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パウロの祈り − 愛と判断力

メッセージ

2009年6月28日富里教会
  「パウロの祈り−愛と判断力」
                   (フィリピの信徒への手紙1:3〜11)                        
1. はじめに
パウロは、このフィリピの信徒の愛が、どんな愛であって欲しいのか祈っております。それが今日与えられた聖書の御言葉です。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(フィリピ1:9〜11)今朝は、この中から、愛の本質として「知る力」と「見抜く力」そして「見分ける力」についてお話したいと思います。

2.知る力と見抜く力
まず最初に、「知る力と見抜く力」ですが、リビングバイブルでは「霊的知識と洞察力」と訳しております。ある時、一人のご婦人が、道を求めて教会の礼拝に来られました。何回か出席しているうちに、その方の手の甲に赤いやけどのあとがあるのに気がつきました。でも、本人はあまり気にするふうでもなく、半そでの服を着て礼拝に出ておられました。そのうち、教会の一人の婦人が、その人のために、夏でもはける薄いレースのきれいな手袋をプレゼントしました。その方は、戸惑った顔をしましたが、熱心に勧めるものですから、黙ってその手袋をいただきました。その後、礼拝に見えられなくなりました。
この場合、礼拝に来られた御婦人は、勇気を持って、やけどの後を隠さずに、礼拝に来られるようになっていました。教会は、傷を見せても安心だと思っていたのでしょう。でも、プレゼントされた手袋を見て、教会でも傷を隠さなければならないのだろうかと、不信を抱いたのだそうです。

愛のプレゼントのつもりが、逆にあだになってしまったケースと見ることができるかもしれません。私たちも以外と、善意で行ったのにそれが、そのまま受け取られなくて誤解を招いてしまったりすることがあります。クリスチャンにとって愛の業は、困っている人に何かをしてあげることと、思っている場合がよくあります。でも、そこで大切なことは、本人の気持ちを汲んであげることではないでしょうか。私たちの愛が、実をつけるためにはまず、「知る力と見抜く力」を身に着けることが必要です。まさに「霊的知識と深い洞察力」、神様から来るところの霊的な知識と鋭い感覚をもって、本人の気持ちをしっかりと受け止めてあげることです。

パウロは、いつもこの手紙の冒頭で、この事を祈りの中で訴えています。信仰的にまだ幼い信徒がいろんな異端や間違った教えに巻き込まれてしまわないように、御言葉の知識と霊的な洞察力を身につけるように。そしてそれによって愛がますます豊かになるようにと祈っています。コロサイの信徒への手紙の1:9〜10にも同じようなことを祈っています。
「こういうわけで、そのことを聞いたときから、私たちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、霊によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる良い業を行なって実を結び、神をますます深く知るように」コロサイ書の方では、「霊的な知恵と理解」によって、神様の御旨を深く悟ることができるようにと祈っています。

私たちも、祈りの中味をもう少し変えたほうがいいかも知れません。愛が増し加わるように伝道できるように、奉仕ができるようにという願いごとを祈ることがあります。でも、もっと大事なことは、まず私たちの心の目が開かれることです。そして、私たちの間の兄弟愛が、知る力と見抜く力によって深められ、異なる考えや教えに惑わされず、しっかりと一つに結び合わされることです。

3. 見分ける力
次に「見分ける力」です。真理がどこにあるかを見抜き、正しいことと間違っていることを区別して、正しい選択をする力、判断力です。今日の宣教題に「愛と判断力」という副題を付けさせていただきました。私たちは愛の業、愛の奉仕をする前に、もっと深い知識を持ち、霊的な感覚を研ぎ澄まして、何が正しいか、間違っているかを見分ける必要があります。ローマ書の中でも、更にパウロは同じようなことを訴えています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)

何が神様の御心か御心でないか、また何が良いことか悪いことか、何が神様に喜ばれることか何が神様を悲しませることか、何が完全な事か不完全なことかを見分け、判断すること。これが真の愛の豊かさであり成熟です。そして、日々の生活において正しい判断をし、良い選択と決断をすることによって、清い者となるようにとパウロは祈っています。

フィリピの教会の信徒たちは激しい迫害の中も、キリストのあふれる恵みと富の大きさの故に、挫けることなく、苦しみに会えば会うほど、ますます喜んでパウロ達を援助しました。それは常に、神と共にあることの喜びの故でした。このフィリピの信徒たちの喜びに呼応するように、パウロもローマの獄中からこの喜びの手紙を書きました。たとえ捕われの身にあっても、キリスト・イエスにある愛の大きさと恵みの深さゆえに、全面に喜びが満ちあふれている手紙です。それは、何よりも、キリストを知る恵みをはっきりと捉え、確信していたからです。「喜び」という言葉を英語では、JOYといいます。何が喜びなのか、それはいつも「J」が最初にきているからです。JESUSのJを第一とする時、たとえどんな艱難の中にあっても、そこには常に喜びがあります。

2. キリスト・イエスの日までに
「イヤー、私の信仰はまだそこまで行っていません。」とおっしゃる方がいるかもしれません。でも、安心して下さい。その良い業を最後まで、養い育てて下さり、完成して下さるのは、神様です。この手紙の冒頭に有名な言葉があります。「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、私の神に感謝し、あなたが一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で良い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(1:2〜6)

良い業とは、伝道して教勢が伸び、あちこちに教会が建てられることでしょうか。そのこともあるかも知れませんが、むしろ、良い業とは、私たちの信仰と愛が、霊的な知識と深い洞察力によって、ますます豊かになることではないでしょうか。キリスト・イエスの日とは、キリストの再臨の日までにということです。神様はすでに良い業を、私たち一人一人の中に始められました。今、その良き業が少しずつ拡大成長し、完成に向っております。たとえ、艱難や試みの中にありましても、それは神様の訓練の時です。私たちは恵みと同時に苦しみも授かっているのですから、艱難をも喜ぶのです。

私たちはまだまだ不十分な者です。パウロ先生が私たちのために祈っていてくださいます。私たちも祈りましょう。愛が知識と洞察力によって豊かになり、正しい判断力が付くようにと。さらに、御霊の助けによって、善悪を見抜く力が備わり、大事なことと大事でないこととを見分けて正しい判断ができるように。そして、正しく清い生活を送って、良い業を行い、神の栄光を表わしてゆく者となりたいと願っています。             
                        (岡田 久)

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