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パンを水に流すという神への信頼と応答 (コヘレト11:1~6)

メッセージ
2020/11/08
富里キリスト教会礼拝説教
「パンを水に流すという神への信頼と応答」
(コヘレトの言葉11:1〜6)

①パンを水に流すことー愛の施し
私たちは秋に入り、コヘレトの言葉から恵みをいただいてまいりました。そして、その空しい、空しいと語るコヘレトの言葉も今日で11章と終盤に差し掛かってまいりました。コヘレトは終盤にさしかかり、趣が少しずつ変わり、命令形の言葉が多くなっていきます。彼はいよいよ読み手に対して結論へと導き、勧めようとしていきます。そのような中で今日の箇所においてコヘレトは、人生の不確かさということについて語っていきます。人生、将来には何が起こるかわからない。私たちは自然災害というものを予測できません。雨が降り続ければ地は水浸しになりますし、強い風が吹けば木が倒れることもある、そういった理屈は知っていますが、いつその災害が起こるかは私たちにはわからないのです。大きな被害が出たとき、よく想定外だったという言葉を聞きます。私たちの予測にはあくまで限界があります。
また人の命に関わる事柄についても私たちはわからないことだらけです。母親のお腹の中にいる胎児の動きというものも人が把握することには限界がありますし、その命が生み出されていく過程はまことに神によるわざなのです。有名な詩篇139篇には、主が母の胎の中で内臓を造り、組み立ててくださったという表現がありますが、命は神によって作り上げられ、出産はその神の奇跡だといえるでしょう。
自然、命そういった事柄において、人間ができることには限界がある。コヘレトは冒頭から、この終盤にいたっても同じように語り続けます。しかし、ここで彼はでは、そのような不確かな人生の中で、一体なにをすればよいのかといったことについて語ります。それが1節の

「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見出すだろう。」

という言葉になります。
パンを水に浮かべろ・・・。なんのこっちゃ?一体どういう意味なのだろう。そう思われる方もおられるかもしれません。これにはいくつかの解釈があります。一つに、パンは物質、水は海や川、流すは直訳が「送り出す」という意味であることから全体を海外貿易への投資に関するものといった解釈があります。すなわち品物を乗せ、大胆に危険を冒して海に漕ぎ出せ、そうすれば利益を得るであろう。人生は何が起こるのかわからないのだから、思い切って冒険しないとチャンスは掴めないぞ。そういった捉え方です。この解釈ですと4節の意味合いとも重なってくるところがあるかもしれません。風が吹いているときに種まきは不向き、雨の中での刈り入れも適していません。しかし、だからといって一番安全なときをずっと待っていてもダメです。万全でなくとも時に勇気を持って思い切っていけということも必要でしょう。
しかし、この解釈には他にもあります。ユダヤ人はこれを伝統的に、愛と善行の勧めと解釈してきました。私自身もこの解釈がふさわしいと思っています。パンを比喩的に解釈し「物惜みしないで、多くの人々に情けを施すがよい。そうすれば、必ずその報いを思いがけないところから受けることができるだろう」ということです。
聖書の中でパンとは命の糧、生活必需品を表します。人の労苦、仕事というのもこのパンを求めてなされています。パンのために汗を流しているのです。人間が生きていくのにはパンが必要なのです。今の私たちで言えばパンを買うためのお金と言えるでしょう、その重要なパンを水に流せとコヘレトはいうのです。パンは水に流せば虚しく流れ去るでしょう。徒労、無駄な労苦。自分のためのパンを人に与えてなんの報いがあるのか?そう思う人もいるかもしれません。
しかし、この行為は果たして本当にむなしい徒労なのでしょうか?己のためにパンを蓄える人生と他者のためにパンを用いる人生といずれが果たして真の幸いな人生と言い得るでしょうか。一見、空ならざることのために蓄える人生と、一見空なることのために費やす一生と、いずれが空なる一生でしょうか。

②恵みを分かち合う
私たちにとってパン、生きる糧は神様から与えられた恵みです。決して自分たちの力で手に入れたものではありません。ゆえに自分の手にパンがありそれを今必要としている人がいるならば、わけ与えるべきであり、そうしてこそ本当に生きて用いられるのです。恵みを分かち合うことによってこそ喜びを共にする祝福にあずかるのです。「受けるより与える方が幸いである」という言葉は主イエスご自身の言葉です。貧しい者を助けることはみこころにかなったものなのです。
分け与えることによって自分のパンがなくなることを恐れる必要は全くありません。必ず返ってきますので大丈夫です。みこころを表すものを決して主は捨て置きはしません。コヘレトは月日が経ってからその意味を見出すだろうと語りますが、天に宝を積むことほど確実なことはないのです。愛の善行は必ず報いてくださる神への信頼の中で喜びをもってなされるわざなのです。
この勧めは、旧約、新約問わず聖書の中で何度も出てくる事柄であり、聖書全般を通して表されている一つのメッセージと言えるでしょう。旧約聖書においては律法にこのように明記されています。

申命記15:7
「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。」

また、社会的弱者である在留異国人や、やもめなども大切にしなさいといった言葉もあります。律法はまことに神の憐れみに満ちたものでもあります。また知恵の書である箴言19:17には

「弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。」

とあります。元々イスラエルの民はエジプトに支配されていた悲しくも貧しき奴隷でした。その民を主は憐れまれ、救い出されました。主はそのようなイスラエルの民に、今度は憐れまれた者として助けを必要とする弱き者を憐れみなさいと語られます。

また、新約聖書においてもこの愛の善行は良きサマリヤ人のたとえを代表とし、隣人愛の表れとして勧められています。また、主イエスご自身が「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と語られ、そこに大きな報いがあることを約束されました。また使徒パウロもガラテヤ書の6章でたゆまず善を行いましょうと勧め、飽きずに励んでいたら、時が来て必ず実を刈り取ることになるという種まきと刈り取りの法則について語り、励ましています。時に、このような他者のために生きていこうとする時、誰にも気付かれず評価もされず、報われないような思いに駆られることもあるかもしれません。しかし、主は決してそのみこころにかなった愛の善行を見過ごしたりはされません。主はその愛を喜び、必ず報いてくださります。
歴史上、多くのクリスチャンがそういった価値観の中で医療、福祉、教育といった分野に人生をささげてきました。そういった中で社会は発展してき、今に至っています。物心共に助けを必要としている人たちはいつの時代にも存在しています。私たちは、時に現実的な物質を届けることによって愛を表すこともあれば、その孤独な心に寄り添うことによって愛を表すこともあるでしょう。そして時に自分が助ける側の時もあれば、助けられる側となることもあるのです。やはり、人は助け合って生きていくのです。

③与えることの難しさ
与うるは受けるより幸いなり。確かにその通りでしょう。しかし、与えることの難しさという一面もまた、あります。人は与えつづけていくことによって、いろんなものがすり減っていってしまうことがあります。余裕があればいいですが、なければできない。そういった人間としての限界を痛感することがあります。人は、中々人生のすべてを他者にささげきることができないのです。
マタイの福音書19:16〜26にはイエス様とある金持ちの青年とのやりとりが描かれています。青年はイエス様に永遠の命を得るにはどんな善いことをすれば良いのかと尋ね、イエス様は十戒や隣人愛などの律法を守りなさいと言います。その言葉に対して青年は、それらはすでに守ってきた、他に欠けていることはないかと問い直します。すごい立派な青年ですね。私なんかとてもじゃないけど律法を守っていますとは胸を張って言えません。しかし、その立派な青年にイエス様はこのように語ります。

「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去ります。たくさんの財産を彼は持っており、その全てを手放すことができなかったのでした。この青年こそ自分自身の姿であることを私たちは知らなくてはなりません。いや、私、金持ちじゃないし、という方もおられるかもしれませんが、では、あなたはすべての財産を貧しい人に施すことができますか?人は富に対する願望と執着を100パーセント消すことはできないのではないでしょうか。できないと言って開き直るのではなく、できない自分と向き合うため、できない自分を知るための問いかけです。
金持ちが神の国に入ることは難しい。富に執着をもつすべての人間がと言えるでしょう。絶望的です。弟子がじゃあ、誰が一体救われるのだと言いたくなる気持ちもわかります。しかし、主イエスは確信を持って力強く「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」と宣言されました。人の力ではなく神のみがその絶望的な状況から人を救い出すことをおできになり、そして実際に救いだしてくださったのです。

ヨハネ福音書12:24
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

一粒の麦。主ご自身が、私たちのために人、一粒の麦となられ、その全てをささげ、みこころへの従順を貫かれ、十字架上ですべての者の罪を贖われました。その贖いによって本当に多くのものが救われ、実を結んだのです。私たちもその一人です。イエス・キリストの十字架の贖いは私たちのために全てをささげた神の救いです。ここに神の完全な愛があります。全てを捧げることが人間にはできない。しかし、主は全てを私たちのためにささげました。人にはできませんが神にはできるのです。そして、神のみができるやり方で、全てを捧げきることのできない罪と自我に囚われた人間を、全てを捧げきって救い出されたのです。それがイエス・キリストの十字架なのです。
贖うという言葉はヘブライ語では元々、買い戻す、買い取るという意味があります。律法においては借金を肩代わりする、自分が犠牲を払い親戚の土地を買い戻すときに用いられたりしていた言葉です。そしてその負債は相手には請求しないことになっています。この買い戻すという経済用語がやがて神学的な意味合いを持ち、イザヤ書などでは贖う方とは一人のメシヤの姿を表すことになります。
神様は私たちのとんでもない罪の負債を十字架をもって肩代わりしてくださったのです。神ご自身がパンを水の上に流されたのです。ただただ私たちを愛するがゆえにです。与えることの祝福、栄光を神ご自身が十字架の贖いと復活をとおして表されたのです。その姿は犠牲でありながらも愛そのものであります。

④愛の種まき
「与うるは受けるより幸いなり。」主イエスの言葉です。イエス様はこの言葉を完全に有言実行いたしました。それが十字架です。その全てをささげた贖いのみわざは復活というみわざによって今や栄光に満ちています。私たちはその恵みにあずかって、愛を受け取って生きています。
私たち人間は、誰かに与える前に、まず受けとらなければなりません。何を受けとらなければならないのか。それは神の愛です。十字架の愛を受け取らなければ私たちは隣人に愛を与え続けることはできないのです。そして、私たちにはすでにその愛が与えられているのです。その愛を両の手で受け取り続けましょう。
貧しい者、弱い者を、助けを必要とする者をなぜ助けるのか。それは、主ご自身が私やあなたに対してそのようにしてくださったからです。与えることは幸い、そこには必ず祝福があり大きな報いがある。それは確かなことですし、主に信頼することは大切なことです。しかし、罪のある弱い私たちは返ってくるから、報われるから善行を施すということだけでは、いつか疲れ切ってしまいます。報いを期待してしまうのです。これではたとえ善い行いをしていたとしてもいつの間にか偽善となってしまう危険性すらでてきてしまうのです。
私たちはもうすでに報われているのです。与えられているのです。買い取られているのです。施されているのです。赦されているのです。愛されているのです。その受けた恵みを神が愛する尊い人間に対して返していくだけなのです。愛を受け取り、愛を与えていく。ここに喜びがあるのです。逆に愛なき善行ほど空しいものはないでしょう。私たちの善き行いの動機がどこにあるかが大事なのです。何かを期待して行うのではなく恵みへの応答として神を愛し、隣人を愛するなかで、その結果の表れとしての行動、これがクリスチャンの愛の種まき、パンを水に流すということなのです。
そのためにも私たちは神様からたくさんの愛を受け取りましょう。神の愛は無限大です。私たちと違っていくらいただいても神さまの愛は決して枯れません。遠慮はいりません。アバ、父よと信頼して、安心して神様の愛を求めましょう。神を仰いで、愛をいただき、愛と信頼をもってパンを水の上に投げましょう。
なにも大きなことをしようと意気込まなくても構いません。マザーテレサの活動も愛の善行ですし、近所のゴミ拾いも尊い働きです。もちろん魂の救いに関わる伝道も尊い愛の働きです。自分の目の前の人や社会と誠実に向き合う中で人それぞれが御霊によって促されていくことでしょう。その表れは多様性に富むものであると思います。大事なことは何をなすかということよりもどのような思いでするのかということです。
さあ、愛の種まきをしましょう。イエス様の愛を届けましょう。そこに神への信頼と愛の中で生きるキリスト者の幸いがあります。その時こそ不確かな人生が確かなものとされるのです。

1コリント6:20
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

武井誠司

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