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ペテロの涙 (ルカ22:54~61)

メッセージ

2014年3月16日富里キリスト教会

「ペテロの涙」
(ルカ22:54~61)

1.イエスを否定したペテロ

「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペテロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペテロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言った。しかし、ペテロはそれを打ち消して、『わたしはあの人を知らない』と言った。少したってから、ほかの人がペテロを見て、『お前もあの連中の仲間だ』と言うと、ペテロは、『いやそうではない』と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、『確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから』と言い張った。だが、ペトロは、『あなたの言うことは分からない』と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。」(ルカ22:54~60)

ゲッセマネの園で、役人や祭司長たちに逮捕された主は、大祭司の家に連行されて行きました。その時、一緒に座っていた大祭司の家の女中の一人が、ペテロの顔をまじまじと見ながら、「この人も、今逮捕されたあの人と一緒にいたようだ。」と言いました。するとペテロが「わたしはあの人を知らない。」と否定しました。また、他の人からも「お前もあの仲間だ。」と言われ、それも彼は否定して、「そうではない。」言い張りました。

マルコの方では、女中に対して、「『あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない。そんな人は知らない。』と呪いの言葉さえ口にしながら、誓い始めた。」(マルコ14:68、71)とあります。ペテロは、自分は知らない、関係ないといったばかりではなく、イエスを呪う言葉を口にしながら、そして神に賭けて誓うと宣言して、イエスとの関係を否定したのでした。

ついさっきまで、「先生、先生」と言って一緒に過越しの食事をし、弟子のリーダーとして、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはあなたにつまずきません。また、たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(22:33)と胸を張ってみんなの前で言っていたのです。それなのに、たった数時間も経たないうちに、イエスと関係ない、知らないと皆の前で言い張ったのです。人間は、いざとなったら心ではそう思っていても、口では別なことを言ってしまうことがあります。しかも狂ったように、「イエスなんか知らない。神に誓って言う、あんな人間なんかと関係ない。あんな奴なんか、神に呪われても仕方のない奴だ。」と呪いながら、激しく誓いながら否定したとマルコには書いてあります。

2.振り向いて見つめられた主

三度にわたって、主を知らないといったペテロの顔を、連行される途中に主は見つめられます。60節から読んでみましょう。「だが、ペトロは、『あなたの言うことは分からない。』と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(22:60~62)

そして、主は振り向いてペテロを見つめられました。この「主は振り向いてペテロをみつめられた。」と言う言葉は、ルカによる福音書だけに記されています。
イエス様が振り返って、ペテロを見つめられた瞬間です。どんな眼差しだったでしょうか。怒りに満ちたまなざしだったでしょうか。最愛の弟子に裏切られたまなざしだったでしょうか。あるいは悲しみに満ちた視線だったでしょうか。慈しみに富んだまなざしだったでしょうか。これはペテロ以外に分からないことです。この福音書を書いたルカは、後で、ペテロからその時のことを聞かされたのかもしれません。

そういう弱いペテロ、自分中心のペテロ、自己保身に走ってしまうペテロであっても、主はわざわざ振り向いてペテロを見つめられました。真っ暗闇の中で、そして多くの人ごみの中で、後ろを振り向かれたイエスの目と、今、完全に主を否定した裏切り者の弟子の目と目が会いました。その主の慈しみに富んだ眼差しを見たペテロは、一つの言葉を思い出しました。それが、「今日鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」と言った主の言葉でした。主は、ペテロがこうなることはご存じだったのです。

戻ってみてみましょう。ルカ22:31からの御言葉です。「『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』するとシモンは、『主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでも良いと覚悟しております。』と言った。イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』」(ルカ22:31~34)

この主の「今日鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」と言う言葉を思い出したのです。それは、主を裏切ること、主を否定することを完全に予告した言葉でした。でも主はその前にこう言っています。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」と。

たとえペテロが、イエスを三度も主を否定して、完全に信仰を捨て去ったように思えても、それでも、主はあなたのために信仰が無くならないように祈ったと言われたのです。ご自分を裏切り、否定し、信仰を捨ててしまうようなことがあっても、イエス様は、そのような弱いペテロのために、またペテロのような私たちのために、信仰が無くならないように祈っていて下さるということです。これが後ろを振り返った主の眼差しの意味するところではないでしょうか。

主の晩餐式の時にも、イエス様はペテロに、「わたしがあなたの足を洗わなければ、あなたと私は何の関係もない。(ヨハネ13:8)」と言いました。イエス様と私たちを結んでいる唯一の絆は、この一点です。主イエスが今も私の汚れた足の裏、罪の汚れを手拭いで洗っていて下さるということです。もし、そうでなければ、あなたと私は何の関係もないあかの他人だとおっしゃったのです。これが、私たちとイエス様を結び付ける唯一の接点です。このこと以外に、私たちは教会に来る必要も礼拝に来る必要もありません。イエスが私の罪を今も洗い流し拭い取っていて下さる、そして永遠に(過去、現在、未来に渡って)そのようにして下さるお方なのです。

そして主は、そのような弱いペテロ、弱い私たちのために信仰が無くならないように、執り成しの祈りを献げて下さっておられるのです。今もなお。わたしは決してあなたを責めることはない、あなたを愛している、あなたをどこまでも見捨てず、いつも共にいてとりなしているのだよと。そのために、これから十字架へと向かうのだ、あなたの罪を贖い、あなたを赦すために先に進む。そして、あなたの足をどこまでも洗い続けると晩餐式の時に言ったではないか。わたしがあなたの足を洗わなければあなたとわたしは何の関わりもないのだから。さっきまで一緒におられた主の御言葉が、次々とペテロの頭に走馬灯のように浮かび上がって来たのではないでしょうか。

3.ペテロの涙

振り返って主は、じっとペテロを見つめられました。その愛に満ちたまなざしは、いろんなことを語ってはいましたが、ペテロはその主の一瞬の眼差に目と目が会いました。見つめる主イエス。知らないと言ってしまった哀れな弟子。ペテロは、この主の凝視に耐えきれずに、思わず表に飛び出してしまいました。そして、一人暗ガリに飛び込んで男泣きに激しく泣いたのです。そして、これがイエスとペテロの地上での最後の別れとなってしまいました。

ペテロはいろんな主の思いを、あの一瞬の眼差しの中にみて取りました。そして、その愛の眼差しに耐えきれなくなって表に飛び出してしまったものの、自分の弱さ、自分自身の罪深さ、自分のふがいなさに悔し涙があふれて来たのではないでしょうか。そして、そういう自分をもどこまでも赦し、とりなしていて下さる主の愛の眼差しにうれし涙を流したのではないかと思います。

ペテロは今夜ほど、自分の罪、傲慢さ、子供っぽさを示された夜はありませんでした。それと同時に、そういう自分をどこまでも愛し、赦し、とりなしていて下さる主の慈しみに触れた夜はありませんでした。ペテロは今までいろんな失敗をして、イエス様からいつも諭されて来ました。でも、今夜の出来事を通して彼は、初めて生まれ変わったのです。この夜の涙こそ、彼の人生を決定的に変えた出来事でした。

この夜の涙の体験があったからこそ、彼は、新しく生まれ変わることができたのです。自分の罪という心の暗闇を通されたからこそ、彼自身も主と共に十字架につけられて、古い肉の自分、弟子の中で一番になろうと必死に頑張ってきた自分に、主と共に死ぬことができたのです。同じ弟子の一人であったイスカリオテのユダに対しても、主は「友よ。」と言って最後の最後まで愛し通されました。しかし、彼はこの主の眼差しを振り払って、闇の中に消えて行ってしまいました。本来罪人の弱い私たちが帰るべき場所を見失ってしまいました。

今もこの主の眼差しは私たちに向けられております。主は振り返ってわたしたちをご覧になられました。死んでもあなたに従いますと告白しながらも、主を否定してしまう弱い私たちです。それでも、どこまでもそういう私たちを愛してやまない主の眼差しは、今も私たちの上に注がれております。この主の眼差しは、私たちを捉えて離すことはありません。        (岡田 久)

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