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プライドを捨てる (フィリピ2:1~11)

メッセージ

2015年11月8日富里キリスト教会

「プライドを捨てる」
(フィリピ2:1~11)

1.自分のプライドには気がつかない

富里教会に来る前に、アメリカに帰られた宣教師の方を尋ねてシアトルとアラバマの方に旅行したことがありました。全部訪問を終えてあとは日本に帰るだけというアラバマのバーミンガムの空港で一つの出来事がありました。飛行機に詰め込むスーツケースの計量をしてもらいました。そうしましたら重量がオーバーしているというのです。2.3キロくらいでした。その時黒人の係りの人が、無愛想な声で「オーバーしている。」と英語で言いました。私は、「もしそのまま載せたら超過料金はいくらか。」と尋ねました。そうしましたら50ドルかかるというのです。

その時素直に、「じゃあどうすればいいですか。教えてください。」とか、「スーツケースから荷物を取り出します。」と言えばよかったのですが、つい自分は日本人でお金持ちだというプライドが、どういうわけか湧いて来たのです。そして、50ドルくらいなら無いわけではないので、つい「超過分、払います。」と言ってしまったのです。その頃ちょうど、バーミンガム市に今度「ホンダ」の自動車工場ができるということで、自分もついホンダの社員になったような気持ちになってしまったのです。確かに、50ドルと聞きますと、日本人の感覚では500円位ではないかとつい思ってしまいますが、実は5千円です。後で飛行機の中で、「失敗したなあ、あの時スーツケースから本を取り出せば50ドル払わなくても良かったのに・・・。」と悔しい思いをしましたが、後の祭りでした。

ではどうして尋ねることができないのでしょうか。それはプライドがあるからです。わたしは日本人だ、お金持ちだ、といったような見せかけの誇りがそうさせるのではないでしょうか。プライドという言葉を英語で見てみますと、PRIDEと書きます。つまり、この言葉の真ん中、中心に「Ⅰ」という字が入っています。つまりプライドの正体は、「Ⅰ=アイ」、つまり自分が中心だということです。自分はお金持ちだ、自分は優秀だ、自分は正しい、自分は悪くはない、由緒ある人間だと自分を誇ること、これはプライドの正体ではないでしょうか。

2.宗教的なプライド

また、今日は教会学校で、旧約聖書の預言者エレミヤのお話をさせていただきました。南王国ユダでは、南のエジプト王国、東のバビロニア帝国の両方に挟まれて、どちらに帰属すべきか大いに揺れていました。エレミヤは、バビロニアの支配は、ユダに対する神の罰と懲らしめであるから、静かにバビロンに服従して、神の懲らしめを十分に味わい尽くし、心から神の前にへりくだることを説きました。そして心から悔い改めて神に立ち帰るならば、神御自身がバビロンの支配と捕囚から解放してくれる日が来ることを待ちなさいと訴えました。

ところが自分達こそ神に守られている国であると言って、自分たちの罪と悪を悔い改めずに、徹底的にバビロンに抵抗するように説いた愛国的な偽預言者たちもいました。彼らは、ユダの祭司であり預言者ですが、自分たちの罪や過ちを一切悔い改めることなく、楽観的に神の勝利を叫んで民を勢いづかせてバビロンからの独立を叫びました。その結果、国の進路を誤らせて、ユダの王ゼデキヤの時代にエルサレムは完全に崩壊してしまいます。そして王は両目をえぐられて、足枷を架けられたままバビロンまで連行されたのです。神を信じているが故に、逆に高慢になり、自分の罪を悔い改めることなく、神の御心と自分の意志を混同してしまって、自ら破滅へと向う結果となってしまいました。

人はなかなか自分のプライドに気が付かないと同時に、宗教者であるが故に、かえってかたくなになり、自分の非、自分の罪、自分の過ちを認めることが難しい場合があります。どうして神を信じている者が、逆に神を認めない行動に走ってしまうのでしょうか。それは唯一つ、「罪を悔い改めない」からです。悔い改めのない信仰の故に、宗教がその人をかえってかたくなにしてしまっているのです。自分は正しい、自分は間違っていない、自分は完全だ、自分は聖い人間だという自己中心的な信仰が、高慢にし気位を高くさせ、その人を滅びへと導いてしまうことがあります。

「若い時に軛を負った人は幸いを得る。軛を負わされたなら、黙して独り座っているがよい。塵に口をつけよ。望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ。十分に懲らしめを味わえ。主は決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめられても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。」
(哀歌3:27~33)

牧師の駆け出しの頃、いろんな出来事を通してわたしのプライドも面子もズタズタに傷つけられたことがありました。でも哀歌の御言葉に励まされて、乗り越えることができたような気がします。今考えれば、自分の心に大きなプライドがあったなあと思います。

3.どうしたらプライドを捨てることができるか

どうしたらこの自分のプライドを捨てることができるでしょうか。人間はプライドを持った生き物だと言ってもいいほど、みんなプライドで生きているようなものです。でもプライドというのは、Ⅰ=自分中心の性格です。自分というものが心の中にでんと座っているようなものです。このプライドを捨てるためにはどうしたらいいでしょうか。

それはやはり、わたし達の主であるイエス様の生き方に学ぶしかないのではないでしょうか。フィリピ2:6にありますように、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、返って自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)

この私たちの救い主であり罪の贖い主であるお方が、まずご自身へりくだってくださり、わたし達のところまで肉を取って来て下さったところに、神様の愛とへりくだりがあります。このお方が、わたし達のために自ら空しくなり貧しくなり、へりくだって下さったからこそ、わたし達に救いが与えられたのです。この方の生き方を見習って模範として歩むことが大事ではないでしょうか。
このお方を知り、このお方に学べば学ぶほど、自分の中には何も人に対して優越感をもったり、よく見せようと見栄を張ったりする必要はなくなります。

けれども、なかなか人間のプライドは、そう簡単に捨てられるものではありません。そのために人は時にはつまずいたり、傷つけられたりしながらでも、神様の本当の愛を知って行くのではないでしょうか。やはり自分自身の弱さとか欠点を知らなければ、神様の愛、へりくだり、憐れみというものを知ることはないのではないでしょうか。そして人生には、いやなこと、苦しいこと、辛いこと、寂しいこと、悔しいこと、泣きたいことなどいろんな出来事があります。でも神様はそのことを通して私たちに、プライドを捨て、自分を捨てることを教えられるのではないでしょうか。最近聞いた讃美歌で、すばらしい歌詞の歌がありますので、それを最後に紹介して終わりたいと思います。

<すべてを通し> Through it all

多くの涙と悲しみ 明日への疑問
善悪の判断ができず迷った時
でも神様はどんな時でも、わたしに祝福に満ちた慰めを与えてくれました
どんな試みもわたしを強くするだけだということです

多くの場所 多くの人との出会い
そこでもわたしは孤独をしばしば感じます
たとえ私が一人ぼっちの時でも
それはとても貴重な孤独の時間です
わたしが主イエスのものだということを知るための時です

すべてを通し、すべてを通し
イエスに頼り 神を信頼することを学びました
すべてを通し、すべてを通し
御言葉により頼むことを学びました

高い山を苦しみながら登る時も感謝します
落ち込んで暗い谷を行く時も感謝します
主がわたしをくぐらせた嵐の時も感謝します
もしわたしに何の悩みも問題もなかったなら
主が解決して下さるということさえ知らなかったでしょう
信仰が何事も可能にするということさえ知らずにいたでしょう
だからわたしは歌います

すべてを通し すべてを通し
イエスに頼り 神に信頼することを学びました
すべてを通し すべてを通し
御言葉により頼むことを学びました

神様は、わたし達が自分というプライドを捨て、まったく無になって、主に従い、主の御言葉に信頼させるために、いろんな嵐や試練の中を通させられます。でもどんな嵐も試練も、山や谷も決して無駄だったということはありません。わたし達が完全に主に従うことができるようにするための訓練なのです。人生のどんな時でも、主はわたし達を愛をもって訓練し教えて下さっておられます。ですから、まず主の前に自分の罪を認め、悔い改めてへりくだりましょう。そこから主を見上げて、新しく歩み出そうではありませんか。

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