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キリストのために苦しむ恵み (フィリピ1:27~30)

メッセージ

2016年4月24日富里キリスト教会

「キリストのために苦しむ恵み」
(フィリピ1:27~30)

1.ひたすら福音にふさわしく生活しなさい

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。」(1:27a)とパウロは言っています。

「ひたすら」というのはどんなことがあってもということです。英語ではWhatever happens conduct yourselves となっています。まさに何が起こっても、自分自身を福音に生きている者としてふるまいなさいということです。
平素の生活ではクリスチャンらしく振舞っているけれども、緊急事態の時には自分中心のふるまいをするとか、教会に来ている時だけはクリスチャンらしく振舞うけれども、家に帰ると普通の人間のようになるとかということではありません。ひたすら福音にふさわしい生き方を求めるのです。

大地震などの緊急の時には、自分中心になってしまうようなわたしたちですが、それでも絶えずキリストの福音にふさわしい行動に自分を修正して生活しなさいということではないでしょうか。パウロは「わたしがそちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても」と言っています。つまり、パウロ先生がフィリピの教会に来るときには、一生懸命、主に仕えるふりをしてはいるが、パウロがいなくなると元の自分が出て来るというようなことがあってはいけないということです。パウロがいようがいまいが、牧師がいようがいまいが、あなたがたただひたすらキリストの福音にふさわしい生活を追い求めなさいと言っています。

福音にふさわしく生きるということは、本当に駄目なわたしでも、イエス様は罪や過ちを赦し贖い、常にわたしたちを受け入れて下さり、いつも共にいて下さる方です。決して見捨てないお方です。そのような主の愛と赦しと恵みに生かされている者として、感謝しつつ、一生懸命修理し、一生懸命草取りをすること、これがキリストの福音にふさわしく生きるということではないでしょうか。「ねばならない」からやるという義務的な信仰は、福音にふさわし生き方ではないような気がします。何事でも、神様からの賜物、プレゼントとして感謝してやる時に、初めて福音にふさわしい生き方となるのではないでしょうか。

感謝を持って生きるならば、パウロ先生がいようがいまいが、喜んで奉仕をすることができるのではないでしょうか。ですからパウロはこの手紙の冒頭で「わたしは、あなたがたのことを思い起す度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」(1:3~4)と言っているのです。感謝と喜び、これがキリストの福音にふさわしい生き方ではないかと思います。

2.信徒の一致が勝利のしるし

そしてパウロが、その福音にふさわしい生き方としてもっとも願っていたことは、次の三つの点でした。「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたの救いを示すものです。これは神によることです。」(1:27b~28)

一つは「一つの霊によってしっかりと立つこと」です。そして二つ目は、「心を合わせて福音の信仰のために戦う」ことです。そして三つ目は、「反対者たちに脅されてたじろがない」ということです。教会生活にはいろんな戦いが生じて来ます。わたしたちの内側からの攻撃です。そしてまた、わたしたちの外側からの攻撃です。福音にふさわしい生活は、わたしたちが心の内側にある罪やねたみや欲望と言ったものに負けないで、いつも喜びと感謝を持って祈ることです。そして外側からの攻撃は、教会の一致と信仰の一致を脅かすサタンの攻撃です。

わたしたちの教会は一つの霊によって結ばれています。神様から来るキリストの霊です。聖なる一つ霊です。ところが敵は、この一つの霊を混乱させ、異なる霊を送って来ることがあります。人を惑わす霊、反キリストの霊、悪魔の霊です。キリストの福音ではない別な福音です。ファリサイ派の教え、サドカイ派の教えです。ファリサイ派は、自分だけが聖いと思って他の人を見下す霊です。そして、自分は聖められているが、他の人はまだ聖められていない、汚れていると言って兄弟姉妹を批判します。サドカイ派の霊は、聖霊とか復活とか天使を認めない、政治的な行動の霊です。そういう霊をわたしたちはしっかりと見分けなければなりません。

わたしが心配なのは、皆さんがそういう霊的な判断ができるかどうかです。パウロが一番願っていることは、教会員がそのような霊的な判断力を身に着けることでした。「わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身につけて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことが見分けられるように。」(1:9~10)と言っています。識別する力、見ぬく力、霊的な判断力を持つことです。ですから皆さん方は、牧師がいてもいなくても、一つの霊によってしっかりと立ち、霊を見分けて、サタンの霊だと見抜いて、それに対して一致協力して立ち向かうことです。信徒同士の共同戦線を張ることです。

決して「反対者たちに脅されてたじろいではいけない」とパウロは励ましています。「たじろぐ」という言葉は、「相手の威圧感に押されてしり込みをする」ということです。サタンはいろんな圧力をかけて来て、教会の一致を壊そうとします。ですから、どんなことがあっても教会から離れないことです。一つの霊によって、心を合わせて敵に立ち向かい、教会に留まることです。聖霊の一致と信仰の一致を守ること、これがサタンに対する唯一の戦いです。

そしてパウロはこう言っています。「このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。」(1:28)と。つまりわたしたちが一致団結して福音に立ち、教会に留まるならば、それがサタンに対する勝利なのだということです。もう既に戦いが始まり、審判が起こっているのです。ヨハネ3:18に「御子を信じる者は裁かれない、信じない者はすでに裁かれている。」とありますように、わたしたちが信仰の一致と聖霊の一致を守り通して、たじろがずに共に一つとなって共同戦線を張るならば、そのことが反対者に対する神の裁きとなるのです。

3.キリストのために苦しむ恵み

「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」(1:29~30)

最後になりますが、信仰というのは、人生の苦しみから解放されたくて入信する人も少なくはないと思います。そして神様の一方的な選びという恵みにあずかって、わたしたちは救われました。まさに天からの突然の大きな恵みです。
しかし言えることは、神様は恵みだけではなく、それと同時に苦しむこともプレゼントとして与えて下さっておられるということです。できれば苦しみはノーサンキューで、恵みだけをいただきたいと願うこともあります。でも信仰生活は、間違いなく恵みだけではなく、キリストのために、福音のために、教会のために苦しむということもプレゼントとして与えて下さっていることは確かなことです。第二テモテ3:12,14に「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。・・あなたは自分が学んで確信したことから離れてはなりません。」とあります。

いろんな苦しみや迫害があっても、御言葉に留まり続けることです。これが福音にふさわしい生き方につながります。と言いますのは、やはり苦しむということなしには、この聖書の言葉がわからないということです。いやむしろ、無理やり通らされたと言った方がいいかも知れません。牧師の仕事というのは、まさに苦しむための仕事です。なぜなら、キリストと同じ重荷を背負わされるからです。パウロと同じ苦しみを通させられるからです。ですからパウロの言葉が良く解ります。詩篇の記者のあの激しく厳しい語調の詩の意味がわかるのです。それはやはり、苦しみの中を通させられたからです。信仰生活というのは、戦いであり、苦しみです。ですからパウロは、「あなたがたは、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」と言っているのです。苦難も感謝しましょう。苦難も喜びましょう。(ローマ5:3~5)

わたしも若い時はできれば、そんな茨の道を通りたくはありませんでしたし、信仰生活というのは、もっと静かで穏やかなものだと考えていました。でも苦しんで見なければ見えてこないこともありましたし、戦って来なければ解らない神の恵みということもあります。その方が確かな恵みかも知れません。そしてわたしだけではなく、皆さん方も心を合わせて一つとなって敵対するものと戦うという苦難も与えられてきたのではないでしょうか。今もその戦いは続いています。

ですから皆さん、まず第一に、一人一人がイエス・キリストの福音にふさわしい生活を目指しましょう。週報には日々の聖書日課があり、来週から暗唱聖句も始まります。御言葉をしっかりと心に刻み込んで、誰が何と言おうが御言葉にしっかりと立つ生活を目指しましょう。そして、何が正しく何が間違っているのかという判断力を身につけましょう。そして一つの霊によってしっかりと立ち、絶えず感謝と喜びをもって祈りましょう。いつも喜んでいましょう、絶えず祈りましょう、すべてのことを感謝しようではありませんか。いろんな間違った教えやこの世のことに心を惑わされることなく、信仰の一致を脅かすサタンの力に立ち向かって、愛のうちに一つの体である教会を築き上げて行きたいと願っております。    

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