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キリスト者の葛藤 (ローマ7:13~25)

メッセージ

2013年7月14日富里キリスト教会
「キリスト者の葛藤」
(ローマ7:13~25)

1.人間に内在する罪の問題

ローマ書7:7bから読んでみましょう。「たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつて律法と関わりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが解りました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」(ローマ7:7b~11)

律法が人を殺してはいけない、人の物を欲しがってはいけない、むさぼってはいけないと言えば言うほど、人間はそれに反対して悪い方に行こう行こうとする性質を、生まれながらに持っています。これが罪です。例えば、子供に「冷蔵庫の中のものを食べてはいけません。」と言えば言うほど、逆に冷蔵庫を開けて食べてしまうようなものです。本来、聖なるものであり良いものであるはずの戒めすなわち律法が、人間の肉の中に潜んでいる罪を呼び覚ましてしまうと言うのです。その結果、戒めを破り、罪を犯させて、私を殺してしまうという結果になるというのです。

律法や法律では、ある程度、社会的な悪を罰という形で抑制することはできるでしょうが、人間の中の罪については根本的な解決を与えることはできません。むしろ、見つからなければ、罰を受けなければ何をしてもいいというような犯罪を生む結果となります。律法によっては、人間の心に内在する罪の問題を解決するどころか、かえって人間を悪と破滅に追い込んでしまう結果となります。

さらにパウロは、13節でこう言っています。「それでは、良いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通して私に死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」(7:13)

このように律法の働きは、人間が神の戒めに従え得ない存在であること、このままでは神の裁きにあって永遠の裁きにのもとに置かれているということを自覚させるためです。そして、自分は罪の奴隷となって、このまま死に至るか、それともイエス・キリストを信じて永遠の命にあずかるかのどちらかであることを人々に決断させるのです。

しかし、信仰を持った後でも、自分の内に内在して今も厳然と存在している罪の存在に愕然とすることがあります。クリスチャンなのに、こんなに自分の内に罪があったなんて、こんなんではクリスチャン失格だといつも絶望させられることがあります。いやむしろ、主を信じたが故に、自分が罪人であるということがいっそうはっきりと見えるようになってきたというべきでしょうか。クリスチャンになる前は罪を犯したら、良心の痛みを感じることはありますが、できれば忘れてしまうとしたり、隠そうとしたり、自分を正当化したりします。しかし、クリスチャンになってからは、どんな些細なことでも、罪の棘が自分の心に深く突き刺さって来るのを感じます。

2.自己破産したクリスチャン

パウロは、このローマ書7章の15節から25節までの間に、善をしようとする意志は自分にはあるが、それを実行できない自分の現実の姿について、述べています。その回数は何と六回も繰り返しています。15節「自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしている」、18節「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」、19節「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」、21節「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づく」、23節「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」、25節「私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」。

パウロのような偉大な伝道者でありましても、このように律法に対しては、それを実行することができない自分、善をしようと思いつつもそれができない自分の弱さを赤裸々に告白しています。そして、24節では、「わたしは何という惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。」という叫び声をあげています。実はこの、叫び声、自己分裂しているようなどうしようもない気持ち、もはや自分では何もできないという絶望感こそ、ある意味ではクリスチャンの真の姿ではないだろうかと思います。

と申しますのは、誰でも信仰に入りたての頃は、「よおし、今日からクリスチャンだ。罪赦された者だから何か立派な行いをしよう。」と意気込みます。そして道徳的に良いこと、人のためになることをしようと心がけます。しかし、実はこれがその人の落とし穴になるのです。どうしてかと言いますと、信仰を律法的に取られて、何か善いことをすることがクリスチャンの証しではないだろうかと勘違いしてしまうからです。律法の落とし穴に入り込んでしまっていたのです。

律法はこのようにして、未信者の人に対しては、自分の罪を明らかにして、キリストの十字架のもとに導きます。また、信者である者に対しても同じように、その人の罪を明らかにし、パウロのような自己分裂と自己破産へと追い込みます。しかし本当の信仰はここからなんですね。自分はダメだ、自分は自己分裂してしまいそうだと言って、絶望するところから次のステップが始まります。何故か、それは自分の中には、まだ厳然として罪というものが存在しているということに気がつくからです。信仰生活とはこの自分の隠れた罪を見極めたうえでの歩みだからです。

イエス様は、足を洗っている時にペテロにこう言いました。「わたしがあなたの足を洗わなければ、私とあなたとは何の関係もない。」(ヨハネ13:8)と。イエス様と私たちを結ぶのは、実にこの一点なのです。イエス様が私の罪に汚れた足を洗って下さっている。そして、人間は自分ではこの足の罪の汚れを洗い落とすことはできません。ですから、パウロは「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。誰がこの死に定められたからだから、私を救ってくれるだろうか!」
と叫んでいるのです。

この自分の内にある罪の存在に気がついて欲しいのです。信者であろうが未信者であろうが、そして自分の罪を認めてほしいのです。そういう現実の自分を受け止めてほしいのです。そこから確実に真に人間らしい信仰の歩みが始まって行くのではないでしょうか。真に神を畏れ敬う信仰です。現代人にもこの自分の罪の実態に気付いてほしいのです。そこから新しい人間造りが、真に神を敬い、隣人にも仕えるという社会が起こって来るのではないでしょうか。

3.感謝の祈り(死の体から栄光の体へ)

最後にパウロは、「わたしは何という惨めな人間なのだろう。死に定められたからだから一体誰が私を救ってくれるのでしょうか。」と嘆きと願望の声をあげています。そして、その後に突然、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。」と感謝の祈りを捧げています。

パウロはこの罪との戦いを、「神に感謝します!」という祈りの言葉を持って勝利しています。自己分裂し、死にかかっているようの自分、何もできない自分、でも神様はそのような私をも愛して下さり、御子イエス様を十字架につけるほどに愛して下さった。このあなたの大きな愛と赦しのゆえに主に感謝しますと祈る時、そこに神の霊が注がれ、弱気になっている私たちを強め、サタンの力から解放してくださいます。

ですから、何度も申しますが、現代訳聖書では、この25節をこう訳しています。「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は私を救い出して下さったのだから、私は神に感謝しないではいられない。こういうわけで、私は、生まれ変わった新しい人としては神の御心に従い、生まれながらの古い人はまだ残っているが、すでに神の救いにあずかっているのである。」

私たちはすでに神様の大きな愛によって、尊い御救いにあずかっているのだということです。たとえ罪に負けてしまうようなことがあっても、また失敗してしまうようなことがあっても、イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに主に感謝しますと祈っているのです。この祈りこそ、罪に中にあるわたしたちと神をつなぐ唯一の接点です。この感謝の祈りによって、神の霊が直ちに注がれ、罪に汚れた私たちの体をも十字架の血潮を持って洗い清めて下さるのです。これが信仰生活です。この罪の悔い改めと罪の赦しへの感謝が、私たち主を信じる者の歩みではないでしょうか。

私たちの罪を今も贖っていて下さるお方がおられます。主は永遠にあなたの罪を贖うと言われました。たとえ一時はサタンに負けたとしても、自分の肉の思い、自分の罪のゆえであることを覚えて悔い改めの祈りができます。ただ一度、新生という霊的な生まれ変わりをした者は、ただ一度だけの生まれ変わりでは十分ではありません。日々、毎日毎日、主に自分の罪の心を明け渡して行くならば、聖霊様が私たちを通して自由に働かれ、私たちの死ぬべきこの体をも生きた栄光の体へと造り変えてくださいます。そして、罪も知らずに破滅に向かっている多くの日本人に、この神の救いの恵みを証させて下さるに違いないと信じております。(ローマ8:10~11)            (岡田 久)

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