ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

一つの体をめざして (Ⅰコリント12:12~26)

メッセージ

2014年2月16日富里キリスト教会

「一つの体をめざして」
(Ⅰコリント12:12~26)

1.霊の賜物の多様性と一致

スチュワードシップと言いますのは、神様からの「恵みの賜物の良き管理人」と言います。執事のギリシャ語のもとの言葉は、デアコニアと言います。デアは「通る」、コニアは「埃」です。ですから、埃をかぶる仕事に専念すると言いますか、教会の細かい運営や予算や管理、そして埃をかぶって人に仕える働きを担う人という意味です。これは、いくら自分がやりたくてもできません。神様からそういう霊の賜物をいただかないとできないのです。

前にも学びましたが、教会にはいろんな霊の賜物が与えられています。12:28にこうあります。「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者等です。」

第一に使徒とありますが、これは十二使徒のことを本来言っておりますが、始めて福音を宣べ伝えた人でしょうか。それから、預言者、宣教者が来て福音を宣べ伝えました。3番目に、教師ですから教会学校のリーダーやスモールグループのリーダーといった、御言葉の教師がきます。これはパウロが、第一、第二と言っているように、順番が大事ですから注意して下さい。次に奇跡を行う者、癒しをする者、援助者、管理者、異言を語る者と続きます。

教会もそうです。教会建物の管理をする人、献金の計算をしたりお金の出し入れをしたりする者、病気をいやしたり、悪霊を追い出したり、病気や貧しい人々に援助の手を差し伸べることを喜びとする人など、いろいろあります。役員も総務、会計、伝道、礼典、教育と奉仕の分担があり、教会学校やスモールグループのリーダーの働きもあります。そのほか、お花、お掃除、週報印刷、奏楽、賛美などいろんな霊の賜物が教会に与えられております。

でも、それらの働きがいろいろありましても、そのめざすところは一つです。様々な奉仕が与えられ、それが発揮されているのは、私たち富里キリスト教会が一体となるためなのです。12:12を読んでみましょう。「体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つのからだとなるためにバプテスマを受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。」

いろんな教会の奉仕があっても、その教会の奉仕の働きを与えてくださるのは、一つの霊によってバプテスマを受け、一つの霊によって様々な賜物が与えられているのです。もとは同じだというのです。そして教会というものをパウロは人間の体にたとえています。体の中に多くの部分があるように、教会にも多くのいろんなさまざまの部分があります。だけども、その部分、部分は一つの体に属しています。そして、この教会という大きな群れの全体が、キリストのからだだというのです。イエス・キリストは目に見えませんが、教会に来てみれば誰の目にもはっきりと、これがキリスト教か、これが天国か神様かというのがわかります。それは私たちの愛の交わりを通してです。

ここで、わたしたちもしっかりと覚えておかなくてはいけないことがあります。この富里キリスト教会は、まぎれもなくキリストのからだだということです。イエス様は目に見えませんが、地上における目に見えるキリストのからだ、それが教会なのです。教会は単に人が集まって、何か忙しく活動している団体ではありません。地上では姿を見ることができませんが、今日も生きて働いておられるキリストの現実の形が教会なのです。それは交わりと働き務めの中にあらわれてきます。一つの霊によって始まるものです。

いろんな霊物が現れるのは、自分を誇ったり比較競争したりするのではなく、あくまでも、教会全体のためなのです。どんな奉仕も働きも伝道も、教会全体の益プラスにならなければやらない方がいいのです。ですから教会員の方はいつも、教会全体のプラスになっているのか、自分のスタンドプレイではないのか、誰か蔭で悲しんでる人がいないかどうかに細心の注意を払っていただきたいと思います。このことで子供であってはいけない。もっと牧師や牧師夫人の視点を持ってほしいと思います。キリストのからだなのですから、一つの体をめざさなければなりません。それが教会の存在する意義であり、その一体感が伝道する力とエネルギーになるのです。

2.教会は弱い部分、見苦しい部分が必要です

更にパウロはこう言っています。
「目が手に向かって『お前はいらない』とは言えず、また、頭が足に向かって、『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(12:21~26)

パウロは教会というキリストのからだの中では、他よりも弱く見える部分が必要なのですと言っています。さらに、かっこうが悪い部分や見劣りのする部分が必要です。なぜならば、そういう劣っている部分を、からだ全体でカバーしてよく見せようとするからです。体の働きとはそういうものです。弱い器官、生涯のある部分を一生懸命治療したり、リハビリをしたりして全体がよく動くようにします。キリストのからだである教会は、代わりがないのです。あなたは要らないから別の人を、ということは出来ないのです。神様が備えて下さっている人を、他の部分がカバーしたりサポートしたりしてきれいにするのです。

むしろ、教会ではそういう見劣りのする部分、かっこうが悪い部分、弱い部分の方が、強い部分や格好いい部分や引き立っている部分よりも大切なのだと言っています。なぜならば、その弱い部分を皆がカバーすることによって、最初から問題がない教会よりも、いっそう強いきずなが生じるからです。みんなが、その弱い部分を気にかけ、声をかけ、励まし、助けることによって愛という絆がしっかりと結ばれるからです。これが真の教会の姿です。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(12:26)

ここに教会の力があるような気がします。カウンセリングとかいろんな技術よりも、共に苦しみ、共に喜ぶ仲間がいるということです。共に悲しみ、共に苦しみ、共に喜び、共に讃えあう共同体です。(東日本大震災の犠牲者のシンポジウムでの出来事の例)25節に「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」と言っているとおり、分裂の無い、真に一体となった教会になるためには、弱い人が必要なのです。格好悪い人が必要なのです。見苦しい部分、見劣りのする部分が必要なのです。そういう人が支えられている教会、そういう人がカバーされている教会、これがキリストの教会なのです。

人は、長い信仰生活の中で時には迷う時もあります。あっちの教会がいいんじゃないだろうかと。でもどこへ行っても、問題はあるのです。愛せない人がいる、赦せない人がいます。でもそういう人の弱さを、愛と忍耐を持ってカバーして行くところに私たちの信仰のテストがあるのです。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」(ローマ15:1)

いつ主の御もとに召されてもいいように、自分の罪、過ちをちゃんと始末しておくことです。人を赦さないという大きな罪を持ったままでは天国に行くことは出来ません。毎日毎日、熱心に悔い改めましょう。そして、主の御霊に満たされて、天に帰られるまで精いっぱい主に仕えて行くことです。(岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional