ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

ヒゼキア王の涙と祈り (列王記下20:1~11)

メッセージ

2011年2月13日富里教会
「ヒゼキヤ王の涙と祈り」
(列王記下20:1~11)
1. はじめに

ヒゼキヤ王は、主に神殿の宗教改革を通して、ユダ王国に祈りのリバイバルをもたらした王様です。一方、ヨシヤ王は神殿で律法の書を発見し、神の御言葉に民を立ち返らせることによって、御言葉のリバイバルをユダ王国に巻き起こした王と言ってもいいでしょう。

ヒゼキヤは、その生涯の中で、三つの大きな出来事を経験しています。一つは、祈りのリバイバルによる神殿での宗教改革、二つ目は祈りによってアッシリヤの大軍を打ち破ったことです。そして、三つ目は、今朝取り上げました彼の晩年に起こった死の病いの出来事です。その時も王は、涙を流して祈り、主に助けを求めいやされました。

2.涙の祈りに答えてくださる主 

今朝は第三番目の祈りについて学びます。その祈りの力がどんなに大きなものであるかと言うことを、今朝は見てみたいと思います。ヒゼキヤはある時、自分が不治の病にかかっていることに気がつきました。預言者イザヤも彼の死を予告しました。ヒゼキヤはその時、宮殿の中で、壁に顔を向けてこう祈りました。「ああ、主よ、私がまことを尽くし、ひたむきな心を持って御前に歩み、御目にかなう善いことを行なってきたことを思い起こして下さい。」(列王記下20:3)と。そして、涙を流して大きな声で泣きながら祈りました。

あれほど神に忠実に仕え、命がけで改革をし、必死に祈り続けて来たのに、何の病か知りませんが、彼は死の病にかかってしまいました。なぜ自分が今ここで死ななければならないのだろうか、そう思ったに違いありません。「壁に向って祈った」ということは、自分の部屋で、神に対して個人的に集中して祈りをささげたということです。王が涙を流すことは恥ずかしいことですが、なりふりかまわず、自分の真実の気持ちを神の前に注ぎ出しました。

すると、この祈りが神の元に届いて、王宮の中庭を帰ろうとしていたイザヤに、直ぐに神の言葉が臨みました。実に素早く神様は王の祈りに答えてくださいました。私たちが涙を流して真剣に祈る時、その祈りは直ちに主の耳に届きます。

この王の祈りに対して、主はこう言いました。「わたしはあなたの寿命を15年延ばし、アッシリヤの王の手からあなたとこの都を救い出す。私は私自身のために、我が僕ダビデのために、この都を守りぬく。」(20:6)と。神様がこの都エルサレムを守ったのは、ヒゼキヤの涙の祈りもありましたが、それにもまして、あくまでも神様ご自身のために、そしてあの僕ダビデのためにこの神の都エルサレムを守るためだとおっしゃいました。

神様には、人間の寿命をコントロールすることも、神の都エルサレムを敵の手から守ることもおできになるお方なのです。ヒゼキヤが、ヨシヤが、エリヤが、エリシャが祈ったのは、彼らの熱心ではなく、この神様御自身の熱心、神様の熱情、神のパッション(情熱)のためだったのです。この神様御自身の熱情、神様御自身の大義の故に、神御自身が自分の義をもって神の都を守りぬくということを私たちは覚えたいと思います。それが私たちの祈りです。

3.へりくだった祈り

実はこの後、ヒゼキヤは大きな失敗をしてしまいます。それは、はるばる外国のバビロンからの使者が、ユダの国に賜った神の多くの奇跡と祝福を、ヒゼキヤ王の病気見舞いと偽って偵察にやって来たのです。ヒゼキヤは、得意になって病気見舞いに来たバビロンの王の使者達に、ユダの国の全ての財宝、金、銀、武器や戦車まで全部見せてしまいます。(列王記下20:12~13)そしてそのことを、後でイザヤに咎められました。するとヒゼキヤは「あなたが告げる主の言葉はありがたいものです。」(20:19)と言って、イザヤの預言を軽視しました。

この王の軽はずみな行動、そして預言者を差し置いて自分の祈りが聞かれたと言って、自分の祈りを誇るという落とし穴があることに、私たちは気をつけなければなりません。イザヤを通して語られた神の言葉を侮ることによって、実際にユダ王国はバビロンに滅ぼされて、多くの人々が捕囚となって遠くバビロンの地まで連れて行かれるという悲しい運命をたどります。(20:17~18)

ヒゼキヤ王に与えられたこの「死の病」は、実は、神様からの王に対する信仰の訓練でもあり、彼の傲慢な心に対する警告でもあったのです(歴代誌下32:31)。彼はこの不治の病を通して、神へのへりくだりと謙遜、そして慎重さを学ぶべきでした。たとえすばらしい改革を断行した王であっても、所詮人間であり、神の前には死すべき者、限界を持ったものであることを自覚しなければならなかったのです。もっともっとへりくだり、神から知恵を求め、自分を喜ばすのではなく、もっと慎重に対応すべきことを、主は王に教えたかったのではないでしょうか。

4.時を戻される主

最期に、神様は時間をも支配されるということを見てみたいと思います。ヒゼキヤ王は、自分が本当にいやされて回復し、もとのように神殿に上って礼拝ができるようになるという証拠を見せてほしいと言いました。するとイザヤは、日時計が10度進むか、10度後戻りするかどちらかを選びなさいと言いました。ヒゼキヤは、時間を進めるよりも、後戻りをさせるとこの方が難しいと思って、戻るほうを選びました。そしてイザヤが祈ると、何と日時計の影が10度戻ったのです。(20:8~11)日時計が10度戻りましたので、時間に換算して約45分間時間が戻ったということを意味しています。

時間を戻すということはどういうことでしょうか。それは帰ることのない過去に、思い出ではなく実際に、また戻ることができるということです。「ああ、あの頃は良かった、元気に伝道して、よく仲間と信仰について夜遅くまで議論し、祈り合った。」という過去の時間へ再び戻ることができるということです。

例えば、私たちが霊のからだで復活して、天国で再び合間見える時が来ます。その時皆さんは何歳の時のからだで復活したいですか。みんな、若い時が良いと言うかも知れません。年をとってから救われた人は、60歳くらいの時がいいというかも知れません。いずれにしても、時間を超えて、年齢を超えて私たちはまた再会します。つまり時間が戻るということは、単に昔話に花を咲かせ、楽しい子供の頃の教会学校や青年会のときの教会生活を追憶するということではありません。そうではなく、実際にそのなつかしい時代に戻ることができるということなのです。それがこの「日時計が10度後戻りした」と言うことではないでしょうか。

時を超え、病をいやし、敵に勝利してくださる私たちの神様に祈りましょう。涙を流しながら、主の前にへりくだって祈る時、主は私たちの祈りに直ちに答えてくださいます。そして時間を越えて、再びあの喜びの時を準備していて下さるのです。真実な心を持って祈ってゆきましょう。(岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional