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ハンナの祈り (サムエル記上1:12~20)

メッセージ

2012年6月3日富里キリスト教会
「ハンナの祈り」
(サムエル記上1:12~20)

1.ハンナの祈り

ハンナは子供のない悲しみと絶望のあまり、ある時、食事が終わるや否や一人立ち上がって神殿の柱のそばに行って祈りました。10節から読んでみます。「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。『万軍の主よ、はしための苦しみをご覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。ハンナは主の前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、彼女に言った。『いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。』ハンナは答えた。『いいえ、祭司様、違います。私は深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。』』(サムエル上1:10~15)

A.神殿の柱の傍で

ハンナは家族で食事をする時、いたたまれない気持ちになって、食事が終わるや否や、立ち上がって神殿の柱に近い席に行って、そこで祈りました。追い詰められて居場所をなくして、私達が逃げ込むことのできる場所、それが神殿であり、神様のそば近くです。やはり神様に一番近い場所で、神様に直接訴えたかったのでしょう。神様の前に出るのですから、静かなところ、邪魔が入らない場所、一人になれるところがいいですね。神様の傍にいるんだと思えるところです。場所よりもそのような心です。目の前にイエス様がいるという気持ちを持って、真剣にそして畏敬の念を持って祈りたいものです。少なくとも、私達も一日一回は、神様と一対一で向き合える場所と時間が必要なのではないでしょうか。

B.嘆きの涙で祈る

なかなか子供ができない、そうでなくても傷ついている心に、同じ妻のぺ二ナの嫌がらせの言葉や行為は、どんなにかハンナを苦しめたことでしょう。しかし、5節に「主はハンナの胎を閉ざしておられた。」という言葉があります。神様はあえて、わざとハンナに子供ができないようにしていたのです。そしてハンナは、結婚当初から、このことで苦しみと悲しみを背負わされてきたのでした。

そのような道をハンナは、神様によって否応なしに通させられたのです。それが神様の御計画でした。それは、その苦難の中から主を呼び求めるという、信仰をの祈りを神様がハンナに教えるためではなかったでしょうか。その試練を通してハンナはやがて、神様の恵みを受けて子供が与えられます。しかも、その子はイスラエルを導く指導者として成長してゆきます。

神様は、ハンナにこの祈りを教えるために、あえて彼女の胎を閉ざされたのではないでしょうか。ですから、ハンナは後で、この神様の深い御心を知ってこう祈りました。「子のない女は七人の子を産み、多くの子をもつ女は衰える。主は命を絶ち、また命を与え、黄泉に下し、また引き上げて下さる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めて下さる。」(2:5b~7)

神様は人生の中で、苦しみや嘆き、悲しみを通して、私達に真剣に祈ることを教えられ、そのようにして神の民、信仰の民を産み育てて下さるお方だということです。もし、今そのようの立場にある方がおられましたら、それは神様の救いの御計画の中に置かれているということであり、祈りを通して主の御栄光を表される時が来るということです。私達はそのようなところを通されなければ、なかなかこうしてハンナのように祈らないものです。

C.聖霊に酔った祈り

このハンナの祈りは、旧約聖書の中では珍しく、祈りの様子が実にはっきりと具体的に記されています。12節のところでこう記されています。「ハンナが主の前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思った。」(1:12~13)

ハンナはこの時、声は出していませんでしたが、唇が動いていたのでエリは酒に酔っていると思いました。しかも長時間にわたって、われを忘れて祈っていました。唇だけが動いていました。そしてエリの目から見て、まるでハンナが酒に酔っているように見えました。

あのペンテコステの時に、弟子たちに聖霊が下って突然外国語で話し出したので、町の人たちが彼らは酒に酔っていると言いました。ですからこの時、ハンナは聖霊に満たされて、神の霊によって祈っていたのではないでしょうか。ですから私たちも祈る際には、詩編を朗読したり、讃美歌を歌ったりしながら聖霊に満たされることを願いつつ祈ることが大事ではないでしょうか。聖霊様が、どう祈ったらよいか私達に教えてくださいます。

D.心を注ぐ祈り

ハンナは問いかけた祭司エリの声に答えて、「わたしは深い悩みをもった女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。」(1:15)と答えています。心を注ぎ出すということは、その人の前に包み隠さず心を全てを明渡して祈るということです。つまり、神様と自分との間に流れを詰まらせるような障害物がないようにしたいものです。

神様と自分のパイプに、何かが詰まっていては心を注ぎ出すことはできません。まず、主の前に自分の罪を隠すことなくすべて告白して、悔い改める祈りが必要です。夫を責めたり、ぺ二ナを責めたり恨んだりせず、自分の側に固い心がないかどうか点検してみる必要があります。そして障害物を取り除いた後で、何でも願い求めることが大事です。開かれた心から、身を投げ出して、主の前に心開いて、自由に包み隠さずなんでも打ち明けることです。そして何でも自由に願い求めることです。

2.祈りの子

サムエルはまぎれもなく、祈りによって与えられた子供でした。結婚してすぐにできた子供とは違うのです。もう一人の妻ぺ二ナは、エルカナと結婚してすぐに次々と子供が生まれました。これは普通の子です。でも、サムエルがぺ二ナの子供たちと違うところは、祈りによって授けられた子だということです。

なかなか子供ができない。妻として本当に長い間悲しみ、苦しみ、嘆き、つらい身を切るような結婚生活の中で、夫ではなく、神様に泣きながら激しく祈った一人の女性の信仰の祈りによって授けられた子供なのです。あの信仰の父アブラハムとサラの間にようやくできたイサクが「約束の子」ならば、サムエルは「祈りの子」と言ってもいいかも知れません。

神様が、ハンナの胎を閉ざされたのも、肉の子供を産むのではなく、霊の子供、すなわち神に祈って与えられる霊の子供を産むことができるように、訓練するためではなかったでしょうか。それは、苦しみの中で、嘆きと悲しみの中で、ひたすら主の前に祈って願い求めるものにのみ与えられる、霊的な子供の誕生を教えたかったのではないでしょうか。ただひたすら祈って、主の約束を信じて待つ、これは神の民イスラエルに与えられた信仰と言う遺産です。この祈りそのものが信仰者の証です。この祈りこそクリスチャンに与えられた神の祝福ではないでしょうか。

3.祈りと信仰

主は、ハンナが自分の絶望と嘆き苦しみの中で、主を見上げて祈るという信仰を学ぶことができるように、彼女にこの苦しみを与えられました。彼女は、この嘆きと悲しみの谷を通させられたのです。そのことなしには、本当の神様の祝福というものを体験することができなかったかもしれません。そして、その苦しみと悲しみと絶望のどん底で、主を見上げて祈る時、主はすみやかに答えてくださるという祈りの恵みと信仰の祝福を彼女は得たのです。人生のどんな苦しみも悲しみも悩みも全てを喜びと感謝へと変えて下さる方がおられるということです。そしてそれは、祈りを通してかなえられるものであるということです。この祈りこそが母ハンナの信仰でした。そして、また私達の信仰なのではないでしょうか。

今日の聖書教育に、とてもいいことが書いてありました。「イエスの名によって祈るということが、祈りであるとするならば、祈りは目的を実現するため、子供を獲得するための方法とか手段であるかのように思えるかもしれません。しかし、決してそうではありません。祈るという行為そのものが信仰であり信仰生活なのです。神を信じるから祈るというのではなく、祈るという行為そのものが既に信仰そのものであり、神を信じるということなのです。」と。彼女は、すでに祈っている時に、祈りながら神様の存在とその約束を信じたのです。たとえまだ、妊娠の兆候がなくても、彼女の心の中には神様の御言葉に対するゆるぎない確信があったのです。祈りの中で信仰が強められたのです。

イエス様も言いました。「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、その通りになるであろう。」(マルコ11:24)祈りの中で、祈りながら、すでにこの祈りは成就された、この願いは実現したという確信が与えられるのです。ですから、まだ実現していなくても、まだ成就していなくても、祈ることが既に実現であり成就したことだということを知ることが大事です。

ですから祈ることが大切なのです。たとえ祈りの答えがまだ実現していなくても、その祈りの期間が長くなればなるほど、神様の祝福が大きくなるのです。なぜか、それは祈りが積み重ねられているからです。私達にも、まだ実現しない祈りの課題がたくさんあります。祈りが聞かれるということよりも、私達は祈ることによって既に、そのことはかなえられたと知り確信するのです。それが信仰の祈りではないでしょうか。

4.祈りの子は主に返します

ハンナは祈り終わって、まるで別人のようになって元気になりました。「彼女の表情はもはやまえのようではなかった。」(18節)とあります。そして、その祈りの子が実際に与えられました。祈って授かった子供は、自分の子ではありません。神様が授けて下さった子ですから、神様が本当の親です。その子を神様にお返し、神様の手に委ねられなければなりません。ハンナはその決断をしました。1;27から読んでみます「『わたしはこの子を授かるように祈り、主は私が願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。』彼らはそこで礼拝した。」(1:27~28)

自分の子供ではありません。神のもの、神の子供なのです。ですから、肉の思いで、わが子を甘やかしたり、宝物のように大事にしすぎてもそれは神様の御心ではありません。実は、二人の子供を授かった祭司エリは、自分の子供を甘やかしすぎて、神様よりも息子の方を大事にしてしまいました。(2:29)その結果、二人は祭司でありながら神殿で罪を犯し、最後には戦死してしまいます。親は子供を育てる責任を、親は神様から託されています。

ハンナは、目に入れても痛くないわが子を、信仰をもって神様にお返ししました。祈って生まれた祈りの子は、神様のものですから、神様にお返しして、神様にその子の人生をゆだねたのです。せっかく生んだ最愛の長男を、神様にお返しする意味で、神殿に仕えるものとして捧げました。神の恵みと祝福を覚えて、自分の最も大切なもの、自分の愛する一人息子を神に捧げた時、神様はハンナに祝福をもって答えて下さいました。ハンナはその後、息子三人と娘二人をもうけたのです。

このように自分にとって一番大切なものを主に捧げて行く時に、更に祝福を増し加えてくださいます。祈りと捧げものというハンナの信仰によって、さらにハンナ夫婦は神様から豊かな祝福をいただいて行きます。それはやはり、祈ることが何よりも神から与えられた祝福だということです。どんなに辛いことや悲しいこと、苦しいことがあってもその中で祈ることができるということ。いや祈ることが赦されている、祈る特権が与えられていることを感謝したいと思います。教会は祈りの家であり、祈りの共同体です。また、一人一人は聖霊様の宿るところの祈りの神殿です。ハンナと共に、私達も心を注いで祈って行きましょう。                        (岡田 久)

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