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シメオン、聖霊に満たされていた男 (ルカ2:22~35)

メッセージ
2017年12月31日富里キリスト教会

        「シメオン、聖霊に満たされていた男」
                                     (ルカ2:22~35)

1.主のために聖別された者

「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎた時、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」(ルカ2:22~24)

当時、ユダヤ人の家に子供が生まれますと、三つの儀式を行わなければなりませんでした。一つは、生後八日目に施される「割礼」という儀式です。これは赤ちゃんのおちんちんの先を引っ張って鋏でその皮の部分だけを切り取るという儀式です。中東では今もこの割礼の儀式を行うところもあるようです。二つ目は、出産した母親が体を水にくぐらせて清めるという儀式です。男の赤ちゃんの場合には40日目に、女の赤ちゃんの場合には80日目に体を清める儀式を行いました。そして三つ目は、「長子の贖い」という儀式です。これはそこにあリますように、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」という律法に基づいてなされるものです。

「聖別」というのは、神様のために特別に分けられたもの、他の兄弟たち全員を代表して代わりになるものということです。最初の長男は、後の兄弟たちを代表して代わりに神様に捧げられ、神様のものとされるということです。ある地方では、幼児を生贄として献げるという風習もあったようですし、そうでなくても神殿に預けて育ててもらうということもありました。もちろん、どこの家庭でも長男を最初に献げていましたら、民の数も減ってきますし、神殿でも養い切れませんから、その子を代償を払って買い戻すことが赦されていました。それがお金持ちでしたら、子羊を捧げるのですが、貧しい家庭の場合は、聖書にありますように山鳩一つがいか家鳩の雛二羽で贖い、すなわち買い戻すことができました。(レビ記12:1~8、民数記18:15~17)

これはとても大事な儀式でした。と言いますのは、私たちは神様からいただいたものをすべて神様にお返しするわけですが、その全部を代表してその十分の一を献げます。これが十一献金の起源です。(民数記18:21~32)つまり、すべては神様からのものです。そのすべてをお返すしますが、代わりに十分の一を献げますというものです。その十分の一を惜しがったり、ごまかしてはいけないと言うことです。旧約にこういうお話があります。「エリコの町をすべて私に聖別して献げなさい」と、主はヨシュアに言われました。これは町を完全に人も家畜もすべてを滅ぼしつくして主に返すと言うことです。その代わりに、後のこのカナンの地をすべてあなた方に与えると言う約束です。ですから、エリコの町は完全に滅ぼしてしまわなければなりませんでした。これを「聖絶」といいます。しかし、誰かがその町の戦利品をもったいないと思って、こっそり隠して自分のテントにしまっておきました。これを見た主は怒って、その家族もろとも滅ぼしてしまいました。

また、エジプトを脱出する時に、エジプト中の長男を全部聖別しました。家畜も王も家来もそしてエジプトにいたイスラエルの民もです。ただ、イスラエルの民にだけは、家の玄関の柱に子羊の血が塗ってある家だけは、そこを通り過ぎました。子羊の血のない他の家の長男の命は、全部神様にとられたのです。そしてこの柱に塗った子羊の血は、イエスキリストの十字架の贖いの血を示しています。そうなのです。キリストの十字架の死とその流された血は、神様の供えた完全なる贖いの供え物だったのです。つまり、イエス・キリストは全人類の長男、長子となってくださり、すべての人を代表して身代わりの供え物となられたのです。完全な供え物です。混じりけのない、ごまかしのない、純粋な供え物なのです。それがこの主のために聖別されたものと言うことの意味なのです。

この日曜日もそうです。一週間の最初の日を聖なる日として神様に献げるのです。これが聖なる日、聖日の意味です。そうすることによって、残りの六日間が神様に祝福されたものとなるということです。もし私たちが、その聖別されたものを聖別しないで、自分の利益や楽しみのために使ったり、神に返すべきものを返さないで自分のために残して置いたりするならば、それは神の物を盗んでいると、預言者は非難しています。(マラキ書3:8~10)ですから、私たちは神様からいただいているものをきちんと返すべきものは返す。そして残りは自分の生活のため、つつましく用いると言うことが大事ではないでしょうか。また、日曜日は聖別された日ですから、自分の楽しみや利益や必要のために用いず、まず何よりも自分自身を聖なる供え物として神に献げるという意味でも、神を礼拝することを忘れたくはないものです。

In the time of Jesus, every firstborn male is to be consecrated to the Lord. According to the Law of Moses, Jesus has been circumcised on the eight days after birth. And after the purification for forty days , the couples with Jesus went into the temple courts to offer a sacrifice to redeem their firstborn baby Jesus. It is very important ritual for Israelite to offer the firstborn baby to the Lord.
In the same way it is very important life style for christian. When we used to offer the tithe donation
we will offer the tithe as a consecration to the Lord, and also we will offer ourselves to the Lord on this Sunday as a consecration to the Lord. As far as We offer our tithe donation and ourselves to the Lord as a consecration ,we can accept the blessings the rest of our money and prosperity and other weekdays.

ヨセフとマリアの夫婦は、このとき神殿に来て、羊ではなく山鳩一つがいで贖っていただきました。それは貧しい家庭だったからです。しかし、この子こそやがて、全人類の罪のためにご自身を神の聖なる完全な子羊としてご自身を献げられ、神の贖いの供え物となってくださるお方だったのです。そして、そのことをはっきりと見て取った人がいました。それがシメオンという人でした。

2.シメオンと聖霊

「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入ってきたとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れてきた。」(ルカ2:25~27)

当時、イスラエルの人々はメシアの到来を待ち望んでおりました。そして彼らは今でも、そのことを待ち望みながら、あの嘆きの壁のところで祈っています。キリストが来てこの世界を征服してくださり、われらユダヤ人のための国を起こしてくださるようにと願っています。彼らにとって、キリストは大きな力を持った支配者であり、多くの軍隊を引き連れて天から降り異邦人を滅ぼしてくださると信じています。あるいは、世界的にすばらしい指導者としてユダヤの家系から生まれるとも信じています。そういう熱狂的なユダヤ人とは別に、静かに聖書を読みながら、信仰と希望をもって祈りつつキリストの到来をっていた人々もいました。それがシメオンという人物でした。

シメオンの特徴は、正しい人で、信仰の篤い人でした。そしてイスラエルが慰められるのを希望を持って待ち望んでいました。何よりも彼を最も特徴付けていたのは、「聖霊が彼にとどまっていた」ということです。そして聖霊によって、キリストに会うまで死なないと告げられていました。ここで気がつくことは、クリスマスの出来事は、イエスキリストの受肉と誕生がメインになっていますが、聖書を読みますと、クリスマスは聖霊の出来事でもあったような気がします。聖書によりますと、胎児であるヨハネは、母のお腹にいるときから聖霊に満たされていました。(ルカ1:15)マリアに聖霊が降り、身ごもりました。(ルカ1;35)エリザベトも聖霊に満たされました。(ルカ1:41)夫ザカリヤも聖霊に満たされました。(ルカ1:67)そしてこのシメオンにいたっては、「聖霊がとどまっていて」、「聖霊からお告げを受け」、「聖霊に導かれて」イエスとお会いしたのです。全部、聖霊、聖霊の働きです。

あんなに多くのユダヤ人がいたにもかかわらず、聖霊に満たされ、聖霊からお告げを受け、聖霊に導かれていたのは、ごくごく一部の人だったようです。このことは今の時代、主の再臨を待ち望んでいる現代のクリスチャンにとっても、同じようなことではないでしょうか。まだ見ていない事実を信じて、希望を持って待ち望んでいます。そのようにして、静かに信仰を持って聖霊に導かれて生きている人こそ、この終わりの時に生きているクリスチャンのあるべき姿ではないでしょうか。シメオンは、わたしたちにクリスチャンの手本を示しているような気がします。

エゼキエル37:9を読んでみましょう。「主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこういわれる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。』わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」
(エゼキエル37:9~10)皆さん、わたしと共に祈ってください。聖霊が吹いてくるように、そして一人一人の中に入ってくださるように、そうすればみんな生き返ります。新しく生まれ変わることができます。死んでいた者が、命と力に満たされて立ち上がります。新しい業が成されます。大集団になります。たとえどんなに人が増えても心配は要りません。聖霊が支配し聖霊が一人一人をコントロールしてくださいます。わたしたちの共通項は聖霊です。聖霊による一致を生み出すことができます。聖霊様が育ててくださいます。

The most important event of Christmas is a incarnation of Christ a Son of God .However I thought
the same important event is a work of the Holy Spirit. For example the baby John has been filled with holy Spirit in his mother's womb. Mary was conceived from the holy Spirit . Priest Zechariah
and his wife Elizabeth were filled with holy Spirit. And Simeon was revealed by holy Spirit that he would not die before he had seen the Lord's Christ, and he was moved by holy Spirit . And holy Spirit was being upon him. Do you believe the holy Spirit? And do you ask the holy Spirit to come
into yourself ?Do you pray to the holy Spirit to work within us and work in us ?The holy Spirit is living and working among us and doing tremendous thing to our church. Please ask the holy Spirit to come our church and pour down on us .

ここでわたしの反省と悔い改めが、一つあります。それは、誰かが救われてもこれを誰が育てるのか、その後のフォローアップと弟子訓練を考えたら、バプテスマはもっと慎重にならなければならないと思い込んでいました。ですから、バプテスマに消極的になることがありました。でも育てるのはわたしではありません、神様です。聖霊様が養い育ててくださいます。ですから、もっと積極的にバプテスマを祈りもとめてもよいということです。自分の判断や理性で考えて、神様の救いのご計画を妨げてはいけないのです。ですから、皆さん方もぜひこのシメオンのように、聖霊様を求めてください。聖霊様に願ってください。聖霊様にゆだねてください。聖霊様は私たちに最善のことをしてくださいます。心配いりません。祈ってゆきましょう。聖霊様に働いてくださるように。

3.聖霊に教えられていたこと

このシメオンという人は、聖霊様からどんなことを教えられていたのでしょうか。わたしはシメオンは、聖霊様から二つのことを教えられていたのではないかと思います。一つは、「メシアにあうまでは決して死なない」ということです。もう一つは、「本当の救いとは何か」と言うことを教えられていたと言うことです。

A)「メシアに会うまでは死なない」

2:26に「そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」とあります。聖書の中で、死なないと言われている人は珍しいです。もしシメオンが、このときイエス様とお会いしないならば、彼は一生いき続けることになります。不死の男です。肉体的に生きながら永遠に生き続けるのです。イエス様と会うことを避けて、永遠に生きることも考えられたはずです。皆さんはどうでしょうか。永遠に死ぬことなくいき続けたいでしょうか。わたしは人間が死ねないと言うことも、つらいものがあるような気がしますが・・・。シメオンは、神殿で幼子の主イエスと出会った時に、こういいました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」(2:29)と。シメオンは、救い主を見ることができました。ですからもはや思い残すことはありませんでした。安心して主の許に旅立って行くことができたのです。

ですから、わたしたちクリスチャンの願いは、長生きしたい、死にたくはないと言うことではなく、自分の行くべき場所を確信すると言うことではないかと思います。生きているうちに、自分が死んだらどこに行くのかをしっかりと信じることです。確かめることです。死を迎える時に、自分がこれからどこに行くのだろうか、真っ暗闇の世界に放り出されるだろうか、地獄に行くのだろうか、家族とも別れ別れになってしまうのだろうか、いろんな不安が頭をよぎります。そう思うとやはり死ねないのではないでしょうか。

でも自分が死んだら、どこに行くのかが分かっていれば、怖くはないではないでしょうか。シメオンは聖霊様の教えのとおり、今時分の目で救い主を見ることができましたので、もう安心して息を引き取ることができますと言いました。それは自分の罪を贖ってくださる贖い主であるお方が、現実にこの世に来られたということです。しかも人間と同じ肉体を取って来てくださったのです。神様の約束の言葉は、今ここに成就したと彼は確信しました。ですから彼は「今こそ、約束どおり、あなたはこの僕を去らせてくださいます。」と言ったのです。皆さんはいかがでしょうか。もう受肉されたイエス様を見ましたか?救い主にお会いしましたか?それなら、「安心して死んでゆけます」と言えるのではないでしょうか。

B)「十字架の救いを教えられていた」

更に、シメオンの言葉を読んでみましょう。
「『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。』父と母は、幼子についてこのようにいわれたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせるためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定めれらています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれれます。・・・多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2:29~35)

シメオンは、この幼子を見て、神から遣わされたメシアであることを悟りました。しかし、両親はそこまでは知らなかったようです。シメオンの言葉に驚いていました。シメオンは、イエスについて、この方は異邦人を照らす啓示の光だと言いました。そしてそれはイスラエルの誉れであるともいいました。つまりこの子はイスラエルの民だけではなく、異邦人も含めた全人類の救い主でもあるということを聖霊様から教えられていたのです。啓示の光と言いますのは、神様の側からの一方的に示された出来事だということです。

The holy Spirit taught and revealed the mystery of the birth of Christ to Simeon . He already has
been taught by the holy Spirit that this new born baby will be crucified and against by many people.
And his mother Mary will be also pierced by a sword . But the through the pain of Christ on the cross some feelings will be welled up in the heart of many people. Through the Christ passion on the cross ,the one will be saved to the heaven and the other will be perish to the hell. Simeon already has been filled and revealed by the holy Spirit and he prophesied to Mary the salvation of the world through redemption of Jesus Christ. Jesus Christ came to this world to save us. Anybody who want to look up the cross and repent their sins will be saved to the heaven. Christmas is a event of the holy Spirit and the time of salvation. Please ask the holy Spirit to come on us.

  

そして両親にこういいました。その箇所を現代訳で読んで見ましょう。「御覧なさい。この子は、イスラエルの民を二つに分けてしまいます。ある者は信じて救われ、ある者は信じないで滅ぼされるでしょう。また必ず、反対する者が起こるでしょう。この子のために、あなたは刀で胸が刺し貫かれるような思いをしなければなりません。そのことは覚悟しなければなりませんぞ。それは、この子の事件によって、人々の奥深くにある思いが、はっきり露呈するようになるのです。」(ルカ2:34~35)

つまり、イエス・キリストの十字架の贖いと死によって、母マリアの心は悲しみのあまり、槍で突き刺されるような痛みを覚えると言うのです。なぜなら、イスラエルの民もローマの兵隊もすべての人が、キリストに反対して彼を死刑にしてしまったからです。あなたはメシアの母として、このことを覚悟しなければなりませんと教えました。そして、わが子の十字架の姿を見る時、ある人は自分お罪を悔い改めて救いに入り、またある人は信じないで裁きに定められると言う結果になってしまうと言うことを話しました。

ここに「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」とあります。「ある思い」とは何でしょうか。十字架を見上げて込み上げてくる思い、それはやはり、「わたしの罪のために身代わりになって苦しみ、死んでくださったお方」、そしてそこに示される神様の愛と恵みのことではないでしょうか。それは聖霊様によって、教えられ与えられるものです。キリストの十字架と聖霊様の啓示の光、、そしてシメオンの預言の言葉、ここに三位にして一体なる一つの神の場面がはっきりと、示されたのではないでしょうか。クリスマスの出来事は、聖霊様の出来事でもあり、十字架の出来事でもあったのです。わたしたちも、いつ主が来られてもいいように、シメオンのように、信仰を持って聖霊様に満たされて主の来臨を待ち望むものでありたいと願っています。そして聖霊様によって、常にこの十字架の主を見上げつつ、主の再臨を待ち望んでゆきたいと願っています。

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