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不信仰が信仰に変わる時 (マルコ16:9~20)

メッセージ
2021年月21日富里キリスト教会
「不信仰が信仰に変わる時」
(マルコ16:9~20)

1.不信仰な弟子たち

このマルコの16章9節から20節までは、後で書き加えられた部分だと言われています。聖書にも「結びその一」と記されています。マルコ伝が、最後に16章8節の「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」という言葉で終わるのは、少し区切りが悪いと言うことで、この9節以下を付け加えてちょうどいい終わり方に編集されたと言われています。

確かに福音書の最後が、「恐ろしかった」で終わると言うことは少し切れがよくないことだとは思います。でもよく見てみますと、このあとにイエスの復活の出来事が三つ出てまいります。9~11節までが、復活の主と出会ったマリアが、弟子たちに復活を告げますが誰も「信じなかった」という記事です。そして12~13節までがエマオの途上の二人の弟子について記していますが、他の弟子たちはこの二人の復活の知らせを信じませんでした。ここでも「信じなかった」で終わっています。

そして14節からは、11人の弟子たちが食事をしている時に、主が現れて、彼らの不信仰と頑なな心をとがめておられます。それは弟子たちが、マリアや二人の弟子たちの復活の証言を「信じなかった」からです。ですから主の復活を信じたのは、マリアと二人の弟子だけだと言っていいのではないでしょうか。マリアは恐怖心を持っていましたが、それでも彼女は仲間の弟子たちに、主の復活を伝えに行きました。しかし、ペテロを始め他の弟子たちは、誰も主の復活を信じていなかったのです。9節から14節まで「信じなかった」という言葉が3回も出てきています。

3年間、あんなにして夜も昼も生活を一緒にして、伝道の旅をして来ました。多くのしるしや奇跡を弟子たちは目の当たりにしました。そして十字架に架かって全人類の罪の贖いをすること、そして三日目に復活することを何度も繰り返し、繰り返し教えたにもかかわらず、弟子たちは復活を信じませんでした。おまけに弟子のユダは、主を裏切って自殺をしてしまいました。

こんな不信仰で弱い弟子たちを、この地上に残してイエス様だけ先に天に帰れない、後ろ髪がひかれる思いがしたのではないでしょうか。自分のあの十字架の贖いの苦しみは一体何のためだったのだろうかと、自問したくなるほどやるせない気持ちになったのではないかと思います。

そして彼らは復活されたイエス様に不信仰を責められました。聖書では「イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。」と書いておあります。他の聖書では「責めた」とあります。何とお責めになったのでしょうか?「やれやれ、まだ信じないのかい。3年間一緒に伝道してきたことは何だったのだろうかね。君たちには失望したよ。」と言ったでしょうか。主イエスは、そういう不信仰の塊のような弟子たちに、あえて最後に、伝道の御命令を下されました。わたしは少し無理ではないだろうか、こんな弱い不信仰な弟子たちに、「福音を宣べ伝えなさい」ということ自体、無駄なことではないだろうかと思いました。皆さんは、どう思いますか?

2.主の宣教命令

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ16:15~18)

主の御命令は三つあります。第一に「全世界へ出て行くこと」です。そして二番目には「すべての造られたもの」に福音を宣べ伝えることです。そして三番目は「福音を宣べ伝えること」です。するとそこに信仰が起こされて、バプテスマが必要になってきます。バプテスマはその人が生まれ変わって、信仰をもって、イエスと共に新しい人生を歩みますと言うことのしるしです。「信じてバプテスマを受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」と言いました。これが福音宣教であり、イエス様の遺言のような最後の言葉です。

① 全世界に出て行って

イエスの命令は、いつも「出て行って」です。教会で待っていなさいではありません。わたしたちが教会なのです。教会堂ではなく、わたしたちの交わりがキリストの体だと言うことは皆さんも十分に理解しています。キリストの愛の体なのです。待っていて来た方を受け入れることも確かに大事ですが、それよりも出て行って福音を宣べ伝えなさいと言いました。決して教会堂を造って、そこに人を集めなさいとは言いませんでした。集める前に、出て行くことです。しかも全世界です。海外へ、へき地へ、まだ福音が届いていない場所へ出かけることです。

新生讃美歌391に有名な讃美歌があります。「主はいつも歩まれ たえず渡って行かれた 主はとどまることなく 人々の心の岸辺へ 悲しむ人がいて 倒れる人がいて 泣く人がいる そんな向こう岸、Let’s cross to the other side こぎ出そう そこは主が向かわれた場所 Let‘s cross to the other side こぎだそう そこに主もおられる」

絶えず主は渡って行かれる、そしてとどまることをしない、人々の心の岸辺へと渡って行かれる、さあ、わたしたちも主と共に渡って行こう、なぜならそこには主がすでに先にいて、待っていてくださるからだと言うのです。つまりわたしたちが出て行くのは、全く何もないところへ行くのではなく、もうすでに十字架に架かられ、復活された主が、先にそこに行って待っているから、全世界へ出て行きなさいと命じているのです。

ですからたとえスモールグループでも、絶えず出て行かなければなりません。そこでも出て行って伝道するのです。絶えずメンバーが出て行って、福音を語り続けることです。新しい個人伝道のグループができてくることです。そしてこの集まりを止めてはいけません。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と主は言いました。またパウロも「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互いに励まし、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではないか。」(ヘブライ10:25口語)と勧めています。

② すべての造られたものに福音を宣べ伝える

イエス様は、すべての人々に、福音を語りなさいと言いました。わたしたちは伝道する時、つい自分の目で人を判断して、この人は難しいなあと思って避けてしまうことはないでしょうか。たとえ、苦手な人、無理だと思う人でも自分で判断しないで、福音を語ることです。外面や職業や人柄で判断しないで、その人の心を見ることです。イエス様は「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」といいました。

また福音を語るにはリスクが伴うかもしれません。もしかしたら関係を悪くしてしまうかもしれません。それよりはいい人でいたい、中立の立場でつきあいたいと思うかもしれません。でも誰が救われるのか、だれが救われないのかは、わたしたちが判断できないのです。自分で判断しないで、すべての人に語らなければなりません。

そして人々は、福音を待っているのです。何か手助けを求めているのではありません。この命の言葉を待っているのです。福音の光を待っているのです。今多くの人々が、いろんな重荷や苦しみや悲しみを抱えて呻いて倒れています。前もお話しましたが、飼う羊飼いのいない羊のように、道に倒れベンチに伏せています。イエス様は「収穫は多いが働き人が少ない。」と言われました。

いきなり福音は語れないかもしれませんが、何かきっかけをつくったら、その人のために命の言葉である福音を、グット・ニュースを伝えてあげるのです。パントマイムだけではなく、言葉が必要です。対話が必要です。「愛の便り」でも「神との平和」でも「四つの法則」でも何でもいいですから、神様の救いと愛を語ってあげることです。それを待っている人がいるのです。片手に聖書、片手に「愛の便り」をもって、一人一人が救いを待っている人のところに出かけて行って欲しいのです。

皆さん方が、信徒伝道者となって、このイエス様の宣教命令に忠実に従って伝道していただきたいと言うことです。聞く人も話す人も、共に福音の恵みによって力づけられ励まされます。いや、私たちは宣べ伝えることによって救われるのです。牧師から説教を取ったら何もありません。説教を語るから牧師なのです。わたしたちも証をし、宣べ伝えるからクリスチャンなのです。

「主イエスの愛を知らない人に 救いの喜び知らない人に あなたの隣のあなたの町の 一人一人を訪ねて歩けと 聞こえるでしょう 神のみ声が 呼び続けられるあなたのことを 聞こえるでしょう 神のみ声が 誰がみ声に従うでしょう 誰がみ声に従うでしょう」(新生457)誰がみ声に従うか分かりませんが、主イエスの愛を信じて語り続けましょう。

3.勝利の伝道

最後に、あの不信仰な弟子たちがどうしたのか、そしてどうなったのかを見てみて終わりにしたいと思います。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(16:19~20)

20節に、「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。」とあります。不信仰者が、主の宣教の御命令に従ったのです。不信仰者が信仰者に変わったのです。しかも主も共に働いて、御言葉が真実であったことを証明しました。いろんなしるしが起こりました。イエスの名によって、悪霊が声をあげて人々の心から出て行きました。弟子たちは新しい言葉を語りました。弟子たちは伝道する中で、蛇をつかんでも害を受けないし、毒を飲んでも死ななかったのです。そして病人に手を置けば癒されたのです。

あの不信仰でかたくなな弟子たちに、いったい何が起こったのでしょうか。この変化は一体どこから、どこで起こったのでしょうか。今日の個所は三つに分けられると言いました。第1場面は、不信仰な弟子たちの姿。第2場面は主の宣教命令の言葉。そして第3場面は、勝利の信仰による宣教の場面です。

あの不信仰でかたくなな弟子たちの、何がここで変わったのでしょうか。皆さんにお尋ねします。何が彼らを変えたのでしょうか。不信仰者から信仰者へと。しかし、聖書にはその理由を明確に書いておりません。でも、実際に彼らは変えられました。信仰をもって大胆に福音を語り、勇気をもった宣教師になって行ったのです。何故でしょうか。何がそうさせたのでしょうか。

そうです。彼らは疑い深い不信仰の者ではありましたが、弱さを持ってはいました。この聖書から分かることは、イエス様は天に上られて神の右の座に着かれました。もう地上にはおられません。しかし、「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した」とあります。イエス様はいなくなりましたが、弟子たちは主のみ言葉に従って、出て行って至るところで宣教したのです。その現実がありました。

つまり不信仰のままで、弱さを持ったままで、心が頑ななままでも、大事なことは主のみ言葉に従ったということです。実践したということです。完全に信仰を持ったわけではありません、不信仰と疑いのあるがままであっても、大事なことは主のみ言葉に従ってみるということです。信仰が与えられたから、信仰が完全になったから、伝道すると言うのではありません。疑っても不信仰であっても、大事なことはまず御言葉に従うと言うことです。そこで初めて御言葉の真実を体験するのです。この時に、不信仰が信仰に変わるのです。

あのマリアでさえ、復活の主と会った時に、「震え上がり、正気を失い、恐ろしかった」のです。しかし、そういう恐ろしいという思いがあっても、彼女は仲間に「主は生きておられる」と告げたのです。マリアが復活の主の最初の宣教者になりました。ですから大事なことは、恐れがあっても不信仰でも心が硬くてもいいのです。大事なことは、「ドント、ビー、サイレンス(DON’T BE SILENCE)なのです。「黙っているな、沈黙するな!」です。話すことによって、声に出すことによって、宣べ伝えることによって、宣言することによって、あなた方自身も救われるのです。恐怖が消えます。イエスのことを語り宣べ伝え、イエスの名によって声に出して祈る時に、その時に信仰が与えられるのです。だから主は、「何があってもまず、宣べ伝えなさい。すべてのものに、全世界へ出て行って。」と言われたのです。

沈黙は死です。サタンはわたしたちの口を黙らせようとします。雰囲気とか風潮とか忖度とか世間とか和とか、日本の文化に名を借りたサタンの働きです。福音宣教を沈黙させ、地面の下に葬り去ろうとしています。ですから、悪魔に負けてはいけません。声に出して叫びましょう。「主イエスキリストは、我々の罪のために身代わりになって十字架に架かって下さり、三日目に甦られた。天下においてこのキリストの御名以外に救いはありません。日本人よ、悔い改めて福音を信じなさい。時は満ちている。」

弟子たちは、何が何でも出かけて行って、福音を宣べ伝えました。これが彼らの信仰です。不信仰者から信仰者に変わった瞬間です。不信仰なままでもいいです。疑ったままでもいい、心が硬いままでもいい、大事なことは主の御命令に従うことです。「心から信じられないけど、イエス様がそこまでおっしゃるなら、お言葉ですから伝道してます。あなたがそんなに言うなら、じゃあとりあえず出て行ってやってみましょう。(どうせダメだと思いますが・・・・。)」それでもいいのです。成果は主が与えて下さるのですから。主の御命令の言葉が本当であるかどうかは、主ご自身が証明してくださいます。さあ、全世界へ行って、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えましょう。(岡田 久)

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