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ダビデの武器 (サムエル記上17:37~51)

メッセージ

2012年6月24日富里キリスト教会
「ダビデの武器」
(サムエル記上17:37~51)

1.賛美するダビデ

16:14から読んでみます。「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。サウルの家臣はサウルに勧めた。『あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させて下さい。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう。・・・わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえ、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。』」(サムエル記上16:14~18)

こうして、ダビデはサウル王のもとに召しだされて、王に仕えるようになりました。そして、「神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで、竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分がよくなり、悪霊は彼を離れた」(16:23)のです。

このようにダビデは、サムエルから油を注がれて以来、賛美の賜物が与えられ、彼が琴を奏でると、悪霊がサウルから離れて行きました。でも、またしばらくすると悪霊がサウロを悩ましました。ですから、私たちは、何事をするにも、まず賛美を持って集会をはじめたり、礼拝をはじめたりすることが大切です。
今日も教会学校の前に、賛美をしました。賛美の声とピアノとギターを持ってです。どんな楽器でもいいです。賛美するにふさわしい楽器を持って来て元気に賛美しましょう。その時、私たちの心の中の悪霊が声をあげて逃げて行きます。

わたしは最近、デボーションをする時も、まず顔を洗いながら、讃美歌のテープをかけています。するとどんどんと沈んだ心が励まされて、神様への思いが強められて行きます。教会学校でも、スモールグループでも、各会でも、主の名によって集まる時にはまず賛美をして、そこに神様の御臨在を仰いでゆく必要があります。賛美は決して、歌をうたって始めるとか、楽しく歌うと言うだけではなく、何よりもその場に神様の御臨在を招き、私たちの心の中から悪霊の働き、思い煩い、心配、非難、ねたみと言った悪い思いを一掃して、神の前に聖い心で立つことを意味しています。

ダビデは、そのような賜物を神様からいただいておりました。わたしたちクリスチャンは、例外なく誰でもこの聖霊の油注ぎをいただいております。旧約の時代は、王様や預言者や祭司だけに限られていましたが、今は主を信じるすべての人は、この特別な霊の賜物の油注ぎを受けているのです。ですから、まず賛美をしましょう。賛美で教会も家庭も私たちの心も満たして行きたいものです。

2.ダビデの武器

わたしは、この巨人ゴリアトに象徴されているのは、私たちの前に立ちはだかる大きな敵、あるいは大きな山、大きな壁と言うふうに取られてもいいのではないかと思います。あのエリコの町も、大きな城門と高い城壁に守られて、ちょっとやそっとでは陥落しそうにありませんでした。その時に、イスラエルの軍隊が取った行動は何だったでしょうか。それは、祭司たちが主の契約の箱と、角笛を吹きながら七日間、町を回ることでした。

この目の前にある大きな敵を打ち砕くのは、人間の手による武器や力ではありません。神への賛美と、神への信頼を持って立ち向かうことではないでしょうか。ゴリアトは、子供のようなダビデを見て侮りました。しかし、ダビデはこう言って、敢然とゴリアトに向かったのです。

「お前は剣や槍や投げやりでわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしはお前を打ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まった全ての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」(17:45~47)

この戦いは主のものであり、主が勝利されるのです。武器に対して武器ではなく、力に対して力ではなく、数に対して数ではなく、主御自身が戦われるという事実を覚えたいと思います。そこで、あの少年ダビデはどんな武器を持って、どんな戦い方をしたのかを見てみたいと思います。最初、決戦を志願したダビデに対して、サウルは自分の兜や鎧や剣を与えましたが、どうしてもそれはダビデには合いませんでした。そこで、ダビデはそれらの武具をやめて、自分が普段から使っている武器を手に取りました。

17:39から読んでみましょう。「ダビデは、その装束の上にサウルの剣を帯びて歩いてみた。だが、彼はこれらのものに慣れていなかった。ダビデはサウルに言った。『こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。』ダビデはそれらを脱ぎ去り、自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かっていった。」(17:39~40)ここにダビデの武器が二つ述べられています。一つは自分の杖です。もう一つは投石の道具です。

A.自分の杖

まず、ダビデが手に持ったのは、羊飼いが羊を導くために使う杖です。羊が道を踏み外さないように、迷い出ないように導くものです。また、外敵から羊たちを守るために使います。獣を撃退するための杖です。ダビデはいつも、この杖を使って羊を獣から守って来ました。(17:34~36)そしてこうも言いました。「獅子の手、熊の手からわたしを守って下さった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」(37)

ダビデは、自分の杖を手に取りました。サウルの与えた剣ではありません。自分が日ごろから慣れ親しんだものでなければ、自由自在に戦うことはできません。人からの借り物ではだめなのです。自分が常日頃使っている、戦いに慣れた杖です。そして、この杖と言うのは、神の絶大な力により頼む、ダビデの祈りを表しています。神により頼む祈りこそ、何にも勝る最大の強力な武器なのです。この信仰なしに、戦うことはできません。イスラエルの兵もダビデの兄たちも、サウル王でさえ、目の前に立ちはだかるゴリアトを見て、何もできませんでした。

私たちは祈りなしには、この強力な敵に立ち向かうことはできません。祈りなしには、目の前に立ちふさがる大きな問題や障害やサタンの力に打ち勝つことはできないのです。「行動する前に、まず祈れ!」という合言葉を覚えたいものです。あの日吉台の大きな町に立ち向かう時、何よりもまず祈りを忘れることのないようにしたいものです。祈りの杖を普段から使っていなければ、武器として使えません。日曜日だけ祈る杖ではなく、朝に夕に神により頼んで祈る自分の杖です。

B.滑らかな五個の石

そして二番目の武器は、川岸にある滑らかな五個の石でした。最も強力な武器は、川底にありました。つまり、ダビデはいつも羊飼いの仕事に出かける時には、川岸に行って上流から流されてきて角が取れて丸くなった石を探して、それを投石袋に入れて野原に出かけて行きました。この石は何かと言いますと、御言葉の石です。ダビデは、毎朝、主の前に出て静聴の時を持ちました。そしてまず主の前に出て、御言葉の水を川岸で飲み、そしてその川底から角の取れた滑らかな五つの御言葉を選んで投石袋に入れました。

敵を倒すためには、滑らかな石よりも、むしろ角のあるごつごつした石の方が殺傷力があります。しかし、彼はあえて、人を傷つけ倒すみ言葉よりは、人を生かすみ言葉、柔らかい丸い御言葉を五つ見つけて、自分の心の皮袋に蓄えたのでした。詩編119:11に「わたしはあなたに向かって罪を犯すことのないように、心のうちに御言葉を蓄えました。」と言う御言葉の通り、五つの丸い生きた御言葉の石を、自分の心の皮袋に入れて戦いに赴いたのです。

また、ある人はこうもいいました。五つの石とは、私たちを支えてくれる五人の祈りのサポーターのことではないかと。わたしのために絶えず目を覚まして祈っていてくれる信仰の友です。確かにそれもあるかもしれません。いろんな試練を通して自分と言う角が取れた、滑らかな石のような信仰の友、この五人のグループメンバーの支えによって、大きな問題や悩みを共に解決してゆくこともできます。

「この戦いは主の戦いであって、我々の戦いではない。主が勝利して下さる。」そういう信仰と信頼を持って大きな問題に立ち向かってゆく時、必ず主が勝利して下さるのです。神が勝利するためには、武器の大きさや予算や人数ではありません。たった一個の御言葉の石で十分なのです。私たちもいつもそのことを告白しながら、前進してゆきたいものです。この御言葉と祈りが一緒になる時、爆発的な力が発揮されます。御言葉が10の力、祈りが10の力でしたら、二つを合わせると20ではなく、100の力が出るのです。私たちも、いつも祈りを持って聖書を読み、神の御言葉を心の皮袋に蓄えて、心の武装をして前進して行きましょう。                   (岡田 久)

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