey of Abram, he came back to the Bethel through Negev where he had first built an altar, there Abram called on the name of the Lord. There he recovered his faith to the Lord building an altar and calling the name of the Lord.
Even if we have lost the way and forgot the Lord, the Lord never forget us and keep us from the trap of sins, and guide us to the right way. After this trial Abram grew up to consider other people by giving the option
of choice for others. After the separation of his brother, Abram built the forth altar at Hebron. Through the various trials and incidents, Abram’s altar of prayer is getting stronger and firmer. That is an altar of repentance of sins and perfect submission to the Lord. Let us recover our altar of repentance of sins and dedication to the Lord.

そしてこの後、ロトの家族とのいさかいがあって、それぞれ分かれることになりますが、その時もアブラムは、あなたが左に行くなら、わたしは右の道を取ると言って、ロトに道を譲るような形で選択させています。(13:9)そしてロトは、ヨルダン川流域の肥沃な土地を選び、アブラム一族は岩山の多いカナン地方に行くことになります。ここにも、アブラムの信仰の成長が見られるのではないでしょうか。今までは自分第一に考えて、行動してきた彼が、今度は、相手を優先させて相手に先に道を取らせ、自分は残りの道を行くようになったのです。自分中心の我こそはという生き方から、今度は一歩下がって、神様の選択に身を任せる生き方に変わって行きました。これもあのエジプトでの苦い経験から来た賜物ではなかったでしょうか。

そういうアブラムに、主は再度現れてくださって、「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地全て、わたしは永久にあなたに与える。」と約束してくださいました。この主の御言葉を聞いて、アブラムはヘブロンの樫の木のところに来て、四度目の主の祭壇を築きました。(13:14~15、18)

人生のいろんな苦難や試練を通して、その都度その都度わたしたちは神に祈り求め、助けを求めて生きてきました。あの時にはこういう祈りがあったなあ、あの苦しいときにはこう神様に助けを呼んだなあと。そして時には、祈れない時もありますし、祈りを忘れたときもあるでしょう。でもどんな時でも主は、わたし達と共にいてくださって、その重荷を負い、助け励ましていてくださいます。

そういう人生の試練と苦難を通して、そしてその時々の祈りを通して、わたし達は少しずつ成長してゆくのではないでしょうか。牧師になりたての頃には、朝の静聴の時、デボーションの時を取ることもできなかった若い牧師も、様々な試練を通して祈ることの大切さ、そして本当に主はわたし達の祈りを聞いていてくださるという祈りの大切さと、神様の力を少しずつ体験させられてきました。

またこれから新しく信仰の道を歩み始めようとしておられる方も、どんな時でも、まず主の祭壇を築いて、主に祈りながら一歩一歩進んでゆかれることでしょう。それが私たちの信仰生活であり、神様に祝福された人生ではないかと思います。たとえ失敗しても、もう一度祈りの原点に立ち返って、いつでも再出発のできる人生です。この悔い改めと祈りの祭壇を築き直しつつ、共に約束の地を目指して、歩んでまいりましょう。    

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