ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

一つの祝福 (創世記25:27~34、27:18~27a)

メッセージ
2020年10月18日富里キリスト教会
「一つの祝福」
(創世記25:27~34、27:18~27a)

1.エソウではなく、ヤコブになれ

今日の物語の登場人物は、エソウとヤコブの双子の兄弟です。父はイサク、母はリベカです。本来でしたら、このイスラエルの信仰の先祖の名前は、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」となっていますが、本来ですと弟ヤコブではなく、兄のエソウの名前が来るはずでした。ですから血筋によれば、「アブラハム、イサク、エソウの神」となるはずでした。どういうわけか、長男エソウの代わりに次男のヤコブが信仰の先祖の系譜に数えられてしまいました。その理由が今日のお話の中にあります。

兄のエソウは狩りが上手で野山を駆け回っていました。そして父イサクは兄が取ってくる獲物が好物だったので、兄エソウの方をこよなく愛しました。逆に弟のヤコブは、穏やかな人で、テントの周りで静かに家畜を飼って過ごしていました。そして弟ヤコブの方を母リベカが愛していました。同じ兄弟でも、お父さんのお気に入り、お母さんのお気に入りがあったようです。ある日、兄エソウが狩りから帰ってきました。獲物がなかったのか、兄は空腹を覚え、テントで豆の煮物を調理していた弟ヤコブに「お願いだ、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れ切っているんだ。」(創世記25:30)と言いました。

すると弟ヤコブは、「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」といいました。そうしましたら兄は、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と言いました。するとすかさずヤコブは、「では、今すぐ誓ってください。」と言い、兄に長子の特権を譲ると誓わせてから煮物を渡しました。兄エソウは、後先を考えずに、自分の空腹を満たすために、安易に誓いを立てました。そしてレンズ豆の煮ものをかき込むようにして食べて、長子の権利を弟に譲ってしまったのです。(創世記25:31~33)

皆さんはどう思いますか?兄もよっぽどお腹がすいていたのだろう、「背に腹は代えられない」と兄エソウの軽はずみな行為に共感を持たれるでしょうか?あるいは、たかが一杯の食事のために権利を譲ってしまった愚かな兄だと考えるでしょうか。そうですね。兄のエソウは、祖父のアブラハムに、神様が与えたすばらしい祝福が何であったのか、全く気にもかけていなかったようです。それよりは目の前の、おいしい赤い豆のスープの方が食べたい、空腹の腹を満たしたい。そういう目先の自分の欲求に負けて、目に見えない神様の祝福を台無しにしてしまいました。

この長男の特権と言いますのは、祖父アブラハムに与えられた神様の豊かな祝福のことを言います。創世記12:2~3で主はアブラハムを祝福してこう言いました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」と。この祖父アブラハムの祝福を、父イサクが受け継ぎ、そして兄のエソウが受け継ぐはずでした。ところが肝心の長男が、その神の祝福を軽んじてしまったのです。

その結果どうなったかと言いますと、新約聖書のヘブライ書にこうパウロが記しています。「また、だれであれ、ただいっぱいの食物のために長子の特権を譲り渡したエソウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エソウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。」(ヘブライ12:16~17)と。
エソウは、長子の特権を軽視した結果、神の祝福を受け継ぐことができなくなりました。それだけでなく、みだらな者、俗悪な者となってしまったのです。クリスチャンとは言えない、信仰者とは言えない俗人に成り下がってしまったわけです。祝福は一つしかないのです。それを、その時に選び取るかどうか、あるいはヤコブのようにだましてまでも狡猾にそれを奪い取るかどうかです。

エソウは目に見えるもの、自分の欲を満たすことに必死でした。食べ物の誘惑に、肉の空腹の欲に勝てなかったのです。神の祝福よりは食べ物が欲しかったのです。どうしてでしょうか。それは、自分は長男だったからです。血筋の上では、神の祝福を受け継ぐべき特権を有していました。自分の血筋を信頼していたのです。自分の血統を誇り、地位の高さ、生まれの優位性、自分の体力、能力の高さを信じていたのです。エソウにとって神の力、神の知恵、神の祝福なんて必要ないも同然だったのではないでしょうか。そこが彼の落とし穴でした。

弟のヤコブは、確かに兄の特権を虎視眈々と狙っていたようです。それは弟が兄と競争したとか、祝福を盗み取るようなずるがしこい男だというのではなく、彼はこの目に見えない神の祝福を見ていたのではないでしょうか。今、目に見える必要ではなく、教会のこれからのこと、教会の目に見えない永遠に続く祝福を求め、それを一身に見ていたのです。自分は次男として、この神の永遠の祝福からは外されていると考えていました。その分、余計、彼は兄に与えられている先祖からの限りない祝福の大きさと偉大さを、誰よりも知っていたのではないかと思います。

先週、コヘレトの言葉で学びました。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。・・真に、人間が太陽のもとで心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた実に空しいことだ。・・生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、・・・人が労苦してみたところで何になろう。・・日は昇り、日は沈む、あえぎ戻り、また昇る。・・・何もかももの憂い。・・何という空しさ。・・・この世に起こることはすべて空しい。しかし、神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(コヘレト1~3章の中から抜粋)とありました。

ヤコブは目に見える必要、今、欲しいもの、今、食べたいものではなく、目には見えない永遠を思う心を持っていたのではないかと思います。この世の富、財産、地位、名誉と言った見える物質的なものは皆空しい、そうではなく、神から来る目に見えない霊的な祝福こそ、人生で最大の価値があるものだ。それ以外はすべて無であると感じていたのです。その神の永遠の祝福を選び取って行くのが、信仰の戦いではないでしょうか。そこに、神の祝福を受け継ぐ群れの姿があるような気がします。

エソウになってはいけません。ヤコブになって下さい。自分の都合で、神の祝福を軽視しないでいただきたいのです。祝福は一つです。霊の祝福を取るか、この世の事情を取るかです。永遠を取るか、現実の食べ物を取るかです。自分の都合や教会の都合で、神の霊的祝福を軽視してしまうようなエソウになって欲しくないのです。俗悪な人間、俗悪な教会になって欲しくないのです。見えない永遠の祝福を求めるヤコブになって欲しいのです。その決断に、教会の将来がかかっています。わたしは、富里教会がエソウになって欲しくはありません。ヤコブの教会になって欲しいです。

預言者エリヤは、ザレパテの寡婦のところに行って、自分のために水とパン一切れを造って食べさせてくれと言いました。するとその貧しい寡婦は、これから家に帰って、息子と二人で最後のパンを焼いて、それを食べて死のうとしていますと答えました。この貧しい寡婦にとっては、一握りのパン粉と瓶の中のわずかな油しかなかったのです。その最後の食事を預言者が求めました。おそらく迷いに迷ったことでしょう。でもエリヤの「壷の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」という言葉を信じて、まず預言者に最後の食事を造って与えました。するとそれ以来、この家の壷の粉は尽きることなく、瓶の油は欠くことはありませんでした。(列王記上17章)

預言者の語る神の言葉を信じて、それに従うところに神の祝福の基があります。寡婦はヤコブを選びました。自分たちの最後の一食を捨ててまで、御言葉を選んだのです。神の祝福を選び取ることは、ある意味では身を切るような痛い思いを経験するかもしれません。でもそういう経験を通して、神の祝福は力強く働くのです。祈らされます。助けの声をあげなければならなくなります。必死にみ言葉を求めて信じるしかない時があります。そういう痛みや苦しみを通して、はじめて神の祝福が限りなく注がれるのです。それが、ここで言う神の祝福であり、長子に与えられている特権なのです。

2.毛皮を手放すな

その後、父イサクは年をとって、いよいよ長男に自分の祝福を引き継がせようとします。創世記27:27~29節は、父イサクの祝福の言葉です。この時、ヤコブは、兄が父の好物の鹿肉を狩りに出かけたすきに、兄と入れ替わって、父の祝福を奪い取ろうとしました。そのために、母リベカと一緒になって、策略を用いて兄の変装をしました。兄のような毛深い腕に似せて、子山羊の毛皮を巻き付けました。そして、兄の晴れ着を母から出してもらい、それを着て、母が造った料理をもって父の前に出ました。そしてとうとう父の目と鼻と手触りをごまかして、まんまと兄に成りすまして、父の祈る祝福を奪い取ってしまったのです。

わたしは、兄エソウは血筋の立派なイスラエルの血統をひくユダヤ人で、弟はその祝福の系譜から外された異邦人のことを指しているのかなと思いました。弟のままでは、神の祝福をそのまま受け継ぐ権利はありません。そこで、あらゆる手段を講じて、兄に成りすましたのです。つまり神の祝福から外れた物、全くの部外者であり、縁のないものでありましても、自分の罪の体を、子山羊の毛皮と兄の晴れ着で覆うならば、たとえ異邦人でありましての神の祝福を受ける資格があるということです。

パウロもこう言っています。「『わたしはヤコブを愛し、エソウを憎んだ。』と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに『わたしは自分が憐れもうと思うものを憐れみ、慈しもうと思うものを慈しむ。』と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです。・・・「わたしは自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかったものを愛された者と呼ぶ。」(ローマ9:13~16、25)

たとえ兄に変装して、父の祝福を奪い取ったとしても、それは神様がはじめから、ヤコブを愛していたからなのです。神様の自由な選びによってヤコブは、祝福を受け継ぐ者となったのです。どんなに罪深いものでも、自分の肉の罪の体を、借り物の毛皮と晴れ着で覆い、人に作ってもらった料理を持ってゆくことによって、神の祝福を受け継ぐことができ者となるのです。

ある方は、この山羊の毛皮は、イエス・キリストの十字架の贖いだと言いました。動物の皮をとるためにその動物の犠牲が必要です。血が流されます。それほどに、イエス・キリストの贖いの力は大きいということです。自分の裸の罪の体、神の救いと祝福とは全く縁もゆかりもないものであっても、神が備えて下さったこの毛皮と晴れ着と料理を通して、常に神の前に祝福を受けてゆく者となることができるのです。神の祝福とは、この皮の毛皮と晴れ着を着せてもらった人のことです。ですから、この皮の毛皮と晴れ着を手放してはいけません。キリストの毛皮が、自分の肌にぴったりするまで、また兄の晴れ着をきちんと着こなすことができるようになるまで、ヤコブはさらにさまざまな試練と苦難を経験しなければなりませんでした。

父イサクはヤコブに、こう言って祝福の祈りを授けました。「ああ、わたしのこの香りは、主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が、天の露と地の生み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒をお前に与えて下さるように。多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ、お前を祝福する者は祝福されるように。」(創世記27:27~29)

神の祝福、それは天からわたしたちの上に豊かに降り注がれるものです。この濡れるほどの天の雫をわたしはこの山で経験しました。実際に朝起きて、庭もベランダも木も林も夕べの露で、ぐっしょりと濡れているのです。これじゃこの辺は、雨が降らなくても作物は育ちます。夜の露が地面を潤し、木々と作物を潤すのです。そして穀物とぶどう酒が与えられます。富里ではスイカと落花生と人参が空梅雨でも育つような気がします。それはこの天の露のせいです。

どうかこの毛皮と晴れ着を離さないでいましょう。イエス・キリストの贖いの十字架と神様の約束の言葉をしっかりと信じて、一歩一歩、歩んでまいりましょう。
毛皮を脱いでしまうと、わたしたちもエソウのような俗人になってしまいます。目に見えること、この世のことであくせくして、空しい人生を過ごしてしまいかねません。帰ってきた弟のように、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人同様にして下さい。」(ルカ15:18~19)と言って、父の前に出ましょう。あの帰ってきた放蕩息子のように、父の前にへりくだりましょう。毛皮を放さないで、しっかりと身に着ける信仰をもって歩みたいものです。そこに神の祝福が、天の露のように静かに降り注がれてきます。

3.祝福された人生とは

最後に、神に祝福されたヤコブの人生はどうだったでしょうか。祝福された人生とは、何の苦労もない、幸せいっぱい、いつも満たされた痛みもない楽しい人生という意味でしょうか?そうではありません。祝福された人生とは、ヤコブのこの後の人生を見てみれば分かります。
この後、ヤコブは兄エソウの怒りをかって殺されそうになります。そして、母リベカの知恵によって、自分の父の家を離れ、遠く叔父ラバンの家に身を寄せます。叔父のラバンは、ヤコブが父を騙したように、ヤコブを騙しました。ヤコブを21年間、無報酬で厳しく働かせました。そして娘のラケルを妻に与えると言いながら、姉のレアを代わりに与えました。その後に妹ラケルを与えました。その後ヤコブの家族は逃げるようにしてこっそりと家を出て故郷に帰ろうとしますが、
嫁の兄ラバンに連れ戻されます。

そして、やっとの思いで、実家に帰ろうとしますが、今度は兄エソウの追手に出会います。ヤボクの川のほとりで一晩中、格闘をするような激しい祈りの戦いをさせられました。ここでやっと兄エソウの怒りが解け、故郷に戻ることができました。しかし、そこでヤコブの娘ディナが異邦人と関係を持ったことにより、息子のシメオンとレビが、相手方一族を皆殺しにしてしまいます。父は、自分の息子たちの残虐な行為を目の当たりします。そしてその後、妻リベカの死という悲しみを経験をします。

また12人いた息子のうち、兄弟の反感をかった下から二番目の息子ヨセフが、エジプトの国に売り飛ばされてしまいます。兄たちは口裏を合わせて、弟はライオンに食われて死んだと嘘をつきます。ヤコブの生涯にはやはり嘘が付きまとっていました。そしてカナンの地の飢饉を迎えますが、エジプトに行ったヨセフによって、一族郎党エジプトの地に避難することになります。こうして、ヤコブは異教の地エジプトで死を迎えました。

これが神の祝福を受けた人間の一生です。あれほどまでに、嘘をついてまで手に入れた神の祝福です。正直言いまして幸福な人生、平穏な順風満帆の人生というにはほど遠い、波乱万丈の人生です。嘘という自分の罪の実を、最後まで刈り取らされるような人生です。夫婦の不和、家族の問題、子供たちの喧嘩、ヤコブの生涯は、苦労と骨折りと悲しみ悩みの連続でした。いったいどこに、ヤコブの受け継いだ祝福があったでしょうか。

強いて言いますならば、神様の祝福とは、しあわせな人生、苦労も悩みも悲しみもない人生ではなく、それらを通して、与えられる神の祝福と恵みではなかったでしょうか。何か目に見える結果とか成果とか実を結ぶ人生ではなく、どんな苦労や悲しみや痛みの中にあっても、いつもそこに主がいて下さったということ、これがヤコブに与えられた神の祝福ではなかったでしょうか。一人旅をして、死を覚悟して石を枕に死を覚悟する時に、神様は天使を遣わして天まで通じる梯子を見せ、天国の門を示されました。

死を目の前にして、川のほとりで必死に神と祈りの格闘をしました。その結果、兄の怒りと報復を免れさせていただきました。いろんな試練や苦しみや絶望の中にあっても、必ずそこに神が共にいて下さったということです。それが只一つの神の祝福のような気がします。「しかし、わたしにとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。わたしは、神なる主をわたしの避けどころとし、あなたのすべての御業を語り告げましょう。」(詩編73:28新改訳)祝福された人生とは、苦難や悲しみがない人生ではなく、苦難と共に、苦難を通して、常に主が共にいて下さる、これが祝福された者の人生ではないかと思うのです。
                            (岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional