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ヨシヤ王の宗教改革 (列王記下11:1~11)

メッセージ

2011年3月6日富里キリスト教会
「ヨシヤ王の宗教改革」
(列王記下11:1~13)
1.子供を王として育てよ

ヨシヤ王の父アモンは、2年間しか王位につきませんでした。アモン王は真の神を捨てて偶像礼拝に走り、そのために自分の家臣に謀反によって殺されてしまいました。しかし、この謀反を企てた者たちを「国の民」といわれる信仰的なグループの人々が討ち果たして、正当な王位継承者としてアモンの息子ヨシヤを第16代目の南王国ユダの王として立てました。(列王記下21:19~24)当時は、乱世下克上の時代です。ヨシヤが王位に着いたのは、わずか8歳、小学校の2年生の子供でした。しかし、彼はこの時に養育してくれた信仰的な周囲の人々のお蔭で正しく成長しました。

22:2節に「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった。」とあります。たった8歳の子供が、正しいことを行なったとありますが、これはおそらくヨシヤを王位に継がせた「国の民」の人々の働きではなかったかと思います。「国の民」は自分たちが政治の実権を握ることが出来たにもかかわらず、ダビデの直系の幼子を王に選び、この子にダビデの信仰の継承を託しつつ教育したのです。ヨシヤ王を王として支えた人々として、22章には大祭司ヒルキヤ、書記官シャファン、シャファンの子アヒカム、王の家臣アサヤ、ミカヤの子アクボルと言った5名の側近の名前があげられています。

南側は、このようにしてダビデ、ソロモンの信仰を受け継ぐ流れがありました。それがこの「国の民」と呼ばれる人々ではなかったでしょうか。私たちも、子供達に信仰を継承してゆくことの大切さがここにあります。たとえ、今子供達が少なくとも、教会には子供の声が聞こえ、子供の賛美が流れ、子供に聖書の話をする者が必要です。たとえ子供であっても、たった一人しかいなくても私たちも、神様からあずかった子供を次の世代の信仰の担い手として正しく養い育ててゆく必要があります。たった一人の子供でありましても、その国の明暗を握っているのです。

2.神殿を修復せよ

このようにして育てられたヨシヤ王は、治世の18年目に神殿の修復作業を行ないました。善王ヒゼキヤ以来、60年近く神殿の補修がなされていませんでした。壁は落ち、柱はひび割れ、床も汚れたり傷がついたりしていました。それだけ、神殿での礼拝がおろそかにされていたということです。神殿に来て礼拝を捧げる人はまばらで、荒れ放題になっていました。ヨシヤ王は、書記官シャファンを大祭司ヒルキヤのところに遣わして、神殿の修復復興に取り掛かるようにと命じました。王位についてから18年目のことでした。

A.会計監査はいらない

その時にこう言っています。4節から読んでみます。「大祭司ヒルキヤのもとに上り、主の神殿に納められた献金、すなわち入り口を守る者たちが民から集めたものを集計させなさい。それを主の神殿の責任を負っている工事担当者の手に渡し、更に神殿の破損を修理するために主の神殿にいる工事担当者に渡しなさい。すなわち職人、建築作業員、石工に渡し、神殿修理のための木材や切石を買わせなさい。ただし、彼らは忠実に仕事をしているから、彼らに渡した金の監査は必要ではない。」

つまり献げられた献金を集計して、それで神殿の破損を修理するために工事関係者に渡し、材料を買わせなさいと命じました。その時、会計監査はいらないと言いました。これは王が、祭司や工事関係者を信頼していて、かれらが不正な経理をしていないということを信じているからこそ、そのように言い送ったのではないでしょうか。まずヨシヤ王が手がけたことは、壊れ果てた神殿の修理からでした。しかもその修理工事には、一切の不正やごまかしがなく誠実にその仕事が施工されたのです。

もし、私たちの心の神殿が腐っていたり、壊れていたり、くもの巣が張っていたりしているならば、直ぐにでもこの神殿を修理する必要があります。その時に、神様が会計監査をしなさいと言われたら、なんと答えるでしょうか。神様の前に不正なことはないと言えるでしょうか。お金の出し入れにおいて、神様の前に正しい心で捧げていると言えるでしょう。神様に命じられたとおりの生活をしているでしょうか。神様は私たちに、監査は必要でないと言って信頼してすべてのものを与えて、その予算の運用を任せておられることを覚えたいと思います。

B.神の神殿としての体

次にどのようにして神殿の修復をするかを、私たちの現実の生活に当てはめて考えてみたいと思います。あるサラリーマンのクリスチャンの方がこう言って嘆いておりました。「私は朝、目覚し時計に起こされ、急いで服を着替え、トーストを口にくわえたまま玄関を飛び出します。職場ではあわただしく働き、仕事以外のことを考える余裕もありません。仕事を終えて帰って来るともうくたくたです。コンビニで買って来た弁当を食べて、布団へもぐりこむ。そして、今日もデボーションの時間(神様に祈り、神様の声を聞く時間)が持てなかったことを悔やんでしまうのです。

神様の神殿として、私の体はもうボロボロです。祈りもしていません。聖書も読んでいません。心の中はあちこちにひびが入り、長い間、壁が崩れ落ちてくもの巣がかかっています。こんな生活が、もう何年も続いているのです。何とかしなければと思いながら、毎日の生活と仕事に追われて気持ちばかりがあせってしまうのです。神様と交わる聖なる時間、神の神殿として選ばれながら、何年も神殿の働きを怠ってしまっている自分に情けなくなります。」と。私たちの心の神殿の修復作業は済んでいるでしょうか。ヨシヤ王がまず第一に手がけたことは、この神殿の修復でした。私たちも、自分の体である神殿の修復作業を始めなければなりません。これが、私たちの宗教改革です。

私たちの体は、単なる体ではありません。パウロはこう言っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(1コリント6:19)私たち、一人一人は主の霊が宿るところの神殿だと、パウロは言っています。それは、不正がない心、神様の前に真実で正しい心を持って日々生活しているかどうかということです。そして、日々御言葉を求めながら祈りの捧げものしているでしょうか。

3.御言葉の発見

ヨシヤの宗教改革はまさに、この祈りを献げるべき神殿から開始されました。そしてこの主の神殿の修復作業が行なわれている最中に、律法の書が神殿の中から発見されたのです。これは第4代目の王ヨシャパテ以来の大発見でした。(歴代誌下17:9)実に250年間に渡って、律法の書がユダの国から消えていたのです。その間、かろうじて「国の民」によって神の教えが口頭で伝承されて来ていました。ですから、この律法の書の発見は、まさに大発見でした。

22:10に「さらに書記官シャファンは王に、『祭司ヒルキヤがわたしに一つの書を渡しました』と告げ、王の前でその書を読み上げた。王はその律法の書の言葉を聞くと、衣を裂いた。」(22:10~11)とあります。そして、
19節のところでは「あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、私の前で泣いたので、私はあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる」とあります。

ここで、私が強調したいのは、律法の書、すなわち神の御言葉は、神殿の中にあるということです。そしてその神殿の中から発見されたということです。これはどういうことかと申しますと、私たちが、自分の心の神殿を主の前に整え、清めてゆく時に、そこに神の御言葉が見出されるということです。つまり、いくら手元に立派な聖書があっても、私たちが自分の心の祭壇を聖め、日頃から神様を賛美したり、感謝したり、願いをしたりして祈っていないと御言葉を見つけることはできない、御言葉の発見はないということです。祈りによって、御言葉が光を放って私たちの心の中を照らしてくれるのです。(詩編119:130)

聖書は絶えず発見され続けなければならないのです。イエス様も「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。」(マタイ13:44)と言いました。隠されている宝物を捜し求めなければならないのです。そのためには、まず、神殿の修復が必要です。つまり、私たちの生活の宗教改革です。忙しい生活や偶像礼拝に心を奪われているならば、そういうこの世の思い煩い、この世的な欲といった偶像を心の中から一掃しなければなりません。

同じ時代の預言者エレミヤはこう言っています。「『立ち帰れ、イスラエルよ』と主は言われる。『わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものを私の前から捨て去れ。そうすれば再び迷い出ることはない』」(エレミヤ4:1)と。また「あなたの御言葉が見出されたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、私の心は喜び踊りました。」(エレミヤ15:16)と。

私たちもヨシヤ王のように自分の心の宗教改革に取り組もうではありませんか。まず、神の霊の宿る神殿である私自身の体を、主に献げましょう。今日から、まず主の前に心へりくだり、罪を告白し、御言葉を求めて祈ることによって、心の神殿の修復に取りかかりましょう。(岡田 久)

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