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万物は神から出て、神に向かっている (ローマ11:25~36)

メッセージ

2014年6月1日富里キリスト教会

「万物は神から出て神に向かっている」
(ローマ11:25~36)

1.万物は神から出て、神に向かっている

今朝は、ローマ書の中から「万物は神から出て、神に向かっている」と言う広大かつ厳かな題になりました。厳密には、この間にもう一つの言葉、「神によって保たれ」という言葉が入っています。英語では簡単に「from him through him to him are all things」となっています。すべての物が、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているというのです。ですから、私たちの存在というものが、神に根拠を持ち、神に守られ、最終的には神に向かって進んでいて、その行き着く先は神であるというのです。何とすばらしいことでしょうか、そして身が引き締まる厳粛かつ壮大な言葉でしょうか。

今日、あまりにも神の存在が忘れられ、人間が神の如くに傲慢になり、小さい命を粗末にし、暴力、道徳の腐敗が蔓延して、神に造られた人間に対する尊厳が脅かされているような気がしてならないからです。幼い命が無残にも奪われ、殺人事件が日常茶飯事のように起こっている今日、お互いに人間の命の尊厳というものを考えてもらいたいと思いますし、これは神に関わる重大に出来事だということです。命よりも経済優先の人間が、自分で自身を汚して、悪から悪へと堕落の道を突っ走っているような気がしてなりません。

ここでパウロは、神様の救いの御計画と歴史を考えた時に、全てのものは神から出て、神に保たれ、神に向かっているということ。そして、すべては神の御計画通りに運ばれている故に、我々はこの神の救いの一方的な恵みを、感謝をもって厳粛に受け止めて行くことの大切さを訴えております。ある注解書に、万物は父なる神から出て、子なるキリストの十字架と復活の福音によって保たれ、聖霊なる神様の導きによって完成へと導かれていると書いてありました。この父なる神、子なる神キリスト、そして聖霊なる神の三位一体の神の中に、万物はその起源と生成と目的を持っているのであるというのです。

2.人間の不従順

今日の聖書の個所を読んでみましょう。11:28から読んでみます。
「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお蔭で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の中に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」(11:28~32)

昔、異邦人は神に対して不従順でしたが、ユダヤ人が心をかたくなにして、キリストを拒み、福音を拒んだために、異邦人の方に福音が宣べ伝えらました。そして、今は多くの異邦人が神の憐みにあずかって救われました。それと同じように、今度はユダヤ人が神に対して不従順になっているわけですが、それはかつて異邦人が神の憐みを受けて救われたように、今はユダヤ人が神の憐みを受けて救われる番になったのです。

このようにして、神様は異邦人もユダヤ人も、どちらも神様の憐みによって救われるようにされました。これが神様の救いの理由だったのです。私たちが優れているから、正しいから救われるのではなく、神の前に不従順であり、罪に汚れているが故に神様の一方的な憐れみによってしか救われないということです。人間は、あの神の憐みのしるしであるキリストの十字架によってしか救われないということを、神は示されたのです。

32節の言葉が、大事な言葉です。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」つまり神様は、人を救う時には、その人をいつも不従順と言う状態に閉じ込めてから救われるというのです。なぜなら、そうでないと神様の憐みが解らないからです。ですから、この32節を別の現代訳聖書ではこう訳しています。「神はいつでも人を救われる時、まず不従順の中に閉じ込められるからである。」(現代訳)

神様は私たちを救う時には、必ず私たちを不従順と言う神に反抗し背く罪の状態にしておいてから救われるということです。そうでないと本当の意味での神の救いが解らないからです。十字架の意味が解らないからです。なぜキリストが十字架の上で、わたしの罪のために血を流されたのかが解りません。このキリストの流された血、裂かれた肉こそが神と私たちを繋ぐ唯一の道なのです。
そのことを毎月、毎月思い出しては罪を悔い改めるのが、救いの道なのです。

私たちは、神様の憐みによって、恵みによって救われたのです。そうでないと、すぐに自分を誇り、うぬぼれて思い上がってしまうからです。そうでないと、信じていると言いながらいつまでたっても神様の本当の愛と憐れみが解らないからです。自分を正しいものとし、自分の行いや知恵、知識を誇ってしまうからです。信仰の生涯と言うのは、ある意味では神に対する罪の悔い改め、不従順の悔い改めの連続ではないでしょうか。そして、その都度その都度、何度も痛い思いをしながらでも、神のもとに立ち帰らされて行くことによって、神様の恵みの深さ、憐みの深さを思い知らされて行くのではないかと思います。

3.神の憐れみ

先日、教会の畑に植える野菜の苗を買いに行きました。農協の直売所に行きましたら、肝心のキウリの苗がもうないと言うのです。ナスやピーマンやしし唐の苗はあったのですが、キウリは時期が遅かったのでしょうか、ほとんど売り切れていました。そして、ガッカリして帰ろうとしましたら、店の片隅に、三本のキウリの苗が残っていました。強い苗は先に買って行かれましたので、残った苗は弱そうな苗でした。私たちは、それしか残っていないものですから、仕方なくその売れ残りの弱々しそうな苗を買って帰りました。植えてみましたが、育つかどうか心配です。

神様は、ご自分の憐みを示すために、あえてこの売れ残りの弱そうな枯れかけた苗を買い求めて下さったのです。それが神の憐みによる選びです。神は、すべての人をご自分の憐みによって救おうとされましたので、あえてこの弱い売れ残りの苗を選ばれたのです。そして、これを手塩にかけて大事に育てて下さり、豊かに実をつけるようにしてくださいました。これが、イスラエルの残りの者の思想です。正しい者、丈夫そうなものを選ぶのではないのです。実をつけそうもない、枯れかけた、弱ってしまった苗を選ばれて、これに恵みと愛を注いで養い育てて下さり、やがてはたくさんの実をつけさせてくださるのです。これが神様の恵みの選びなのです。神の憐みの器である私たちなのです。これ神様の救いの本質なのです。

ですから、先ほどの世界訳の32節の御言葉、「神はいつでも人を救われる時、まず不従順の中に閉じ込められるからである。」と言う言葉の意味を考えてみることをお勧めします。ですから、ユダヤ人が不従順になったからと言って、神は彼らを見捨ててしまわれたわけではないのです。この世界に、神に選ばれた人間と神に見捨てられた人間の、二種類の人間がいるのではないのです。神様は、ご自分の恵みと憐れみを教えるために、あえて正しい人、立派そうな人、信仰深そうな人を選ばれたのではありません。むしろ、あえて神に反発し、神に不従順な人を選ばれました。そういう状態に閉じ込めておいてから、その罪人を救われたのです。

私たちは、売れ残りの枯れかけた苗なのです。残りの者です。捨てられた者です。拒否された者です。でも、売れ残りとされた所で最高の取り扱いを受けた者です。人から拒否され、見捨てられたところで神の子供と言って救われた者です。失敗作と思われた所で、造り主の憐みによって壊されるのを免れた者です。そして、床の間の一番いいところに飾っていただいている憐れみの土の器です。これが神様の憐みによる救いです。そして神様はすべての人をこの憐みの器として救おうとされたのです。神様は、今も不従順の状態に置かれている人にも、神の憐みによる救いの道を備えておられるということです。

ここまで述べて来て、パウロは思わず感極まって、33節で「嗚呼!」と感極まって声をあげたのです。「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか。誰が、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。』すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(11:33~36)すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっています。救いは神にあります。この救いを与え、成し遂げて下さる私たちの神に心から感謝と賛美をささげましょう。(岡田 久)

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