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万民の救い (ローマ11:25~36)

メッセージ
2010年12月5日富里教会
「万民の救い」
(ローマ11:25~36)
1. はじめに

さて今朝は、神様の救いの御計画とはどんなものかということをご一緒に見てまいりたいと思います。今朝はローマ書11:25~26の短い御言葉に注目してみたいと思います。もう一度読んでみます。
「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画を是非知っていてもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」

今日、朝鮮半島の戦争の危機が高まっていますが、中東のイスラエルを取り巻く情勢も依然として戦争の危機をはらんでおります。イスラエルの国があそこにある限り、周囲のアラブ諸国との宗教的な対立は避けられません。私たちキリスト教のルーツになっているユダヤ教の国イスラエルです。一体神様は、この混沌とした世界をどのようにして救おうとされているのだろうか、人類の救いはあるのだろうか、あるとすればどのようにして実現するのだろうか、という疑問に対して答えているのが、このローマ書9章、10章、11章です。今日はそういう意味で、宣教題を「万民の救い」としてみました。

2.陶器とオリーブのたとえ

パウロがこの全人類の救いを、いろんなたとえ話を用いて説明しておりますので、私も今日は、聖書のたとえを使って、万民の救いについて説明してみたいと思います。

(A) 神の憐れみの選びによる器

ここに二つの陶器があります。この赤い方がエソウ、白い方がヤコブだとします。双子の兄弟ですが、先に生まれたのがエソウですので、この赤い方が長男として家の家督を受け継ぐ事になりました。ところが神様はこう言いました。「わたしはヤコブを愛し、エソウを憎んだ」(ローマ9:13)と。少しずるがしこい弟の方を愛し、兄を憎んだわけです。まったく、一方的に神様の思いのままに選びました。

ですから、これは不公平ではないか、本来兄が神の祝福を受け継ぐのではないかという不満が出る所です。するとこう言いました。9:14「神に不義があるというのか。決してそうではない。神はモーセに『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうとと思う者を慈しむ』といっておられます。従って、これは人間の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」(9:14~16)

つまりどういうことかと申しますと、私たちが神の民として選ばれたのは、自分の努力や功績があったからではなく、ただただ、神様の一方的な憐れみによるのであって、自分の行いや生まれや実績から来るものではないということです。神はこのようにして、自由にある人の心をかたくなにし、ある人を憎み、ある人を愛するのです。これに対して、神に造られた私たちは、誰も異論を差し挟むことはできないのです。それはあたかも、この素焼きの陶器(イスラエルの粘土で作ったランプ)であるランプが、造り主である陶器師に向って、何で自分をこのように造ったのだ、何で自分を選ばなかったのかと文句をつけるようなことだというのです。(ローマ9:19~24)

ですから本来でしたら、神の祝福の財産を受け継ぐ資格がない者にもかかわらず、神の民として選ばれたのだということです。自分が、神様の一方的な憐れみによって選ばれたものであるということを、自覚しなさいということなのです。選ばれるに値しないものにもかかわらず、神様の憐れみによって選ばれたと言うことです。選びの根拠、選びの資格、選ばれた理由は私達の側にあるのではなく、神様の側にあるということです。それは神様の一方的な憐れみと恵みによるものだということです。

(B)オリーブの接木

もう一つのたとえ話は、オリーブの木を使ったたとえです。ここに、二本のオリーブの木があります。1本は、教会の庭から取った栽培されているオリーブの木です。これは、松崎姉がいつも手をかけてここまで見事に育ちました。そしてもう1本は、野生のオリーブの木です。誰の手にもかけられず、ほおって置かれて勝手に育ちました。がっしりしていますが、あまり実をつけません。

これは何を表わしているかと申しますと、栽培された庭のオリーブの木というのは手入れがしてあります。いっぱい実をつけます。これは、神様に選ばれ十分に養われて大事に育てられたイスラエルの民を表わしております。一方、野生のオリーブの木といいますのは異邦人、ユダヤ人以外の人々、選ばれなかった人々を表わしております。

ところが、この手入れの行き届いたオリーブの木が切り取られました。それが、彼らの心がかたくなになって、救い主メシヤを受入れなかったということです。ユダヤ人のために救い主が来たのに、彼らはこのお方を受け入れませんでした。
その結果、福音はユダヤ人を離れ異邦人の方に宣べ伝えられました。これが、たとえで申しますと、この栽培されていたオリーブの木が切り取られてしまったということです。そして、パウロによって、異邦人に十字架の福音が宣べ伝えられて、次々と異邦人が救われ、福音が全世界に広がっています。それが今の時代です。

それはあたかも、この神の育てたオリーブの木が切り取られたあとに、野生の異邦人であるオリーブの木が元の木に接木されたようなものだというのです。つまり、私たちユダヤ人以外の民族は、神とか救いに全く関係のないものでしたが、それがユダヤ人のこの不信仰と不従順によって、神の救いの元木に接木されたようなものなのです。

11:17から読んでみます。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたがたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」(ローマ11:17~20)

私たちは野生のオリーブで、本来は栽培されているオリーブの木につながらないものです。栽培と野生では性質が違いますから、なかなかうまくつきません。それが、イエスキリストの十字架の血によってピッタリとくっつけてもらっているのです。ですから、私たちも神様の恵みと憐れみによって繋がらせていただいているものですから、思い上がったり、切り取られた枝であるユダヤ人に対して誇ったりしてはいけないと言うのです。

なぜなら、もとの切り取られたオリーブの枝は、接ぎ木をしようと思えば、異邦人の私たちよりももっとたやすく繋がるからだというのです。彼らユダヤ人が切り取られたままでいるのは、実は異邦人全体に救いが行き届くまでのことであると、パウロは申しております。

3.全イスラエルの救い

11:25~26までを読んでみましょう。
「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」

イスラエルの人々は異邦人である全世界の人々が次々と救われて、それを見て我々も旧約聖書をもう一度しっかりと読んでみようと思うかもしれません。そして、「ああ、あのナザレのイエス、大工ヨセフのせがれは確かに、旧約に預言されていたメシヤだったんだ。」と気がつく時が来ると、パウロは確信しております。肉や血縁によるイスラエル民族ではなく、神の義であるイエス・キリストを信じる霊のイスラエルこそ真のイスラエルの民であり、神が選び定めてくださった全てのイスラエルのなのです。32節に「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」(11:32)

ですから、人が不信仰や不従順に陥ったからと言って不思議に思うには及びません。神様は、すべての人を十字架の前に立たせるために、不従順の状態に閉じ込めました。それはすべての人が自分の罪を認めて、神様の憐れみの前に立つためだったのです。全ての人が罪を悔い改めて、主の前に立ち返って来ることを願っています。

これが、万民の救いです。神様はあの戦争をしているイスラエルの国からも一人でも十字架に立ち返ることを今も願っております。また、異邦人の中からも救われるものが次々と起されて、世界中に神の義である十字架の福音が宣べ伝えられることを願っております。そして全ての霊のイスラエルが救われて、救いの完成がなされることを願い、御自分の御心を地上に行なおうとしております。今は救いの時、恵みの時、神様の憐れみの時です。山﨑兄も、今日と明日の葬儀を通して、十字架の救いと復活の希望を最後の最後まで証をされようとしております。主のご栄光が表わされますようにと願ってやみません。(岡田)

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