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万民の救い (ローマ10:5~13)

メッセージ

2014年1月26日富里キリスト教会

「万民の救い」
(ローマ書10:5~13)

1.神は万民を救われる

私はこのローマ書を読みまして、初めて、神様は、この苦しみとうめきを通してすべての人々、万民をどこまでもお見捨てにならず、救おうとされておられるのだということが解りました。ユダヤ人のみならず、万民を救おうとされておられるのです。それは、ローマ書の11:25に述べられております。「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエルがかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」またこうも言っています。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」(ローマ11:32)

つまりユダヤ人が心をかたくなにして、キリストを十字架につけ、そしてこの十字架の福音さえも拒んで、パウロの命を狙い、ユダヤ人に福音が宣べ伝えられることを妨害したこと、そして、パウロがしかたなく異邦人に伝道せざるを得なくなったこともすべて、神様の救いの御計画のうちにあったということです。そして、最終的に、キリストの十字架の福音が、ユダヤ人の不従順によって、図らずも異邦人にまで述べ伝えられ、全世界に福音が広まりました。そして、ついにはそれをみたユダヤ人が、自分たちも奮起して罪を悔い改めて、イエスを信じるようになるためであったと言うのです。こうしてすべての人が福音によって救われるというのが、神様の万民救済の御計画なのです。

パウロはこの10:1でこう言っています。「兄弟たち、わたしは彼ら(ユダヤ人)が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証しますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために。」(ローマ10:1~4)

ユダヤ人は、宗教的には熱心でした。しかし、パウロに言わせれば、その熱心は、正しい認識に基づくものではないと言うのです。別の聖書では、「深い知識によるものではない」(口語訳)となっています。つまり神の義を知らないからだと言うのです。

2.信仰の言葉

神の義と言うのは、パウロは何度も何度も、このローマ書で語ってまいりましたが、神様御自身が、御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、ご自分の一人息子を十字架につけることによって、神様御自身の正義、真実を示して下さったということです。別な言葉で申しますならば、神様が、私たちの罪の贖いの供え物として、無償で、一方的に、恵みによって御子を十字架につけて下さり、そのことによって私たちの罪を贖い、帳消しにして下さったということです。これが「神の義」です。これに対しましては、もはやだれも異論を差し挟むことは出来ません。そして、その神の義であるイエス・キリストを信じる者を、神は無償で義として下さいました。これが「信仰による義」です。私たちはこの信仰によって救われているのです。それは信じるだけでいいのです。

10:5から読んでみます。
「モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。『心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない。』これはキリストを引き降ろすことにほかなりません。また、『「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。』これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(10:5~8)

つまり、イエス・キリスト様だけが、天の父のもとから肉を取ってこの世に下り、私たちのところまで来て下さいました。そして、最期には全ての人々の罪をその身に負って、身代わりとなって十字架の上で死んでくださいました。更に、主は死んで黄泉の世界にまで降り、そこから御力をもって三日目に復活して下さったのです。イエス・キリストこそが地の低き所まで降り、天の高きところまで昇られたお方なのです。

そして、この神と人間をつなぐ仲介者となってくださいました。私たちが、救いを求めて遠いところまで出かけて行かなくても、神様の方からイエス様がその隔てを埋めて近づいて来て下さったのです。ですから、あなたがたは幸せを求めて、何千里と旅をする必要も、真理を求めて何万マイルも旅をする必要もありません。神様の救いの言葉、「信仰の言葉」は、何と私たちのすぐ近くまで来ているというのです。いや、それよりも、私たちの口にあり、私たちの心の中にすでに届けられているのです。神は言なのです。命を与え、光を与え、生きる意味を与え、人生に目標を与えてくださる言なのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1:1)

誰かがその知らせを見つけるために、遠くまで出かけて行かなければならないということではありません。私たちの心の中に、私たちの口もとにすでに届けられているのです。ここに、私の唇に、心の中に既に来ておられるのです。ですから、私たちが、今ここで、「イエス・キリストを信じます。」と告白するだけで、私たちに神の救いが与えられるということです。救いは、遠くにあるのではない、難しいものではありません。

3.信仰と告白

後は、私たちがこの信仰の言葉を聞いて、信じるかどうかです。では一体信じるとはどういうことなのかということが次に記されています。
「口でイエスは主であると公に告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(10:9~10)とあります。

ここを読みますと、信仰の始まりは、口で告白して心で信じるとこのようです。9節も10節も同じことを繰り返し言っているような気がします。「イエスは主なり」つまり「イエス様は、私の主人です。わたしはこの方に従ってまいります。」と言う告白をすることです。もちろん心の中で、イエスの十字架と復活を信じていなければなりません。ある人は、人間は口が先で、それから心がついて来ると言っておりました。

ある意味で、人間は、この心と口でもって成り立っている存在だと言っていいかも知れません。信仰を持つには、この心と口の二か所で主を信じ、告白する必要があります。中には、「自分は心だけでイエス様を信じています。誰にも打ち明けないで死ぬまでひっそりと信じて行きます。」と言う方もおられるかもしれません。心で信じることによって、罪は赦されていますが、救われるまでには至っていないのです。

でも、人間は心と口なんです。心で信じただけでは、罪は赦されたかもしれませんが、まだ救われていません。でも、心と口が別々の人を、パウロが認めているかと言いますと、そうではなく、この心で信じて義とされ、口で告白して救われるということは同じことだということです。ですから、二回も繰り返して同じことを言っています。

心で信じることは、ある程度、誰でもできることかも知れません。でも、それを大勢の前で、公に言い表すということは勇気がいります。自分に不利益がかかってくるかもしれません。仲間外れにされるかもしれない、愛する人が遠ざかって行くかもしれない、もっと迫害が起こるかもしれない。そう思うと、心には信じていてもなかなか口で告白できるものではありません。

心配や恐れがあるかもしれません。でも、主を信じる時に、そして主を告白してゆく時に、主は豊かなる恵みを持ってその人を祝福して下さいます。「主を信じる者は、誰も失望することはない。」また、主はご自分を呼び求めるすべての人を豊かに恵んでくださると言っています。(10:11~13)

誰でも、ユダヤ人だろうが日本人だろうが、国籍関係なく誰でも、心でイエス様の十字架と復活を信じる人は救われます。口で、「イエス様は私の主です。」と告白して祈るならば救われます。この信仰の言葉は、あなたの口に、あなたの心にすでに届いております。神様は万民、すべての人が滅ぶことなく、主を心に信じて口で告白して、救いに入ることを願っておられます。(岡田 久)

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