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ノアの祭壇 (創世記8:1~22)

メッセージ
2017年8月13日富里キリスト教会

「ノアの祭壇」
(創世記8:1~22)

1.カラスとハト

もし洪水がバプテスマだったとしたら、この水が引きはじめるまでの船の中の生活は一体何でしょうか。(Ⅰペテロ3:20~21)これはいわば、バプテスマを受けて救われた者が、箱舟(教会)の中でどんなことをすればいいのか、いわば教会生活について述べているところです。そして救われた人が、新しい世界でどのようにして生活すべきかと言うことを教えております。そしてこの8章に出て来ます二種類の鳥、カラスとハトがわたしたちの信仰生活のあり方を教えているような気がしてなりません。

「40日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕え、箱舟の自分のもとに戻した。更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは地上から水がひいたことを知った。彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰ってこなかった。」(創世記8:6~12)

このカラスと言いますのは、せっかく神の救いに与かっていながら、もう一度元の生活に戻ってしまう人を表しているような気がしてなりません。烏の問題点は何でしょうか。もし教会が箱舟だとしたら、この人はせっかく救いのバプテスマを受けたのはいいのですが、その後の信仰を生活において、教会を出たり入ったりする人のことではないでしょうか。しっかりと自分の目的を持って進まない、中途半端なクリスチャンのような気がします。教会を出たり入ったりしないようにしなさいという警告です。

またこのカラスは船から遠くまで出て行かないで、箱舟の近くで行ったり来たりしています。舟から離れるのが恐いのです。せっかくノアが目的を与えて、水がひいたかどうかを見極めるようにといって放したのですが、遠くまで飛んでゆかない、いや行けないのです。自分の足場をいつも確保しているクリスチャンです。あの金持ちの青年のように、自分の親の財産をしっかり持っていて、自分の人生の基盤をそこに置いていながら、もっと何か別な良い物永遠の命を欲している人です。どっちつかずの二心を持った人です。お金と天国と、この世と天国の両方に仕えている人です。(黙示録3:15~16)

一方ハトは、目的を持って生きるクリスチャンを表しています。鳩は忠実です。自分の主人の命令に忠実に動き、また目的地を目指して何百キロという旅をします。そして平和の象徴でもあります。ノアは、水がひいたかどうかを確かめようとしてハトを放しました。ハトは、最初、自分の足を休める所、すなわち水がひいた大地を探して飛び回りました。しかし、最初は見つかりませんでした。それでもハトは忠実にノアの元に戻って来ました。そして七日後もう一度放されましたが、今度はくちばしにオリーブの葉をくわえて戻って来ました。これは明らかに地面が現われ、すでにそこに木が成長していることを示しています。

そして三度目には、鳩はもうノアの元に戻って来ませんでした。おそらくどこかで地上と木の実を見つけ、そこに住み込んでしまったことを示しています。これは、ハトが聖霊を表しているように(マタイ3:16)、聖霊に満たされて使命に生きているクリスチャンのことを表しています。聖霊は神様の思いを私たちに伝えてくれます。そして神の目的に従って生きるように励ましてくれます。

ハトは、教会を出たり入ったりして中途半端な生活はしません。しっかりと主人の命令に従って忠実にその目的のために働きます。エフェソ6:15に「平和の福音を告げる準備を履物にしなさい。」とありますように、いつでもこの福音を宣べ伝えるという目的をしっかりと持って、その備えをしている人のことを指しています。生きているのか死んでいるのか分からないような、中途半端な信仰生活をしてはいけません。わたしたちはあの大洪水という神の裁きからバプテスマによって救われたものなのです。その大きな救いの恵みを無にすることなく、一人でも多くの人に平和の福音を宣べ伝えましょう。カラスではなく、ハトのように素直で、主人の目的を自分の目的として生きる、使命に忠実な信仰者になろうではありませんか。

2.御言葉に従うノア

こうしてノアが601歳になった時、水がひいて地上は乾きました。ちょうど雨が降り始めて洪水が起こったのが、ノアが600歳の時ですから、完全に水がひいて地面が乾ききるまで約一年かかったと言うことになります。2月17日に洪水が起こって、地面が乾いたのが2月27日です。約一年間、ノアとその家族、そして生き物たちも箱舟の中にいたと言うことになります。おそらくもう外に出たくて出たくて、皆うずうずしていたのではないでしょうか。

先週も祈祷会で、「水がひいたら、皆さんだったらどうされますか。」と質問しました。すると、「すぐに船から出て、いろいろ調べて周る。」という答えが帰って来ました。するべきことがいっぱいあったのではないでしょうか。特に一年間の船の生活ですから、おそらく食料も底をつきはじめていたのではないでしょうか。誰かは食料の調達、誰かは住めそうな場所を探すと、いろんな仕事があったと思います。でも水がひいてまず最初に、ノアがとった行動は何だったでしょうか。

「神はノアに仰せになった。『さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、みな一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。』そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。」(8:16~19)

ノアは、まず神様に伺いを立てました。出てもいいかどうかです。神様の許可がなければ船から出ることは許されなかったのです。これはいろんなことがあると思います。地面が完全に乾いて、伝染病や悪い物が地上から無くなるまでは、出歩くことは危険でした。ましてやあらゆる種類の貴重な動物を保護しているわけですから。そういう衛生上の問題もあったと思いますが、ノアはまず神様に常に伺いを立ててから、神様が良しとするまでは船から出ませんでした。

まずバプテスマを受けた後の大事なことは、神の御声を聞く訓練をすることです。何事も神を第一として、その声に聞き従うことです。この一歩は最初のステップではありますが、おそらく一生かかって身に着けて行くことのように思います。神様の御声に聞くと言うことです。このことはわたしも牧師になってから、引退年齢になってからようやくわかりかけてきたような気がします。

まず事を起こす前に、神様に伺ってみることです。これが信仰生活の基本のような気がします。これが神と共に歩む人生ではないでしょうか。問題が起こって、すぐに反射的に行動するのではなく、まず神様の判断を仰ぐと言うことです。すると神様が、わたしたちの心の中に、あるいは頭の中に神様の声を聞こえさせてくださいます。あの預言者エリヤも、神の声を聞こうとしました。すると、まず最初に激しい風が起こりました、そして次に地震が起こりました。その次に火が起こりました。しかし神はそれらの中にはおられずに、その後の静けさの中で、小さな、小さなささやくような声で主はエリヤに語りかけました。(列王記19:11~12)この主の御声を聞くことが、信仰生活の最初であり、基本でもあるような気がします。

3.ノアの祭壇

この主の御声を聞いて、箱舟から外に出たノアが最初にしたことは何だったでしょうか。「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない。』」(8:20~22)

ノアが地上に出て、最初にしたことは、食料や住まいの調達ではありませんでした。彼はまず最初に、主のための祭壇を築いたのです。今日でいう礼拝です。ノアは神の御声を聞いて、船から出て最初にしたことは神に対して礼拝を捧げることでした。貴重な聖い動物の中から選んで、焼き尽くす献げ物を捧げました。この清い動物の献げ物は、神様にとっては宥めの香りとなりました。神の怒りを宥める供え物となったのです。神様が一番喜ばれる供え物でした。

つまり、この供え物の意味するところは、「自分たちの罪を贖って下さり、救いへと入れて下さった神様への感謝を表しています。そしてこれからは神の御心に従って歩みます」という献身を表明するものでした。わたしたちのこの日曜日の礼拝のような意味を持っていました。罪の贖いと救いへの感謝、そして新しくされた者としての再献身の表明です。これがノアの祭壇でした。この供え物を神様が喜んで受け入れて下さったのです。まず神への礼拝を捧げると言うことです。そして神様はノアに対して二つの約束を与えて下さいました。

一つは、もう人間の罪の故に大地を滅ぼすことは二度としないと言うことです。二つ目は、この地が続くかぎり、今まで通り季節を与え、作物の収穫も与えるという自然と農業の回復です。じつはこの後、この信仰のあるノアも、ぶどう酒を飲みすぎて丸裸で寝てしまうという失態を起こします。それを息子たちに見られてしまうという一生に一度の不覚を取ってしまいます。(創世記9:21)つまり完全な人間はいないと言うことです。ノアであろうがアダムであろうが、人間は生まれながらに罪人ですから、罪を犯すことはあるというのです。子供の時からそうだというのです。ですから人間のことで、すべての被造物を滅ぼしてしまうようなことはもうしないと、主御自身が誓ったのです。

イザヤ書54:9にも主は同じような思いを語っています。「これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと、あの時近い、今またわたしは誓う。再びあなたを怒り、責めることはない、と。」(イザヤ54:9)この主なる神様の決心は、この後イザヤの時代までもずーっと続いているのです。そして、あの人間の罪が最高潮に達するイエス・キリストの十字架の時でも、父なる神様は人間の罪の故に、大地を呪い、生きる者をすべてことごとく滅ぼしてしまうことはないと宣言し、この約束を守り続けておられるのです。そして神の怒りは、神の御独り子イエス・キリストの上に降されました。罪人の人間の上ではなく、あのカルバリの丘の十字架の上に、すでに全人類への裁きが下されたのです。

でもこの「地の続くかぎり」(8:22)と言う言葉が示している通り、地球が自転しているうちは大丈夫なのです。しかし、地球が自転しなくなり、季節も夜も昼も来なくなる時が来ます。地球が終わる時が来るのです。Ⅱペテロ3:6~7を読んでみましょう。「当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心なものたちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。愛する人たち、このことだけは忘れないで欲しい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」
(Ⅱペテロ3:6~10)

現在神様は、イエス・キリストの福音という御言葉の水をもって、この時代に雨を降らせています。しかしなかなか振り返って、御言葉に耳を傾けて箱舟に乗り込んで来る人はいません。この時代の人々は、ノアの時と同じように、何も世の中変わっていないではないかと、高をくくっています。真剣に聖書を読もうとする人はいません。でもやがてこの世の終わり、地球の最後が来る時が来ます。今度は水ではなく、火で滅ぼすと警告しています。しかも宇宙天体が焼け崩れ、自然界のあらゆる要素は燃え尽き溶け去ると言っています。地球が続くかぎりは、今まで通りに季節があり作物の収穫もあるでしょう。でも地が続かない、地球規模いや宇宙規模の天体が消滅するようなことが起こると預言されています。

かと言ってあわてる必要はありません。世の最後が迫っているからこそ、わたしたちはただひたすら神の御言葉に聴き従い、祈りの祭壇を築いて礼拝を捧げることが大事です。そして、いつ主が来られてもいいように、その時を希望をもって待ち望んでいることが大事ではないでしょうか。神様の目からするならば、一日は千年のようであり、また千年も一のようです。今、こうしてこの地が維持されているのは、神様の忍耐なのです。一人でも多くの人が、滅びから免れて神の救いの箱舟に入って来ることを願っています。そして途中で箱舟を出たり入ったりしないで、ひたすら主の御言葉を聞いて、主に感謝と献身の祭壇を日々に築いてゆくものでありたいと願っています。   

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