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ソロモンの祈り (列王記上8:27~30)

メッセージ

2012年8月12日富里キリスト教会
「ソロモンの祈り」
(列王記上8:27~30)
1.わたしの叫びと祈りを聞き届けてください

神様は私たちが手で造った宮などに住まわれたり、そこに神を治めたりすることのできる方ではありません。神は天におられるお方ではありますが、天でさえ神を治めることはできません。創世記1:1に「初めに神は、天と地を創造された。」とありますから、神が自分で創造した被造物の中に、わざわざ住居を構えるようなお方ではないことは皆さんもご存じのとおりです。

使徒言行録17:24にこうあります。「世界とその中の万物を造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」とあります。神様は人間が作った神殿などには住まわれないのです。
ではなぜ、神殿を造ったのでしょうか。それは、私たちが祈りと願いをする場としての神殿なのです。神と人間が会うことのできる唯一の場所として、神殿が建てられたのです。神との会見の場としての神殿です。そこで、私たちが祈りと願いをする時に初めて、神殿としての本来の意義をもちうるのです。

神殿は決して神様をそこにお納めすると言った大それたものではないのです。そこには神様はいません。ただの建物です。ただ、私たちが集まって来て共に心を合わせて祈るならば、あるいは奥まった部屋で一人で祈るならば、そこが神様と私たちの会見の場となるのです。祈りにおいて神様と出会う場所、これが神殿です。祈りの場所としての教会堂が忘れられたならば、それは単なる箱ものでしかなくなるのではないでしょうか。また、逆に祈りが捧げられるならば、そこがどんな建物であっても主の名が置かれた神殿となるのではないかと思います。たとえわらぶき屋根の会堂であっても、民家を改造した建物であってもです。

ソロモンは、列王記上8章28節からの中で「わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みてください。」「今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。」「夜も昼もこのところに御目を注いでください。」「この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。」「僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。」「耳を傾け、聞き届けて、罪を赦して下さい。」と祈っています。六回も同じことを繰り返し、繰り返しソロモンは訴えています。

神殿は祈りを通して神様と私たちが出会う場所であるということです。これが神殿の建てられた意味です。預言者イザヤもそしてイエス様も「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるべきだ。」(イザヤ56:7、マルコ11:17)と訴えました。しかし、このソロモンが造った壮麗な神殿は、やがて神殿経済と言われるほどに商売の場となって、イスラエルの経済を支えるようになって行きます。(日本の門前町)イエス様は、そういう神殿の状態を「泥棒の巣」にしてしまっていると、痛切に非難しました。ソロモンはこの神殿を、祈りの家としてしかもイスラエルの民のみならず、万国民の祈りの家として父ダビデの遺志を継いで建てたのでした。

2.主の名が置かれた所

第二に、神殿は主の名が置かれている場所だということです。ソロモンは8:29節で、「ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。」と祈っています。つまり、神殿は神の名が置かれているところだというのです。

神殿の一番奥に何が納めてあるかです。聖書には、ソロモンの神殿の一番聖なる場所、至聖所には、モーセがホレブの山で神様から授けられた十戒の書かれた二枚の石板が、契約の箱に納められて安置してあると記されています。(列王記上8:6~9)神様がかつてモーセを通してイスラエルの民と結ばれた契約の言葉、十戒の板が納められていました。イスラエルの民が心を尽くして主の御前を歩むならば、主は民に対して契約を守り、常にいつくしみを持って共に歩まれるというあの約束です。イスラエルの神は、そこに臨在されるというだけでなく、契約の言葉、約束の言葉を通してそこに御臨在しているということなのです。

ですから、ただ単に神を礼拝するために、神殿に参拝するのではなく、もっと具体的に、あなたはこうしなさい、こうしてはいけないというあの十戒の御言葉を通してイスラエルの民と共にいるお方なのです。そして神殿は、この神との約束が正しく実行されたかどうかということを、確認し確かめる契約再確認の場でもあったのです。

名前というのは、単なる呼び名ではなく、名前を通してそこに神御自身がおられるという神の御臨在と神の御性質、神の働きを実行して行くものです。神そのものと言っていいかも知れません。そして、決して人間の言いなりになる神ではありません。人間の方が、神の御言葉に従っているかどうかということが厳しく問われる場でもあるのです。主は、この御名が置かれている神殿を通してのみ、イスラエルの民の指導者と会見をはたされたのです。この神殿での王の祈りを通して、主はソロモンにそしてイスラエルの民全体に応えたのでした。

今日では、ソロモンの神殿も十戒を納めた契約の箱もありません。あるのは神の名前だけです。そして私たちには、「救い主イエス・キリスト」という御名が与えられています。この方の名によってということは、イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、私たちの罪が赦され、誰でも大胆に神の前に出て祈ることが赦されているということです。イエスの御名には、神の義と愛がはっきりと示されています。この主の御名をわたしたちは、この身におびているものです。

そして、私たちを救い得る名は、この「イエス・キリストの名」以外にはありません。(使徒言行録4:12)このイエスの名が置かれているからだですから、私たち自身が、聖霊様の宿る主の聖なる神殿でもあるのです。まさにイエス・キリストいう尊い御名が置かれた神殿、これが私たちの体なのです。ですから、パウロも「あなたがたは知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(Ⅰコリント6:19)と言っています。「エ、こんな私が神殿?」と思うかもしれませんが、そうなのです。主の名によって天の父なる神様に祈るならば、私たちがあの神殿であり、神に仕える祭司でもあるのです。(バプテストの万人祭司主義)

新約の時代に入って、イエス様が私たちの救いのために十字架にかかり、三日目に復活されたことによって、もはやあの壮麗なエルサレムの神殿に行かなければ神に会うことはできない、神に祈ることはできないという時代は終わりを告げました。なぜなら、イエス様ご自身が私たちの霊的な神殿となってくださり、その尊い御名を私たちの心に留めて下さったのです。

私たちがわざわざ、エルサレムに巡礼しなくても、心から真実と霊と信仰を持って祈るならば、そこがあの主の名が置かれた神殿となるのです。その人自身が聖霊の宿る、神の聖なる神殿となるのです。なぜなら、主の名によって祈っているからです。私たちは祈る時、「天のお父様、・・・・このお祈りをイエス様のお名前を通してお祈りします。アーメン。」と言います。この時、私達自身が、主の名によってあのソロモンの神殿となるのではないでしょうか。

4.悔い改めの祈りの大切さ

最後に、三番目に、このソロモンの祈りの内容を見てみますと、その特徴は罪の悔い改めの祈りでした。8:31~53節まで、長い祈りをソロモンは神様にささげています。31節には「隣人に罪を犯した場合」、33節には「罪を犯したために敵に打ち負かされた時」、35節には「罪を犯して雨が降らなくなったとき」、37節には「飢饉、疫病、黒穂病、赤さび病、イナゴ、ばったが発生した場合に、心に痛みを覚えて祈る場合」、41節は「異邦人が祈る場合」、46節には「罪を犯して捕虜となる場合」に、この神殿に向かって手を伸ばして祈るならば、その悔い改めの祈りに応えて、彼らの罪を赦してくださいと祈っています。

神殿は主の御名が置かれ、そこに向かって私たちは祈るわけですが、その祈りの内容は、自分が犯した罪のゆえに、神様からいろんな試練や罰を受けた場合に、心からその罪を悔い改めて神殿向かって祈るならば赦して下さいというのです。実に罪の悔い改めの祈りが、ソロモンの祈りの大部分を占めていました。神殿に向かって手を伸ばして祈るその祈りの中味は、やはり、自分の犯した罪の悔い改めでした。「罪を犯さない者は一人もいません。父ダビデも、私もあなたに罪を犯しました。どうか、このわたしの祈りを聞き届けて、わたしの罪を赦して下さい。」(8:30、46)と祈りました。これがソロモンの祈りでした。

私たちの教会も、常に屋根の上には十字架がついています。これは神の神殿である教会のシンボルです。それは、やはり、私たちの罪のために十字架についたイエスキリストこそ、教会の主であることを意味しています。そして毎月毎月、主の晩餐式をして、私たちの罪のために流された主の贖いの血と裂かれた体を意味する晩餐式にあずかります。自分の罪の悔い改めと反省の祈りが捧げられます。これが、本当の意味での神殿での礼拝であり、私たち自身が神の霊の宿る聖なる神殿であることの証しでもあります。

ソロモンが、このようにして神殿で祈ったように、私たちも主の御名を呼び求め、自分の犯した罪についての悔い改めの祈りを捧げる者となって行きたいものです。そしてまた、罪を犯して悩み苦しみの中にある兄弟姉妹のために、とりなしの祈りを捧げてゆきましょう。             (岡田 久)

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