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主の体をわきまえる (Ⅰ コリント11・23〜34)

メッセージ

2010年2月28日富里教会
        「主の体をわきまえる」
         (Ⅰコリント人への手紙11:23〜34)

1. はじめに

主の御名を賛美します。
先週は1週間、遅い冬休みでゆっくりと休ませていただきました。先週は中條先生のメッセージで、皆さんとても恵まれたと聞いております。また山岸さんの御家族も新しく見えられて、本当に良かったです。浦和から帰って来る途中、川越教会の加藤享先生からお電話があり、「札幌教会にゆかりのある方が、富里教会に行かれたそうですのでよろしくお願いします」とお電話がありました。いろんな形で神様が働いてくださっておられることを、加藤先生ともども喜んだ次第です。

2. 仲間割れの教会

今朝もコリント教会のことを通して、私たちの教会の姿を御一緒に考えてみたいと思います。この手紙の冒頭でも取り上げておりましたが、コリント教会では、教会内部の仲間割れと争いの問題がいつも教会のネックになっておりました。特に知性に長けて教養と知識があるギリシャ人が多かったせいか、自分の考えを正しいと主張する人間的な知恵と知識が、対立を生んでいたようです。

11:17〜18までを読んでみましょう。「次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。」

「仲間割れ」。何と悲しい響きを持った言葉でしょう。ユダヤ人とギリシャ人の民族的な背景から来るクリスチャン同士の対立、賜物の競争、あるいは自分の支持する伝道者を背景にした派閥みたいなものがあったかも知れません。ですから、せっかく教会の集会があっても、お互いに反目しあっていますから、良い結果が出ない、集まらなきゃ良かったと思うことがしばしばあったようです。この悲しい現実は、会社や学校、地域社会の中でも良くありますし、教会とて例外ではありませんでした。それでも教会はキリストの体であり、神様の恵みと祝福がいっぱい詰まっているところなのです。聖徒の集まりであり、聖い汚れのないキリストの体なる教会なのです。

カルロ・カレットという人が、教会について次のような詩を書いていました。
「おお、教会よ、おまえは何と不可解なものだろう。
    それなのに、私はおまえを何と愛していることか。
おまえは私を何と苦しめてきたことだろう。
    それなのに、私は何と多くをおまえに負っていることか。
私はおまえが破壊されてしまうのを見たいと思う。
    それなのに、私はおまえの存在が必要なのだ。
おまえは私に多くの醜聞を提供してくれた。
    それなのに、おまえは私に神の聖さを教えてくれた。
私はこの世界でおまえほど、捉えどころがなく、評判が悪く、虚偽を言うのを見たことがない。
それなのに、おまえほど、純粋で、寛容で、美しいものに触れたことがない。」

教会の持っている光と闇、喜びと悲しみ、一致と反目、愛と憎しみといった複雑な心境を読んだすばらしい詩だと思います。そういう複雑な教会の現実の姿を見つめながら、パウロはもう一度私たちが、信仰の原点に立ち返ること、何を教会の中心に据えるかを教えたのが、この11章の「主の晩餐式」だったのではないかと思います。

3. パンと杯(主の晩餐式)

いつも主の晩餐式の時に読んでいる箇所ですが、もう一度読んでみましょう。
「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念をしてこのように行ないなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(?コリント11:23〜26)
 
A. パン

このパンは、24節に書いてありますように、イエス様の体を意味しています。つまり私たちが主の晩餐式でパンをいただくと言うことは、イエス・キリストの体を食べるということです。主は、「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:51)と言いました。この命のパンである主の体、即ち主の御言葉を食べることによって、イエス様を心のうちにお迎えし、命を受けると言うことです。そして、この命の御言葉によって、一人一人が整えられ、罪、汚れが洗い清められ、一人一人がしっかりとつながれて、一体となることを意味しています。

すなわち、御言葉を通して自分の罪を示され、罪の悔改めが起されます。そして、互いに相手の存在を認め合い、神に造られたものであることを再確認し合う場です。?コリント10:17に「パンは一つだから、わたしたちは大勢いても一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」とありますように、一つのキリストの体に預かることによって、一体であると言うことを意識し反省する時なのです。イエス様は、そのために御自身の体を裂かれて、私たちに与えて下さったのです。私たちが、互いに一つになるためです。

B. 杯

杯は、25節にありますように、「イエス・キリストの血による新しい契約」を意味しています。これは、罪人の私たちが神様の一方的な恵みによって、救われたということを意味しています。よく、自分が罪を犯したから、罪を持っているから受けられないとおっしゃる方がおられますが、そうではなく、罪人だからこそ主の前に罪を告白して救われるべきであり、受けるべきではないでしょうか。「皆、この杯から飲みなさい。これは罪の赦しを与える私の新しい契約の血です。」(マタイ26:27)とイエス様御自身もおっしゃいました。イエス様と私たちを結ぶ、強い絆を意味する固めの杯です。

そして、パンを食する場合も杯に預かる場合もどちらも、「イエス・キリストを記念してこのように行いなさい」と言っています。記念するということは、例えば、「終戦記念日」ですと、太平洋戦争が終った日を記念して記念行事を行ないます。それは、あの恐ろしい戦争を二度と起すまじと言う、深い反省を込めてもたれるものです。記念すると言うことはそういう意味を持ちます。

晩餐式も、私達の罪のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことを記念する儀式です。あの2000年前の十字架の贖いの業を思い返し、あの十字架の上で流された主の血によってわたしの罪が贖われたこと、赦されたことを思い出して感謝する時です。それと同時に、もう二度とあの悲惨な過去の自分、罪に汚れ、闇の中をさ迷って歩いていた時の自分に戻らない、そういう決意と再献身の時でもあります。それが記念と言う意味です。そして、この主の晩餐式が礼拝の基礎であり、中心でもあるのです。罪を犯したから、受けられないのではなく、罪を悔改める時なのです。バプテスマは1回限りですが、主の晩餐式はイエス様が再臨される時まで、繰り返し繰り返し守られて行きます。

ある人が、完全な教会、聖い教会を捜し求めて、あちこちの教会を訪ねていました。しかしどこの教会へ行っても、いろんな問題を抱えていて、ガッカリしてしまいました。「この地上に本当に聖い理想の教会はあるのだろうか」と。ある時、その人に神様が現れてこう言いました。「たとえ完全な教会が見つかったとしても、あなたはその教会のメンバーになることはできません。なぜなら、そこの教会員になろうとしているあなたが、完全ではないからです。」いかがでしょうか。どこの教会にもこういう看板がかかっていると思って下さい。「完全な人はどうぞ御遠慮ください。ここは自分が罪人であり、神様の愛と恵みを必要とし、人生をもう一度やり直したいと願っている人のための場所です。」と。

教会は赦されている罪人の集まりです。ですから、地上にある限り、わたしたちはイエス・キリストの十字架の贖いの血潮を必要としているのです。ドイツの神学者、ボンヘッファーはこう言っています。「理想の教会を愛する人は、教会の破壊者になります。そこでは、理想の姿よりも弱さや欠点ばかりが目につくからです。そこに目を取られて人を批判したり、不平を言っている限り神様の働きを妨げてしまいます。そうではなく、完全な教会でなければ愛せないと言う幻想を捨てて、私たちが不完全で欠点の多いものであることを互いに告白することから、真の共同体である教会が始まってゆくのです。」と。

わたしたちはお互いに不完全であること、罪を持っているゆえに、罪を贖い赦しを与える恵みの晩餐式が必要なのです。絶えず、罪の告白と悔改めによって新しく造りかえられて行くところに、教会の命の源があるのです。

4. 主の体をわきまえる

最後になりましたが、27節から主の晩餐式にあずかるための心構えを、パウロは述べています。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。誰でも、自分を良く確めたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」(?コリント11:27〜31)

バプテスト教会の主の晩餐式に対する心構えは、ここにあります。つまり、パンとぶどう酒を飲むことによって罪が赦されるのではなく、この記念の食事を通して、信仰を持って預かり、自らの信仰を振り返ってみることです。パンとぶどう酒が罪を聖める力があるのではありません。パンとぶどう酒はイエス様の十字架を記念し思い出して、深い悔い改めと再献身をする時なのです。そのような事なしに、主の晩餐にあずかるならば、それは主の体と血に対して罪を犯すことになるとパウロは言っています。主の晩餐式は私たちの信仰が問われ、悔改めが迫られる時なのです。

29節に「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」とあります。これは厳しい言葉です。すなわち、自分を省みず、罪を悔改めずに、兄弟をないがしろにして自分勝手に食べたり飲んだりしているならば、主に対して罪を犯すことになり、なおかつ自分自身に神の裁きを積み重さねていると言っています。だから、あなたがたの教会には、弱い人、病人、そしてすでに死んでしまった人がいっぱいいるのです。そして、このことは神の裁きであり、かつ主の懲らしめだとも言っています。(11:32)これは私たちも、心しなければならないことです。

教会の会食の時にも、自分勝手に食べたり、仲間だけで食べたり、自分の楽しみや飲み食いに執着するのではなく、霊の交わりをするようにしたいものです。天使もイエス様もそこにいるのですから。それが教会での食事の意味です。教会はキリストがその尊い血潮を流して贖いとったものです。そして、このキリストの愛の赦しの中に生かされ集められ、一つの体とされた群れです。多くの人がいても、いろんな性格の人がいても、キリストの血と肉の絆によって、しっかりと結び合わされた一つの体です。その真の姿を主の晩餐式は表わしています。

5.主の死を告げ知らせる

ですから賛美をし、証をし、語り合い、祈りあう交わりこそ、イエス様が望んだ教会の姿であり、主の晩餐式の目指すところだということを心に刻みたいと思います。先週も成田市の山崎さんのお宅でスモール・グループがもたれました。その前は、坂井さんのお宅でももたれました。私は参加しませんが、皆さんが楽しく集まって語り合い、賛美し合い、祈り合っている様子が目に浮かんできます。また、そういう喜びに満ちたレポートがメールで私のところに届いています。この一致した主にある交わり、これが教会の麗しい姿です。主の晩餐式が目指す教会の姿です。そして、この主の晩餐式の恵みが、この七栄の教会の場所だけでなく、成田にも佐倉にも八街にも更に広がってゆくことを願っております。11:26に「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」とありますように、この主にある交わりが私たちの伝道の力であり、方法なのです。

最後に、今年の新年礼拝の御言葉を思い出して終わりにしたいと思います。
「見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。
かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、
衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。
シオンで、主は布告された。祝福と、とこしえの命を。」 (詩篇133)

私たちが一つとされた恵みと喜びを宣べ伝えて行きましょう。来週は主の晩餐式があります。そのような思いで、この週を祈りと伝道のうちに過ごして、共にこの恵みの晩餐式にあずかって行きたいと願っています。                        
                                        (岡田 久)

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