ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

主の山に備えあり (創世記22:1~19)

メッセージ
2018年8月12日富里キリスト教会
「主の山に備えあり」(2018)
(創世記22:1~19)
1.神の試み

「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物として捧げなさい。』」
(創世記22:1~2)

今までアブラハムは、75歳になって神様からの召命を受けて、信仰の旅に出ました。そしてその旅の途中で、何度も神様への祭壇を築いてきました。神への感謝と礼拝を献げながら歩んできた人生でした。途中、何度か失敗や不信仰な出来事はありましたが、その都度その都度、神様が守って下さり、主の名前を呼びながら歩んできました。そして90歳で、割礼を受け、百歳で念願の一人息子イサクを授かりました。

その後、召使いハガルに産ませた子供とわが子イサクとの板挟みになって、悩み苦しむ時がありました。しかし、神様の命じられる通りに、泣く泣く庶子イシュマエルと妻のハガルを出しました。幸い二人とも、神様の憐れみを受けて命を得て、パランの砂漠で生活をしているということを耳にして安心しました。後は、最愛の妻サラとその一人息子イサクの三人家族で、神様の約束を信じつつ安泰な生活を送り、何不自由ない祝福の生活を送っておりました。そういう人生で最も幸福な最中に突然起こった、衝撃的な神様の御命令でした。最愛の息子、イサクをいけにえとして神様に献げなさいというのです。

しかも聖書には、「神はアブラハムを試された」とあります。おそらくこの時の彼の年齢は、イサクが少年になっていたころと考えられますので、百歳を超えていたのではないでしょうか。神様は、百歳を超えた信仰者、しかも成熟した信仰者であったにもかかわらず、最後の最後まで、愛する者の信仰を試されるお方だということです。つまり、わたしたちが晩年を迎え、天国ももう近くなってきた時であっても、テストされるお方なのです。臨終の間際まで、信仰をテストし試されるのです。

しかも今回の試練は、アブラハムにとりましても人生の中で最大の試練ではなかったでしょうか。自分の愛する一人息子、しかも自分たちの家を継ぐ跡取り息子を、神にいけにえとして献げなさいというのです。当時この地方では、神への忠誠を誓う意味で、自分の長男を人身御供のように、いけにえとして献げる習慣があったと言われています。

どうして神はこんなむごい命令をしたのでしょうか。動物ならいざ知らず、生きた人間を、しかも子供をいけにえにするのです。おそらく、イサクはアブラハムにとっては、もう目に入れても痛くないほどのかわいい愛する独り子でした。そしてこれが神様の目から見て、神よりも息子の方を溺愛していると映ったのではないでしょうか。神様は最後の最後まで、わたしたちが、神以外のものを愛することを赦されません。神第一なのです。

たとえ家族の者であって、妻でも子供でも偶像になってしまう危険性がありました。神様はご自分のことを「わたしはねたむ神である。」(出エジプト20:5・口語訳)と言っています。「あなたは息子を愛するのか、わたしを愛するのか。もしあなたがわたしよりも息子を愛するならば、あなたはわたしにとってはふさわしくない。わたしはねたましく思う」と言ったのです。ですからアブラハムをテストしたのではないかと思います。

Some time later God tested Abraham. He said to Abraham “Abraham, take your son Isaac whom you loved and go to the region of Moriah. And there sacrifice him.”(22:2) God tested Abraham when he lives happily with his loved wife Sarah and only son Isaac. God never looked away until we went to heaven. He will test us until the end of our life. And God ordered him to offer his loved only son Isaac. The reason God ordered is that He is a jealous God. God never recognize for us to have some other Gods like idles. And He ordered and tested Abraham to offer his most important loved only son to God. How do you response to order of God.

2.アブラハムの従順な信仰

それにしてもアブラハムはどんな気持ちで、イサクを連れてモリヤの地へ行ったのでしょうか。「次の朝早く、アブラハムはロバに鞍を置き、献げものに用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」(22:3)聖書にはいとも簡単に、翌朝、アブラハムは家族のだれにも告げずに、早く起きて黙々と燔祭の準備をして出かけて行きました。妻のサラに打ち明けて相談するとか、一晩中悩み苦しんで、一睡もせずに過ごしたとかという記述はありません。淡々と準備をしたように書いてあります。

モリヤの山と申しますのは、アブラハムが住んでいたベエル・シェバから北に約60キロ位のところの場所でした。ここから水戸までくらいの距離です。三日かかったとあります。そしてこのモリヤの山は、この後ソロモンに神様が現れてエルサレムの神殿を立てた場所でもあります。そして何よりも大切なのは、このモリヤの山はあのイエス・キリストが十字架につけられたエルサレムの場所にもなった所です。ですから、イサク奉献の場所でもありエルサレムの神殿が建てられた場所でもあり、イエス・キリストが十字架につけられた場所でもあったのです。三つの時代を貫いて示された神と人間が出会うという、聖なる特別な場所でもありました。

神様がこの山を指定されたということは、やがてご自身の御独り子なるイエス・キリストをご自分がこの山で、全人類の罪の贖いの供え物としてささげるということを預言されたのではないでしょうか。そして親が自分の一番愛するわが子を、罪の宥めのいけにえとするということを、イサクの奉献という形であらかじめ預言されたのではないかと思います。親がわが子を宥めの供え物として、神に捧げるということがどんなことなのか、その親の気持ちをアブラハムにも教えておこうとされたのではないでしょうか。

アブラハムはこの間、息子イサクと二人の従者を連れて、黙々とモリヤの地を目指し、三日目に到着しました。この三日という日にちも、イエス・キリストの十字架の死の後、三日目に復活されたという日にちを表しているような気がします。そして二人の若者には、ロバと共に待っているように命じて、息子イサクと二人だけで山に登って行きました。わたしはなぜアブラハムが、こんな人生の一大事に直面しながらも、何も言わずに黙々と行動をしているのが不思議でした。

しかも従者にはこういっています。「お前たちは、ロバと一緒にここで待っていなさい。わたしは息子とあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」(22:5)と。また「戻ってくる」と言っています。(We will come back to you)おそらく息子イサクと一緒にまた戻ってくると確信していたのでしょう。そしてイサクが「お父さん、火と薪はありますが、焼き尽くす捧げものの子羊はどこにいるのですか。」と尋ねます。すると、「わたしの子よ、焼き尽くす捧げ物の子羊はきっと神が備えてくださる。」(22:7~8)と答えています。このようにアブラハムは、神がすべてを備えてくださる、そしてまた私たちを戻してくださると確信していました。

そして彼は、命じられた場所につきますと、祭壇を築き、薪を並べて、息子イサクを縛って薪の上に載せました。そして刃物を取り出して息子を屠ろうとしたのです。彼はここで、完全に気持ちの上では息子を屠っていました。自分の手にかけて最愛のわが子の命を取ろうとしたのです。いや実際に取っていたと思います。この時点で、気持ちの上で父は完全に息子を屠っていました。「アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」(22:10)とあります。

パウロは新約聖書で、このアブラハムのイサク奉献をこう述べています。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを捧げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を捧げようとしたのです。この独り子については『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。』と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の名から返してもらったも同然です。」(ヘブライ11:17~19)

アブラハムが神を信じたのは、神が人を死者の中からも復活させてくださるお方であると信じていたからでした。わたしたちは神の前に、自分の一番大切な物を捧げることを命じられています。わたしたちの持ち物は皆主から出たものですとの告白を求めているのです。自分の家族も財産もそして自分自身も神からいただいたものだということです。そしてその一番大事なものを神の前に献げるのが、神が求めておられる礼拝です。アブラハムにとっては、自分の一人息子イサクでした。イサクは自分の後を継ぐ長男でした。その一番大事なものを神は求め、彼はそれを神にお返ししたのです。

しかし、この主が求めておられる礼拝は、ただ自分の大事な物を主に捧げるというだけではなく、最後には主がその献げたものを返してくださるという信仰が求められています。アブラハムは、イサクの復活も信じていました。神にはできないことはなにもない、たとえイサクを献げてもまた神はイサクを返してくださると信じていたのです。ここにアブラハムの信仰がありました。しかも死者をよみがえらせ、無から有を生じさせることのできるお方だと信じていました。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられることと、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ11:6)ですからアブラハムは、独り子イサクを主に献げたのです。必ず主は、わたしの信仰に答えてくださるお方だと確信していました。

When God ordered Abraham to take his son, he never hesitated and weakened but he was doing as God ordered. That made me very wonder and strange. Paul explained in New Testament that when God tested Abraham, by faith he offered Isaac as a sacrifice. Abraham believed that God could raise the dead and give his son back from the dead. This is a faith of Abraham so that he offered his only son to the God as a sacrifice, God can return his son alive. Like this faith is being sure of what we hope for and certain of what we do not see. (Hebrew 11:1) Abraham had seen what he hopes not sees. He believed in God’s existence and his God’s rewards. (Hebrew11:6)

3.神の備え

そしてアブラハムがイサクに手をかけようとしたその瞬間、神の声が下されました。「アブラハムよ、その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れるものであることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしに捧げることを惜しまなかった。」(22:12)今やっと、アブラハムの真実な心、信仰が神様に分かってもらえたのです。ぎりぎりのところまで、試されたのです。アブラハムでさえ、こんなに神様に信用してもらっていなかったのであれば、わたしたちなんかはもっと信用されていないのではないでしょうか。神様は、最後の最後まで私たちの信仰を試されるのではないでしょうか。そのために何度も何度も試練を通して、訓練してくださるお方です。

アブラハムは、実際に目に見える約束よりも、目には見えない神様の約束の御言葉を信じていたのです。目に見える肉の息子ではなく、目に見えない霊の息子を信じていました。約束の子です。目に見える血を引いた息子ではなく目に見えない約束の子です。神の独り子を待ち望んでいたのではないでしょうか。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:17)

これがアブラハムの信仰です。たとえ今肉のわが子を失っても、神様はきっと目に見えない約束の霊の子供を授けてくださると信じていました。やがて来るべきお方、やがて実現するメシアの救いを信じていたのでした。これがアブラハムの信仰です。見えるものではなく、見えない約束の言葉、この聖書の言葉を信じる信仰をアブラハムはもっていました。そのアブラハムの信仰が、神様の目から見て、今、やっとわかったというのです。

するとそばに、一頭の雄羊が木の茂みに角を取られてもがいていました。アブラハムはさっそく、イサクの代わりにその雄羊を捧げて全焼の供え物としました。そしてその場所をアブラハムは、ヤーウエ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けました。「アブラハムはその場所をヤーウエ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも、「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」(22:14)とあります。

アブラハムの信仰、それは自分の目に見えるものに焦点をあわせないで、目に見えない神様の約束の言葉に焦点を合わせていたことでした。ですから、たとえこの長男のイサクを失っても、神様は必ず私を祝福してくださる、たとえ肉の子孫を失っても、約束の霊の子孫は、あの空の星のように、海の真砂のように増え広がるということを信じていたのでした。まさに「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブライ11:1)とある通りです。

When Abraham took his knife to slay his son, the angel of the Lord called out to him from heaven “Abraham! Do not do anything to him, Now I know that you fear God.” (22:12) God saw his true faith and provided the other sacrifice of ram, God provided for him the other sacrifice instead of his son. So Abraham called that place The Lord Will Provide. And to this day it is said “On the mountain of the Lord it will be provided”(22:14). We are always tested by God every Sunday worship. God ordered us to take our very important things before God.
Because God himself provided his only loved Son Jesus Christ for us.
If we offer our very important thing to God, God will give us more blessings through our true sacrifice in my heart. God will please our true sacrifice to obey God’s Word. Then God will give us back more overflowing blessing.

私たちもアブラハムの子孫です。神の約束の言葉を信じる霊の子供、霊のイスラエルの民です。神様はそういう私たちを常に試しておられます。あなたの一番大事な物をわたしのところに持ってきなさいと。ある人は息子であったり、ある人はお金であったり、ある人は財産であったり、名誉であったりするかもしれません。でもそれはみな私のものだから、わたしに帰(き)しなさい、つまりわたしに帰しなさいと命じておられます。

一切の大事な物、そして自分自身をすべて隠すことなく神の前に持ってくるならば、神様はそれを受け入れてくださり、それを聖別してまた私たちに帰してくださいます。すべてを神に前に献げているでしょうか。あなたの心をすべて主に献げているでしょうか。家に大事な物を残してはいないでしょうか。心に自分の宝物を隠してはいないでしょうか。偶像を持っていないでしょうか。パウロも言っています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)神はそのような礼拝を求めておられます。

この主日礼拝があのモリヤの山の礼拝なのです。自分の命より大事な物を、いや自分の命そのものを主の前に捧げる場所です。すべては主からいただいたものです。それをすべてあなたにお返ししますという祈りです。そしてそれがこの主日の礼拝です。すでに主はわたしたちのために、先に最高のいけにえを備えてくださいました。主の山である礼拝の場に、主は既にいけにえを備えてくださっているのです。それは御子イエス・キリストです。わたしたちの罪を贖い、新しい命を与えて下さるお方です。

あなたの一番大切なものをもって備えましょう。自分という一番大事な物まで、心を明け渡して、すべてを捧げましょう。主の山に備えありです。必ず主はそれをご覧になって、わたしたちに最善のものを備えてくださいます。毎週毎週、わたしたちは主に試されています。あなたの大切なものをもって主に献げていますか。そしてわたしたち一人一人の心の中をご覧になっておられます。皆さんは今日何をもって礼拝に臨みましたか。もし今日自分の大切なものを主に捧げるならば、主はそれを何倍にも祝福して報いてくださいます。

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional